私の5080問題
裕福でも出口がない──私の5080問題。
私は外資系金融機関で勤務していました。ですから一般の方より「お金で解決する」という考え方にはずいぶん馴染みがあります。実際、私も母も経済的には困っていません。母は今でもそこらのサラリーマンより多い収入があり、私が資金管理をしながら暮らしています。
それでも、50代の私と80代の母が同じ家で暮らしていると、どうしようもない閉塞感がじわじわと積もっていくのです。
世間で言われる5080問題は、たいてい「貧困」や「引きこもり」の文脈で語られます。確かにそれは深刻な問題ですし、制度的な支援やお金の援助で解決しなければならないことも多い。
でも私が感じる閉塞感は、そういう目に見える問題とは少し違います。
母は強い人です。昔ながらの価値観を持ち、介護施設に入ることも拒みます。兄は遠くで家庭を持ちながら、母の面倒を見る気はなく、連絡してくるのはたいていお金の相談のときだけ。
結局、この家のことはすべて私が背負ってきました。お金で解決できることはすべてやってきたはずなのに、家の空気だけはいつまでも昭和のまま時間が止まっているようで、私はその真ん中で身動きが取れないままです。
母にはいつまでも元気でいてほしい──そう願う一方で、そのことが自分の肩の荷を少しずつ重くしていくのも、痛いほどわかっているのです。
若い人の中には「親ガチャ外れた」と嘆く人もいます。でも私は、親に恵まれたからこそ逆に金で済ませず背負ってきてしまったと思っています。金があるのに家族の重さは消えないし、母の価値観や兄との距離はお金では変えられない。
貧困や引きこもりに目が行きがちな5080問題ですが、決して対岸の火事ではないと思うのです。
お金があっても、仕事が順調でも、家族との関係が複雑なまま年齢を重ねれば、誰にでも閉塞感はやってくる。
私の5080問題は、その象徴のような気がしてなりません。

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裕福でも、家族との時間が止まれば出口はない――。
