心に遺る場面『墓場での会合』
心の小匣に遺る文学や物語のワンシーンをつらつらと語らせて頂きます。
『墓場での会合』(1978年) 作:小松左京
奇才、小松左京の僅か6頁の短編です。
6頁。
たった6頁です。
この短さでこのメッセージ性は達人としか言い様がありません。
小松左京氏というと、『日本沈没』や『復活の日』『さよならジュピター』などの重厚なSFや『くだんのはは』のようなホラーのイメージが強いかと思います。
或いは、悪ノリのコメディでしょうか。
氏がもう一つ力を入れていたジャンルが戦争文学です。
『戦争はなかった』『春の軍隊』『影が重なる時』『見知らぬ明日』などがそうでしょう。
本作はその全ての未来に位置するような作品です。


そのお話は…………
とある都市開発事業社。
広大な山と村を買収して大きな団地を作ろうとしています。
そこに幽霊が出るとの噂が立ち、課長や地元の村長たちは確かめに昔の墓地へ赴きます。
そこに火の玉が…………
本当に出た!
幽霊だ!
見ろ、あの無残な姿を!
幽霊たちは、全身ケロイドであったり、手や足が欠損していたり、目がない者、顔の崩れた者など、ありとあらゆる“片輪”の状態なのでした。
幽霊たちは口々に何かを言ったり、拝んできたりします。
課長たちは恐れ戦きながらも、それでもこの事業を成功させるぞ!と帰って行くのでした。
いやに身綺麗な幽霊たちが消え去った廃墟の丘で、奇形の村人たちは安堵の溜め息を吐きます。
文明が崩壊した現代の奇形の村人たちは、大昔の人間の幽霊たちのお祓いに成功したのです。
どうしてあんな幽霊が出るようになったのだろう?と現代の奇形の村人たちは疑問を抱きます。
それに片足の長老が答えます。
昔あの辺りにはダンチという立派な都市があって大きな建物があったというから、その頃の幽霊だろうと語ります。
若者は訊ねます。
「町があったって───ピカの来る前にかね?」
「これ!その言葉つかっちゃいけねえという掟をわすれたか?縁起でもねえ!」
そうです。
これは核戦争が起きる前の綺麗な姿の幽霊たちを、無惨な有り様で生き永らえている現代の人々が見ているお話なのです。
“ぼろにくるまれ、ケロイドにおおわれた、惨めな畸形の一団は、念仏をとなえ松明をかかげながら、暗黒の、木一本はえていない焦土のなかを、洞窟にむかって帰って行った”

強烈です。
ホラーのようで核戦争を描いている戦争文学と言えます。
課長たちは何も知らずに核戦争で消し飛んだと思われます。だからずっとあの場所に憑いているんでしょうね。永遠に団地開発の為に働いているつもりなのです。
疾うに死んでいるのに、、、、
自らの死を意識する事すら許さずに、一瞬で彼らの生命を奪っていった核兵器の恐ろしさも垣間見れます。
姿は無惨ですが、現代(我々からしたら未来)の村人たちはまともにも感じます。彼らは不自由な体で助け合って必死に生きています。
それに文明は崩壊してしまいましたが、彼らは生きています。
人類は絶滅しなかった訳です。
汚染に、障害に苦しみながらも何とか生き延びています。
そこに微かな希望と人類不滅の強さも感じます。

冒頭ではルイジ・ピランデルロの言葉を引用しています。
本作は核兵器という絶対悪と共に、未来への不屈の意志を感じさせてくれます。
小松左京という巨人の作風を一言で言えば『人間賛歌』とわたくしは答えます。
これは『復活の日』に連なる、人類への警鐘と人類愛に他ならない、もっと読まれるべき傑作です。
※解説するにあたり、差別的な言葉を敢えてそのまま使用致しました。
彼らに無惨な障害や病をもらたしたのは核兵器だからです。
響きましたでしょうか。
皆さんの心の小匣の片隅に仕舞って頂けたら幸いです。

