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東ミソスモア語でため息のあとに続く言葉

東ミソスモア語を聞いていて、最初のうちは意味を取りにくかったものの一つが、ため息のあとに続く短い言葉だった。誰かが長く息を吐いたあと、「ヴァレ」「ネシュ」「トゥラ」といった一語だけを置き、そのまま別の話題へ移ることがある。辞書を引けば、それぞれ「まあ」「まだ」「仕方がない」に近い訳が載っているのだが、日本語へそのまま置き換えると会話の温度が合わない。ため息の前に何が語られ、誰が聞いていて、息を吐いたあとどれくらい黙ったのかによって、一語の役割が大きく変わるからである。

東ミソスモア語では、ため息そのものを発言の外側にある音とは考えにくい。言葉を言い終えたあとに漏れる場合もあれば、言葉にする前の判断として使われることもあり、その後に置かれる短い語が、ため息の意味をどちらへ向けるのかを決めている。疲れたのか、諦めたのか、まだ続けるつもりなのか。聞き手は一語だけで判断するのではなく、その前の息まで含めて受け取っていた。


ため息だけでは意味を決めない

同じ息でも、疲れと拒絶は違う

東ミソスモアの会話では、長く息を吐いたからといって、すぐ「嫌がっている」と判断しない。重い荷物を運んだ人が椅子へ座り、息を吐いてから話し始めることもあれば、難しい質問を受けた人が返事を急がないために一度呼吸を整えることもある。相手の話に反対しているときでさえ、ため息だけでは拒絶を確定させず、その後の言葉を待つ。

ここでよく使われるのが vale(ヴァレ) という語である。辞書では「まあ」「さて」「それでも」など複数の訳が付くが、ため息の直後では「いまのことを一度受け取った」という合図に近い。たとえば予定していた乗合車が来ないとわかったとき、誰かが息を吐き、「ヴァレ」とだけ言って立ち上がる。その人は喜んでいるわけでも、完全に諦めたわけでもない。まず事実を受け入れ、次の行動へ移る準備をしている。

この語があるため、聞き手はため息を自分への非難と受け取らずに済むことがある。東ミソスモア語では、ため息の後ろへ一語置くことで、「あなたに対して吐いた息ではなく、この状況についての息だ」と会話の向きを調整できるのである。

何も続かないため息もある

反対に、ため息のあとに何も言わない場合もある。その沈黙は必ずしも重いものではない。相手が答えを探しているなら、聞き手は急いで「どうしたの」と埋めない。東ミソスモアでは、難しい話の途中に生まれた沈黙へすぐ言葉を差し込まず、相手が続けるかどうかを待つ傾向があるためである。

そのため、一語が続くこと自体に意味がある。ため息のあとに「ヴァレ」と置けば、その息は一区切りになり、会話を先へ進められる。何も置かなければ、まだ発言の途中かもしれない。日本語なら同じ「はあ……」に聞こえる場面でも、東ミソスモア語では、息の後ろに語があるかどうかによって、聞き手が次に話してよい時点が変わっていた。

「ネシュ」は終わらせる言葉ではない

「まだある」を短く残す

ため息のあとに続く語で、私が最も誤解したのが neš(ネシュ) だった。単独では「まだ」「もう少し」「残っている」といった意味を持つ。仕事が終わらず、机の上に書類が積まれている人が息を吐いて「ネシュ」と言えば、「まだある」という意味になるため、理解は難しくない。

しかし、体力や気持ちについて使われると少し違う。坂道を歩いてきた人が休みながら「ネシュ」と言えば、「まだ歩ける」。長い話し合いのあとに誰かが同じ語を使えば、「まだ話すことがある」。疲労を示すため息の直後に、継続を示す語が置かれるのである。

この組み合わせには、疲れていないふりをする意味はない。むしろ「疲れている」ということを呼吸で示したうえで、「しかし終わってはいない」と言葉で付け足す。身体の状態と意志を別々に表すため、無理に元気な声を出す必要がない。

相手に続けさせる「ネシュ」

聞き手側が使うこともある。誰かが話の途中で黙り、「もういい」と言いかけたとき、相手が小さく息を吐いてから「ネシュ」と返す。その場合は「まだ聞ける」「続きがあるなら聞く」という意味になる。

強く「続けて」と言えば、話し手へ圧力をかけることになる。「ネシュ」は続きを要求するより、続きを置く場所がまだ残っていることを伝える。話すかどうかは相手に任せるため、返事のあとに視線を外す人も多い。難しい話をした人の顔を見つめ続けず、テーブルや窓へ目を移しながら「ネシュ」と言う。その短い一語によって、沈黙を終わらせずに会話だけを開いておくことができた。

「トゥラ」は諦めより整理に近い

変えられないことのあと

tura(トゥラ) は、「仕方がない」と訳されることが多い。しかし東ミソスモア語での使われ方を見ると、投げやりな諦めとは少し違う。予定していた道が雪で閉じた、修理部品が今日中には届かない、雨で乾かしていた薪を取り込まなければならない。原因を確認し、いま変えられないと判断したあとに、ため息とともに「トゥラ」が出る。

重要なのは、原因を調べる前にはあまり使わないことである。乗合車が遅れているのに、時刻を確かめもせず「トゥラ」と言えば、周囲から「まだ来るかもしれない」と返される。東ミソスモアでは、変えられることまで早く諦めるのは別の態度として見られていた。

そのため「トゥラ」は、問題を放棄する語というより、変更できない部分を切り分ける語に近い。ベルノフ峠が雪で閉じたなら、峠を今すぐ開けることはできない。しかし荷物の受け取りを翌日にする、別の道を確認する、先方へ知らせることはできる。ため息のあとに「トゥラ」と言うと、そこから「では何を変えられるか」という話へ移っていく。

人に対しては慎重に使う

ただし、人の失敗に対して「トゥラ」を使うのは慎重だった。皿を割った子どもにすぐ「トゥラ」と言えば、責任までなくなったように聞こえることがある。まず欠片を集め、怪我がないか確認し、何が起きたかを見たあとで、戻せない部分についてだけ使う。

謝罪の場面でも同じである。相手が具体的に何をしてしまったかを話している途中に、聞き手がため息をついて「トゥラ」と言えば、「もういいから黙れ」という響きを持つことがある。反対に、修復できることを一緒に決めたあとで同じ語を置けば、「壊れた事実そのものは戻らない。ここから先を考えよう」という意味になる。

短い語ほど、置く順序が重要だった。

名前がため息の後ろに来ることもある

呼びかけを最後まで遅らせる

東ミソスモア語では、人名や敬称を文末に置くことがある。最初に名前を呼んで相手の注意を強く引くより、文全体を言ったあと、その言葉を誰へ渡すのかを最後に示す言い方である。この特徴は、ため息のあとにも現れる。

たとえば家族が無理な予定を立てて帰ってきたとき、年長者が息を吐き、「ネシュ、マレク」と言うことがある。直訳すれば「まだだ、マレク」だが、声の調子によっては「まだ話は終わっていない」「まだやることがある」「まだ大丈夫だ」のどれにもなり得る。名前を最後に置くことで、ため息を含む発言全体がようやくその人へ向けられる。

怒っているときほど、この名前が省かれることもある。普段なら語尾に相手の名を置く人が、「トゥラ」だけで終えると、聞き手は距離を感じる。東ミソスモア語では名前を呼ぶことが親しさだけでなく、相手へ発言を手渡す動作でもあるため、名前がないことが冷たさとして聞こえる場合があった。

名前だけが続くため息

もっと短い形では、ため息のあとに人名だけを言う。これは叱責にも慰めにもなるので、文字だけでは意味がほとんどわからない。

子どもが何かを壊し、本人も失敗を理解しているとき、大人が深く息を吐いてから名前だけを言う。その声が低く短ければ注意になる。一方、長く困難な話を聞いたあと、同じように名前を置けば、「聞いている」「あなたの話として受け取った」という応答になる。

ため息が感情を示し、名前がその感情の向きを定める。間に動詞も形容詞も必要としない。この使い方を知らないうちは、私は名前を呼ばれた人が次に何を答えるべきなのかわからなかった。しかし東ミソスモアの人たちは、必ずしも答えを求めているわけではなかった。名前を置くことで、沈黙の相手を明確にしているだけの場合もあった。

家の中と外ではため息の言葉が違う

家では言葉が短くなる

家族の間では、ため息のあとに一語だけ置く言い方が多い。共有している事情が多く、説明を省けるからである。鍋の底を見て食事が足りないと気づけば、料理をしている人が「ヴァレ」と言い、誰かがパンを追加する。外で雪が強くなれば「トゥラ」で予定変更が伝わる。誰も「このままでは出発できないので」と最初から説明しない。

この短さは、親しさだけから生まれるわけではない。家では相手のため息の種類を長く聞いてきている。疲れているときの呼吸、苛立っているときの呼吸、考えながら吐く息を、家族はある程度区別できる。同じ「ヴァレ」でも、誰が言ったかによってその後の行動が変わる。

役所ではため息を言葉で補う

一方、役所や店、初対面の相手との会話では、ため息だけに意味を任せない。窓口の担当者が書類を確認しながら息を吐けば、相談者は「何か問題があったのか」と不安になる。そのため「ヴァレ、ここは直せます」「トゥラ、今日は処理できませんが明日なら可能です」のように、すぐ具体的な説明を続ける。

東ミソスモアでは、ため息そのものを失礼として完全に抑えるのではなく、誤解される可能性が高い場所では言葉を増やしていた。親しい相手には短い一語で足りるが、関係の薄い相手には、息が何を意味したのかを明示する。ため息の扱いにも、人との距離が現れていた。

年長者のため息から覚える言葉

子どもは、これらの語を辞書的な意味から覚えるわけではない。家族が使う場面を繰り返し聞き、ため息との組み合わせとして覚えていく。「ネシュ」は祖父が薪を割る途中で休んだあとに言う言葉、「トゥラ」は母親が雨を見て洗濯物を取り込むときの言葉、「ヴァレ」は予定どおりにいかないとき、大人が次に何をするか考え始める前の言葉、といった具合である。

だから同じ地域でも、家庭によって頻度が違う。ほとんど「ヴァレ」を使わない家もあれば、祖母の口癖が孫へそのまま移る家もある。発音にも小さな差があり、語尾を短く切る人、少し伸ばして次の言葉へつなぐ人がいる。東ミソスモア語を学ぶ外国人が文法的には正しく使えても、妙に不自然に聞こえるのは、この呼吸との長さが合っていない場合だった。

特に「トゥラ」を明るく素早く言うと、地元の人には軽すぎて聞こえる。逆に毎回深いため息を付ければ、必要以上に深刻になる。短い語だから簡単なのではなく、前後の呼吸まで含めて一つの表現になっていた。

ため息のあとに言葉を置く理由

私は長いあいだ、ため息を言葉が途切れたときに出るものだと思っていた。言いたいことをうまく言えないから息が出る、あるいは言葉にするほどでもない感情が呼吸として漏れる。その考え方からすると、ため息のあとにさらに一語を加える東ミソスモア語の習慣は少し不思議だった。

しかし実際には、ため息と短い語は別々の仕事をしていた。ため息は身体の状態を隠さない。疲れたなら疲れた呼吸をし、困ったなら少し長く息を吐く。そのあとに「ネシュ」を置けば、それでも続けるという意思が加わる。「トゥラ」なら、変えられない部分をいったん閉じる。「ヴァレ」なら、起きたことを受け取り、まだ結論を決めずに次へ進む余地を残す。

つまり東ミソスモア語では、感情を言葉だけで説明しようとしない代わりに、呼吸だけで相手へ判断を任せることもしなかった。息と語の間で、身体と意味を分けていたのである。

ため息をついた人が、必ず落ち込んでいるとは限らない。腹を立てているとも、諦めたとも限らない。東ミソスモアで会話を聞いていると、その息の直後まで待たなければならないことがある。

息を吐く。

少し黙る。

そして「ネシュ」と言えば、まだ続く。

「トゥラ」と言えば、戻せない部分を置いて先へ進む。

「ヴァレ」と言えば、答えを急がず、いま起きたことを一度そこへ置く。

東ミソスモア語でため息のあとに続く言葉は、ため息を説明するためのものではなかった。呼吸だけでは決めきれないその人の次の向きを、ほんの少しだけ聞き手へ知らせるための言葉だった。

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