均衡という名の静寂『平和とは名詞ではなく、動詞』
核保有国は互いを撃てない。
正確には、撃つことができた。ただ、撃てば自らも滅ぶ。
相互確証破壊という名前がつき、人類は半世紀のあいだ、その恐怖の均衡の上で眠った。
・静寂は、静けさではなかった。
引き金に指をかけたまま、誰もが息を殺していた。
「平和とは軍事力均衡である」
この命題が正しいとしたら、平和とはつねに、暴力と表裏一体なのか。
・禁じることで、価値は均衡する
麻を語るとき、似た逆説が現れる。
20世紀、列強は麻を禁じた。
❌禁止は、恐怖を生む。
💀恐怖は、価値を生む。
💰価値は、欲望を呼ぶ。
🫧欲望は、禁止を強化する。
・この循環は、抑止論の文法と構造が同じだ。
日本では戦前まで、麻(大麻草)は農作物として広く栽培されていた。
注連縄、袴、帆布、日常に溶け込んだ素材だった。
大麻取締法施行後、その記憶は急速に消えていった。
皮肉なことに、法律が「大麻」という言葉に特別な磁力を与えた。
■体の内側にある、もうひとつの均衡
1990年代、科学者たちは人体に奇妙な発見をした。
脳と神経に、カンナビノイドを受け取るための受容体がすでに備わっていたのだ。
外から取り込む前に、体はすでに知っていた。
炎症を鎮め
痛みを調整し
睡眠と覚醒の境界を管理する。
その働きを「ホメオスタシス」と呼ぶ。
恒常性の維持。
体内の均衡を保つ装置。
ここで問いが生まれる。
体の「平和」もまた、均衡に過ぎないのだろうか。
闘わないのではなく、拮抗した力が互いを打ち消しているだけではないか。
静寂は、何もない状態ではない。
見えない力が、ちょうど釣り合っている状態だ。
では、「本当の静」とは何か
軍事均衡としての平和。規制による価値の逆説。体内の恒常性。
これらは同じ論理の、異なる現れ方かもしれない。
だとすれば、「静」は達成するものではなく、絶え間なく保ち直すものだ。
平和は名詞ではなく、動詞かもしれない。
麻という植物が、数千年にわたって人間と共にあり続けたのは、その動詞の営みに、何らかの形で加担してきたからではないか。
禁じられても消えなかったのは、均衡を求める体の記憶が、それを呼び続けたからではないか。
均衡の意味を問うことは、静寂の意味を問うことと同じ。
そしてその問いは、あなたの体の内側にも、すでに用意されている。
静を、纏う。
