第一話「雷のあと」【マルティン・ルター編】
第一場:空
一五〇五年、七月二日。
夏。故郷からエアフルトへ戻る道は、
乾いた土の匂いがしていた。
マルティン・ルターは歩いていた。
法学を学ぶ大学生だった。
背には、本があった。
太陽は高く、
道端の草は熱にうなだれていた。
異変は、音よりも先に肌に現れた。
風が変わった。
湿り気を帯びた冷たい風が、
汗ばんだ首筋を撫でる。
マルティンが空を見上げた。
つい先ほどまで白く輝いていた雲の端が、
どろりと黒く濁り始めている。
遠くで、獣の唸りのような音が響いた。
一度目。まだ遠い。雲の奥で光が走る。
二度目。光と音が重なった。空が割れるような轟音。鳥が一斉に飛び立ち、視界から消える。
雨が降り始めた。大粒の礫のような雨が、
乾いた地面を叩き、一瞬で泥に変えていく。
風が荒れ狂い、視界を白く塗りつぶした。
そして、光が世界を焼き切った。
衝撃。音ではない。熱と、震動。
雷が、すぐそばに落ちた。
マルティンは地面に叩きつけられた。
泥の味。焦げた匂い。
目を開けても、網膜には白い残像が
焼き付いて離れない。
指先が震える。呼吸ができない。
死ぬ。今、ここで、自分は終わる。
第二場:誓い
雨は容赦なく叩きつける。
マルティンは泥の中に顔を埋めたまま、
必死に指を動かした。
指が、動いた。
感覚が戻るにつれ、
全身を激しい戦慄が襲う。
「聖アンナ……」
絞り出した声は、
雨音にかき消された。
「聖アンナ様、お助けください!」
その先の言葉が、口から出た。
「――私は、修道士になります!」
言ってしまった。
その瞬間、空を覆っていた暴力的な光が、
わずかに和らいだように見えた。
激しい鼓動だけが、耳の奥で鐘のように
鳴り響いていた。
やがて、雷鳴は遠ざかっていった。
あとに残されたのは、降り続く雨の音と、
泥まみれで横たわる一人の青年だけだった。
第三場:街の呼吸
雨が止み、雲の切れ間から
午後の光が差し込み始めた頃、
マルティンはエアフルトの市門をくぐった。
濡れそぼった服。泥のついた顔。
しかし、街の誰も彼を気に留めない。
広場の市場では、商人たちが
手慣れた動作で荷馬車の帆布を外している。
「ひどい降りだったな」
「ああ、おかげで涼しくなった」
そんな会話が、水溜まりを跳ね上げる
荷車の音に混じる。
軒下からは学生たちの笑い声が響き、
酒場からは麦酒の匂いが漂ってくる。
教会の軒先では、物乞いが
無造作に十字を切り、再び道ゆく人に
手を差し出している。
誰かがパンを買い、
誰かが笑い、
誰かが荷車を引く。
そして、教会の鐘が鳴る。
鐘の音に合わせて、人々が
わずかに身体の動きを変える。
ある者は立ち止まる。
ある者は歩みを緩める。
マルティンはその中を歩いた。
誰も、彼を見なかった。
濡れた靴が、重く石畳を踏んだ。
第四場:約束
夕暮れが街を包み始める。
マルティンは、住み慣れた
学生寮への道に立っていた。
大学での学び。
用意されていた将来。
それらが、まだそこにある。
それでも、
もう同じようには見えなかった。
「……修道士になる」
もう一度、口にした。
雷は、もう遠くへ去った。
それでも、彼の耳にはまだ
あの音が残っていた。
約束してしまった。
あとは、守るしかなかった。
彼は歩き出した。
