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統合失調症回想録:『神につかれた男の話』12

精神疾患である統合失調症を経験した私の回想録『神につかれた男の話』です。
今回掲載するものは、スマホでも読みやすいように文章を整えた改訂版です。
記事は順番に読めるよう、マガジンにまとめておきます。全13回になります。残すところ、あと1回になります。
もし続きが気になった方は、固定記事にあるKindle版を読んでいただけたら嬉しいです。
この物語が、誰かの心に小さな何かを残せたなら幸いです。

【前回の話】

神につかれた男の話

2部 日はまた昇る
(8)神の恵みⅠ        [3659字]

暖かい春の兆しが感じられる三月になった。

連日雨が続く中、男は三日間、高級住宅街にある支店で、パンチパーマの同僚と勤務することになった。

その同僚は煙草と酒を好み、いつも男に「休め、休め」と気遣ってくれる人だった。

警備室で、男は何気なく同僚に話しかけた。

「最近、目に映るものが新鮮に感じられるんです。この前は久しぶりに妻と映画を観に行きました。その映画では、悪とされていた存在を魅力的に描いていて、素直にいいなと思いました。ポリコレに染まっているんですけど、それがまた良かったんです」

同僚は聞き返した。

「ポリコレって何だ?」

「たとえば、黒人を主人公にするとか、目の覚めるような美人ではなく、日常で見かけるような女性を登場させるとか、そういうものです。売り上げは落ちるみたいですけど、観る人の意識を変えていこうとする製作者の矜持のようなものを感じました」

同僚は頷いた。

「ほう。その意識に、まだ時代が追いついていないのだな」

男は続けた。

「ポリコレで思い出したのですが、他社の映画で、無意識に感情を司る存在がいて、その存在が意識に影響を与えているという作品がありました。私には、それが本当のように感じられたんです。無意識には、意識とは別の意志を持つ存在がいるような気がするんですよ」

すると同僚は、すかさず言った。

「沈思黙考!」

そして、立て続けに話し始めた。

「昔、評論家か何かの本を読んだことがあってな。その評論家は、電車の中で子供連れの母親を見かけたそうだ。子供が電車内で騒いでいるのに、母親はぼんやりしている。評論家は思わず、なぜ子供を注意しないのかと母親に声をかけた。すると母親は、夫を亡くして、今後の見通しが立たず、途方に暮れていたと言ったそうだ。話をしていたら、ふとそんな本を読んだことを思い出したよ」

仕事の時間が始まり、話はそこで終わった。

男は「沈思黙考」という言葉を初めて聞いたので、辞書で調べた。

沈黙して、深く物事を考えること。

その言葉と同僚との会話は、男の心に残った。

仕事中、男はずっとその会話について考えていた。

あの母親は、評論家に声をかけられた時、一体どんな気持ちだったのだろう。

恐縮だったのだろうか。

評論家は、母親が何を考えているのか分かっていたとしても、声をかけただろうか。

きっと、声をかけたように思う。

そして母親を元気づけるような言葉をかけただろう。

恐縮の対になる言葉は、感謝が当てはまる。

その時、母親は感謝の気持ちになったのではないだろうか。

男はさらに考えた。

恐縮。

恐ろしいという字が使われている。

恐怖。

恐縮の対義語を感謝とするなら、恐怖の対義語は愛がしっくりくる。

今考えていることが本当かどうかは分からない。

ただ、自分はこの言葉を選択した。

その言葉を選択したことで、自分の周りの世界への関わり方も変わっていくのだろう。

家に帰り、男は食事の支度を始めた。

妻が帰ってきた。

食事をしながら、男は話を切り出した。

「今日、仕事をしながら思ったんだけど、人間は自分の選択した言葉によって、周りの世界を変えていくように思うんだ」

男は、仕事中に考えていたことを妻に話した。

それを聞いた妻は、一言で返した。

「それって、見方が変わるってことでしょ」

「そう言われると、そんな気もするけど、ちょっと違うような……。ほら、頭で考えるとか、心で思うとかあるじゃない」

男は釈然としない様子だった。

妻は畳みかけるように言った。

「私は、心も脳にあると思っているわ」

男は何も言い返せなかった。

会話はそこで終わった。

後で男は、脳の対義語がないか調べてみた。

AIによる回答は、脳に対義語はない、というものだった。

さらに検索すると、脳の対義語を機械とする言葉を見つけた。

脳の対義語は機械。

もし脳に心があるのなら、機械にも心はあるのだろうか。

だが、機械の脳ともいえるAIは、脳に反対語はないと言っている。

もし人間を、神の住まう機械と考えるなら、人間の肉体にも心は宿るはずだ。

死体にも心は残っているのかもしれない。

男は、遺体は大切に扱わなければならないと思った。

その時、新たに「命」という言葉が心に浮かんだ。

翌日、通勤電車の中で、再び命という言葉が男の心に浮かんだ。

男は気になり、命の対義語を調べてみた。

AIの回答は、命には直接的な対義語はない、というものだった。ただし、命がなくなることを意味する言葉として「死ぬ」がある、と書かれていた。

男は気の向くまま、さらに検索した。

すると、ある電子掲示板で「命の対義語は何か」という質問を見つけた。

その答えに、あるお笑い芸人の名前があった。

しかも、その答えがベストアンサーに選ばれていた。

男は驚いた。

なぜその答えが出てきて、なぜ質問者が納得したのか、皆目見当がつかなかった。

男はすぐに、その芸人について調べた。

その芸人はコンビを組んでいて、子どもがたくさんおり、不可思議な単語を叫ぶネタを繰り返すとあった。

男は思った。

これは命の反対というより、命そのものではないか。

その芸人のことが、気になって仕方がなかった。

銀行に着くと、ATMで黙々と掃除をしているパンチパーマの同僚が目に入った。

男は開口一番に尋ねた。

「Rという芸人を知っていますか」

同僚は答えた。

「知っているけど、どうかしたの?」

男は話し始めた。

「最近、言葉の対義語を調べるのがマイブームになっていて。たまたま命という言葉が心に浮かんだので、命の対義語を調べていたんです。AIの答えは死でした」

「うん、うん」

同僚は相槌を打った。

「でも、調べていくと、ある質問掲示板に、命の対義語はRだと書かれていたんです。しかも質問者も、その答えに納得している。どうしてだか分かりますか?」

男は興奮気味に尋ねた。

同僚は少し考えた。

「うーん、俺にも分からないな。その芸人は一人でやっているのだっけ?」

「いや、コンビを組んでいて、その相方がこうして『命』とか言って叫ぶのですが……」

「それだ!」

二人は同時に互いを指さし合い、大笑いした。

男は言った。

「いやあ、これですっきりしました。最近、常々思うんです。私と話す人が、まるで自分の師匠のように思えるんですよ」

同僚は満面の笑みを浮かべた。

後で男は思った。

自分は、この質問掲示板の書き込みに神の痕跡を見た気がする。

果たして、AIにこの発想が出来るだろうか。

それはともかく、神はユーモアも兼ね備えているようだ。

やはり、人間は愛されている。

その夜、男は妻と待ち合わせ、近くのフードコートへ食事に行った。

最近、妻には小さな変化があった。

これまであまり本を読む姿を見せたことがなかった妻が、自分から本を探して読むようになったのである。

一冊の本に出会い、それを気に入ったらしい。

しかし男は、そもそも妻が本を読みたいと思うようになったこと自体が、大きな変化だと感じていた。

男は妻に尋ねた。

「今日は仕事どうだった? イライラしたことはあった?」

妻は目を輝かせて答えた。

「それがね、イライラはあったんだけど、すぐに収まったの。その時、客観的にこの状況を冷静に見ている自分がいて、イライラしている自分を可笑しく思ったりもしたの」

男はそれに同調した。

「誰から聞いたか思い出せないけど、仏教にそんな教えがあった気がする。舞台でも、役者は演じている時に、遠くで見つめている自分がいるね」

妻は続けた。

「それでね、以前は気持ち悪いと思っていた例の同僚も、平気になったの」

男は尋ねた。

「どうして、そんな心境になったの?」

妻はしばらく考えてから答えた。

「きっかけはよく分からないけど、自分がちっぽけなものに感じるようになったというか、自分の中の全能感みたいなものがなくなったわ」

男は安心した。

「それは良かったね」

妻は言った。

「でも、これが今だけのことじゃないか、ちょっと心配」

男は力強く答えた。

「直感というか、気づきというか、とにかく今の自分の気持ちに素直に従っていれば大丈夫だと思うよ。大事なことは心が教えてくれる。失敗も含めてね。それに、今の自分をもう手放せなくなっているはずだよ」

妻は静かに言った。

「なんか今、鬼が去ったと心の声がした」

男は相槌を打った。

「きっと、その鬼はS子のことを見守ってくれていたんだと思うよ」

「そうね」

妻は小さく返事をした。

帰り道、男は妻に思い切って本の話をした。

「八章仕立てで、今は最後の章を書いているから、もうすぐ本は完成しそう。今は日記のように、その日あったことを書いているよ」

すると妻は一言、言った。

「読んでもいいかも」

男はとっさに視線を外した。

「いやいや、無理に読まなくていいよ」

「読まなくていいの?」

妻は聞き返した。

男は小さく答えた。

「やっぱり読んでほしい」

妻は隣で笑っていた。

その後も、穏やかな会話が続いた。

男は思った。

何か、自分の周りの世界が大きく変わってきている気がする。

それも、良い方に。

今までいろいろあったけれど、今が一番いい。

きっと明日も、そう思っているのだろう。

世界はまた少し、男に優しくなった。