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初禅への道(瞑想基礎論1)──如何にして変性意識を獲得するか?──

行息の時には数を隨いなし、相随の時には念を隨いなし、止の時には定を隨いなす。

行息時爲隨數。相隨時爲隨念。止時爲隨定

安世高訳『佛説大安般守意經(No. 0602)in Vol. 15』 大正新脩大藏經テキストベース 



 日本人なら誰もが目を瞑り、しばし黙念と端坐して、座禅の真似事をしたことがあるだろう。しかし、5分もする頃には、ご多分に漏れず、足はムズムズしてくるし、雑念は湧くし、鼻頭は痒くなるし、尻やら背中やらは痛くなるしで、我々の意識は無念無想状態には程遠い状態となる。しかし、根性の据わった方々であれば、そこから一念岩をも通すという風に、歯を食いしばり、全身から脂汗でも出す勢いで、達磨大師もかくやと、十分、十五分、三十分、中には一時間と気合と根性で座り続けることであろう。
 しかしながら、これは──悲しいお知らせではあるが──瞑想ではない。上述の如き所行は、単なる自分との戦い、すなわち我慢大会という名の苦行(タパス)に過ぎない。
 同じ一時間を座るのなら、単なる気合と根性を養成する、スポ根(スポーツ根性)アニメ的な昭和方式ではなく、せめてきちんとした令和式のタイパ(タイム・パフォーマンス)を考慮した瞑想状態に基づいて座って欲しいというのが、私の願いなのである。
 それ故、この記事に関しては、全ての読者の福祉を念じつつ、挨拶代わりに無料で公開する。



瞑想状態と非瞑想状態の区分


 上述の如く、目を瞑り、神妙な面持ちで、畳の上に結跏趺坐ないし、半跏趺坐あるいは胡座で座り、印(ムドラー)を組みつつ、「今日の夜ご飯は何を食べようかしら」だの「足が痺れた」だの「山田はムカつく野郎だ」だの「村上さんは素敵な人だ、あの人には彼氏or彼女がいるのだろうか」だの「仏陀は偉いヤツだ、俺も仏陀にならなくてはならぬ」だの「アナーハタチャクラって一体なんだろう」だの激しく雑念を疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドラング)よろしく起こし、「もう限界だ足が痛過ぎる」「いやいやもう5分頑張るんだ」「いやもう無理だ」「いやいやあと5分頑張ればクンダリニー覚醒するかもしれないぞ」という内言の続く状態は、外形的には座禅をしているように見えるが形式的な瞑想でしかなく、これは非瞑想状態と言わざるを得ない。
 それでは瞑想状態とは何かと言うと、変性意識に入った状態ということになる。変性意識状態とは、換言すれば被催眠状態のことである。もう少し分かりやすく言えば、「意図的に入った心地よい感覚を伴う軽い金縛り状態」が変性意識状態であり、被催眠状態である。
 例えば退行催眠によって前世を思いだすように促された被術者は、施術者に誘導催眠をされることで、前腕や指を上に挙げた状態のまま、十分、十五分とその姿勢をキープすることが可能となることが知られている。普段であれば苦しい姿勢が、感覚が遮断されたプラティヤーハーラ(制感)状態となることにより継続が可能となるわけである。
 つまり感覚の遮断されたプラティヤーハーラ(制感)が達成されていないからこそ、足がムズムズし、背中や足が痛いといった上述の如き、感覚との戦いが生じ、瞑想が我慢大会の内面における地獄絵図的会場となるのである。

 因みに専門的に瞑想状態を定義付ければ、原始仏教の「止(シャマタ)」の9段階における1段階目である、初禅(プラターマ・ディヤーナ)、すなわち五禅支の尋(ヴィタルカ)・伺(ヴィチャーラ)・喜(プリーティ)・楽(スカ)・一境性(エーカーグラーター)を伴ったものが瞑想状態となる。ちなみに、五禅支の尋・伺・喜・楽・一境性を伴った瞑想状態は、パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』では、若干の用語上の違いはあるにせよ、尋(ヴィタルカ)・伺(ヴィチャーラ)・歓喜(アーナンダ)・我想(アスミター)の四支からなるサヴィカルパ・サマーディと呼ばれている。



 ここで読者諸氏に理解して欲しいのは、感覚が遮断されたプラティヤーハーラ(制感)の状態に入った為に、身体を微動だにせずに座ることが可能となったのであって、身体を微動だにしないことによって瞑想状態に入るということではないということである。つまり順番がそもそも逆なのである。ここに初心者の先入観、瞑想へのアプローチの最初の誤解があると言えるであろう。



変性意識に入る方法を私が見出した経緯


 私は二十代後半の時に村木弘昌氏の『釈尊の呼吸法』(春秋社)を読み、そこで引用されているパルティア(イラン)出身の三蔵法師安世高の『大安般守意経』の経文の冒頭に掲げた数節を解釈することにより、10秒ぐらいで変性意識に入る方法を確立したのであった(因みに、村木氏の書物を読んでも、私がこれから述べる明確な方法は書かれてはいない。それは氏が正しく安世高の経文を解釈できていない結果である)。簡単なコツさえ掴めばすぐに変性意識には入れるのである。そして変性意識に入って初めて今までの自分の瞑想が形だけのものであり、ただの我慢大会でしかなかったことが分かったのであった。それは画期的であり、ある種、感動でもあった。そしてその感動を読者と分かち合うことがこのささやかな記事の目標ということになる。



『安般守意経』の六つの要訣


 安世高訳の『大安般守意経』は、経文と釈義文が渾然一体となっていて、非常に読みにくい書物である。そして釈義文は当時の格義仏教による、権威付けや故事付けが多いのでそこから重要な経文を炙り出すことが必要になる。そして炙り出された経文において、呼吸法から瞑想に入り、その結果に至る段階は6つの要訣に分かれる。すなわち「数息・相隨・止・観・還・浄」の6つである。そのうち、今回の記事で主に取り上げるのは最初の三つ、すなわち「数息」「相随」「止」である。

 とは言え、探究心豊富な読者の為に、老婆心ながら後半の三つを最初に大要だけ解説しておく。


「観(ヴィパシャナー)」

変性意識状態で様々な対象を観察することにより、その不浄性・無常性・無我性を観想し、対象に対する浄性・常性・我性の日常的な思い込みを破壊すること。

「還(ヴィヴァルタナ)」

上記の観を繰り返すことにより、対象への思い込みに変化が生じること。


「浄(パリシュッディ)」

観の繰り返しにより、物の見方が変化し、実際に修業者における輪廻の源である無明と貪瞋痴が破壊され、浄化されること。



「数息」「相隨」「止」の解説


 「数息」「相隨」「止」について経文では、冒頭に掲げた如くこのように説明されている。「行息の時には数を隨いなし、相随の時には念を隨いなし、止の時には定を隨いなす(呼吸の時に〔呼気と吸気に〕数を従わせるのが数息である。呼吸の時に、〔呼気と吸気に〕気づきとしての念のみを従わせるのが相隨である。〔呼吸の時に鼻頭などの身体の任意の箇所に〕意識を定め置くのが止である)」。そして、ここで重要なのは「相隨」による媒介なのである。

 一般的に瞑想に興味のある方々なら、数息観と言うことで自分の呼吸を数える瞑想方法を試したことがあるだろうし、ある任意の対象に意識を固定する止(サンスクリットで言うシャマタないしパーリ語におけるサマタ)瞑想を試したことがあるだろう。しかし、ここで「相随」を媒介にして、「数息」→「相随」→「止」という段階を踏み、意識を階段式に瞑想状態へと移行させることが変性意識に速やかに入るポイントなのである。つまり「数息」と「止」を全く別の技法として、独立したものとして捉えるのではなく、一つの瞑想において、「数息」→「相随」→「止」という意識状態の階梯と見做すことがポイントなのである。


 「数息」とは、意識状態から言えば、呼吸の流れに沿わせて、「ひとつ」「ふたつ」「みっつ」といった数字をカウントするところの内言を伴った意識状態である。
 「相隨」は、数字を数える内言を停止させ、その代替としての「気づき」を呼吸の流れに沿わせた意識状態である。
 「止」は、呼吸の流れから離れて、「気づき」のみを身体の一点、すわなちハートや鼻頭の一点、下丹田の一点などに止め置くことを指す。
 「数息」「相隨」「止」は、それぞれ、「数息」から「相隨」の移行段階においては、内言としての言語意識が捨てられ、「相隨」から「止」の移行段階においては、呼吸に意識を沿わせることが捨てられて、「気づき」のみの一点集中がおこなわれる。
 そして、「相隨」から「止」への移行段階に至り、プラティヤーハーラ(制感)が実現されて変性意識が獲得されるのである。この時、人の身体は、何となく心地よい軽安の感覚と共に、身体は不動化し、全身がバリアで包まれような感覚となり、身体を動かすのが億劫となる。それは水中に浮いたようでもあり、ある種の物憂げな浮遊感を伴うものとなる。これがすなわち仏教教学に述べる、初禅(プラターマ・ディヤーナ)、すなわち五禅支の尋(ヴィタルカ)・伺(ヴィチャーラ)・喜(プリーティ)・楽(スカ)・一境性(エーカーグラーター)を伴った瞑想状態である。

「数息」(①内言としての数のカウント②呼吸への意識のフォーカス③気づきが渾然と一体化した状態)

「相隨」(①は捨てられ、②呼吸への意識のフォーカス③気づきが渾然と一体化した状態)

「止」(①②は捨てられ、③気づきのみが身体の一箇所に固定された状態)



「数息」「相隨」「止」の階梯的方法論


①まず静かに坐り、身体の力を抜いてリラックスして呼吸を整える。呼吸が自然に落ち着いてきたら、呼吸が身体を出入する流れを感じる。そして、その呼吸の流れに沿わせてその呼吸を数える。吸気の流れに「ひとー」と言う内言を沿わせ、吐く息に「つー」と言う内言を沿わせる。これを十まで繰り返す。これが数息である。

②心中の内言としての数えることをやめ、呼吸の流れそのものに「気づき(注意)」を向ける。吸う息、吐く息の一つひとつに気づきを伴わせ、その流れに「気づき」を従わせるのである。これが相隨である。

※この段階で重要なのは、「気づき」を単なる抽象的な働きとしてではなく、実質的な「もの」として感じることが要点である。内的な「声」という実質が、「気づき」という実質的な「もの」に転換したその差異、その高低差を、瞑想者は感じるべきなのである。ここにおいて人は「声」という実質から「気づき」という、より高い段階に階段を上ったことに結果し、内的な声という粗雑な対象から、より微細な「気づき」という対象に意識がシフトチェンジすることで、意識はより深い段階に達することになる。しかし、変性意識に達するには、これだけでは余りに呼吸の動性が強過ぎるが故に「止」の導入が必要となるのである。

③呼吸に相隨していた「気づき」を呼吸から引き離して、一点に止まらせる。安世高訳の『安般念守意経』では鼻頭をおすすめしているのだが、胸の内、いわゆるハートに「気づき」の実質を止めるのを、私はおすすめする。

 呼吸の流れに相隨していた「気づき」の実質を呼吸から引き離し、20代後半の当時の私は「離陸させる」と表現していたが、 ハートの中心に止め置くようにする。呼吸から引き離された「気づき」の実質を、ハートの一点に集中させて、その「気づき」の実質にだけ「気づき」を向けるのである。そうすると不思議なことだが、身体は硬直したまま安定し、無理に固定させずとも身体は固まった状態となる。なにやら感覚の情報が遮断されたような状態になり、何となく宙に浮いた状態、軽安の状態に達する。これが初禅であり、プラティヤーハーラ(制感)の実現であり、変性意識の達成であり、被催眠状態なのである。



より簡潔な「数息」「相隨」「止」の階梯的方法論の記述


①呼吸の時に、呼気と吸気のその流れに、数のカウントを伴う内言を従わせるのが「数息」である。

②呼吸の時に、呼気と吸気のその流れに内言の脱落した純粋な「気づき」の実質を従わせるのが相隨である。

③呼気と吸気の流れに沿わせた「気づき」の実質を呼吸の流れから「離陸させて」、ハートの一点に純粋な「気づき」を集中させるのが「止」である。

④ハートという対象性から「気づき」を離陸させて、「気づき」自体に「気づく」ようにするのが、さらなる一歩である。



結語


 「数息」「相隨」「止」の階梯的瞑想において、①言語意識を伴った動的な呼吸への気づき→②動的な呼吸への気づき→③静的な身体の一点に対する気づきの集中→④気づきそのものへの気づき、というように対象がより粗雑なものから、精妙なものへとフォーカスが変わり、動的なものから静的なものへと変わっていることが分かるだろう。本質的に意識の質は、意識の対象によって変化するのである。俗なオカルト的言い方を許していただければ、意識は対象の波動に同調するのであり、その対象をより精妙、より静謐なものへと段階的に進展されることが、深い瞑想を生む秘訣ということになる。そして、ここにおいて、「我々は思ったものになる」という命題が真なのである。






 


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