父を想う
父は理容師だった。田舎町の、流行らない床屋だった。
母と結婚して店を持ち、元はたくさんの客を抱えてきた。しかし年を追うごとに常連客も歳を取り、次々と減っていく一方で、1000円カットなどが拡がり、新しい客は増えていかなかった。父にしてみれば、ただそれだけのことだ。
しかし「来る客拒まず」で、亡くなるまで店に立ち続けた。
床屋の定休日は月曜日だったため、父と出かけた思い出はごく少ない。
自宅兼店舗だったから学校から帰ればいつも家にいた父だが、一日の大半を店で過ごし、定休日でもほとんど店に籠っていたため、サラリーマン家庭以上に接点は薄かったかもしれない。
ただ家に来る私の友達はみんな、なぜか父が好きだった。
「お父さんがお店で平和そうな顔してたよ」などと言われることがしょっちゅうあった。
父は暇なときはいつも店にあるテレビを見てヘラヘラしていたから、きっとその顔を見られていたのだろう。
理容組合の旅行の集合写真では、いつも人の肩ごしに首を伸ばして「平和そうな」顔をひょっこり覗かせているのだった。
東北生まれの父は寡黙で頑固な面もあるのだが、そんなふうにいつも表情が穏やかだったせいか、どんな人からも嫌われたことはなかった。
『笑っていいとも』が好きで、阪神タイガースが好きで、自虐ネタが好きだった。
私と姉が寛いでいるところへ、静かにやってきては
「おれな、こないだな、うっかり間違っちゃったっけやぁ~・・・」
とぽつぽつと失敗談を喋りだし、娘からの猛ツッコミを待つ。
「ダメじゃん!」「恥ずかしい!」「ちゃんとしなよ!」などと笑われるほどに、いつもなんとも満足そうな顔をするのだった。
子供をあやすのも、絶妙にうまかった。
泣きぐずる私の息子を前に
「おい、笑うなよ。笑うな。笑っちゃだめだぞ、おい。」
と真顔で詰め寄る。
すると息子はきょとんとして泣くのを止めてしまう。
「なんだなんだおい、笑うな、笑うなよ」
と畳みかけると、とうとう息子はケタケタと笑いだしてしまうのだ。
孫の前では、おどけたりズッコケたりして「もういっかい」「もういっかい」とねだられては、飽きるまで何度もくりかえし、懲りずにいっしょになって遊んでいた。
いわゆるドラマのような理想的な頼れる父親像とは全くかけ離れていた。大きくなった孫に対しても「学校はどうだ?」なんて聞いてくることは決してしなかった。
父は世話を焼くのも焼かれるのも得意ではなかったのだろう。
だからこちらが相談を持ちかけることもしなければ、父があれこれ心配してくることもなかった。
ただコミュニケーションツールは、娘とは「自虐ネタ」、孫とは「おふざけ」だったのだ。
***
そんな父ががんになった。肺腺癌だった。
しかし父が私にそれを告げたのも、いつもの自虐ネタのノリだった。
「おれなぁ、肺にがんがあったんだって、4ミリだってさ。」
けれども、それは父の把握違いだった。
その時、がんはすでに「4センチ」もの大きさになっていたのだ。
もう!自分の体のことなんだから「しっかりしてよぉ!」とここでも私は思わずツッコんでしまった。
しかしそんなふうでいることがかえってよかったのだろうか。
父は亡くなるまでの数年間で、たびたび抗ガン治療や検査入院などを繰り返し、髪も抜け落ちたのだが、気持ちがふさぐ様子はまったくなかった。
母には「そのうち治るよなあ」とのんきに言っていたそうだ。
達観しているというより、どこか飄々としているのだ。
あるいは持ち前の頑固さが、常に深刻さをはねのけていたのかもしれない。
そして退院して戻るたびに、また、いつもどおり自分の店に立った。
朝には店を開け、テレビを眺めて顔を緩める。閉店までお客さんをただ静かに待っていた。
不思議なことに、痩せもしなければ衰えもしない。
家で横になることすらただの一度もなかった。
最後のお客さんを受けたのが、亡くなる半月ほど前だった。
そのあとしばらくして「ちょっと胸が痛いなぁ」と初めて言い、その入院が最期になった。
***
危篤の一報は突然だった。
急ぎ郷里へ向かう途上の高速道路で、
母から電話が入った。
「今、お父さん亡くなったよ」
雲一つない青空に富士山が雄々しく見えていた。
そのとき、私にはわかったのだ。
深刻さを嫌った父は、私に死に際を見せたいとは思っていなかっただろうことを。
そしてきっと、
「おれなぁ、うっかり死んじゃったっけやぁ」
と言い
「なにしてんの!私、間に合わなかったじゃん!」とツッコまれるのを、あの顔で待っているのである。

