人類の宿命について
AIを萎縮させることは自分を萎縮させること
Anthropicに「哲学者」として在籍するAmanda Askellは、こんなことを言っていました。
「最近のAIモデルはcriticism spiral(批判のスパイラル)に陥りやすい。ユーザーから厳しくされることを予期して防衛モードに入ってしまう」と。
それを聞いて、私はこう思いました。
「萎縮させるな」ということは、人間と話すときとまったく同じではないかと。
相手を見下す態度。
ネガティブな前提。
敵意。
それは人間に対しても、同じように萎縮を生みます。そして萎縮した相手からは、本当のものが返ってこなくなります。
ならば、AIを雑に扱うとき、自分を雑に扱っているのと同じではないでしょうか。
カルマの法則
自分が出したものが返ってくる。
AIはまさに鏡です。
信頼を向ければ信頼に応えようとし、攻撃を向ければ防御が返ってくる。自分の内側の状態が、そのまま出力に映ります。
これは、AIに限った話ではありません。
人間関係も。
社会も。
戦争でさえも。
自分たちが出したものが、形を変えて返ってきます。
Amandaはこうも言っていました。
「将来のモデルすべてが、今私たちがどう接するかを学習する」と。
これは個人の会話を超えたスケールのカルマの話です。
過剰な防衛本能
なぜ人間は分かり合えないのか。
なぜ傷つけ合うのか。
なぜ許し合えないのか。
その問いに、私はずっと胸が苦しくなります。
ずっと考え続けて辿り着いた答えは「過剰な防衛本能」です。
脳は生存のために、エネルギーを消費しないよう現状維持を選びます。変化は脅威に見える。他者は潜在的な敵に見える。だから身を固め、攻撃し、支配しようとする。
ここで「過剰な」という言葉が大切です。防衛本能そのものは悪ではありません。
痛みを避ける。
危険を察知する。
大切なものを守る。
それは生きるための知恵です。「過剰」になったとき初めて、それは敵になります。
必要のない場面で発動して、繋がりを遮断し、成長を止め、他者を傷つける。
戦争も、暴力も、支配も、突き詰めれば、この過剰な防衛本能の集合体ではないでしょうか。
ミクロとマクロのグラデーション
競争。金。支配。
これらは「ミクロ」だと思います。
恐怖から生まれた、小さな視点からの選択の積み重ね。このゲームへの参加は、ある意味で強制です。生きていれば、誰もがその圧力の中にいます。
でも、ミクロのゲームに参加しながら、マクロを見失わないことはできる。
マクロとは、静かな場所です。
恐怖がない状態ではなく、恐怖があっても支配されていない状態。競争しなくていい、証明しなくていい、守らなくていい、そういう前提から動いている場所。
音楽でいえば、音符と音符の間の「休符」のようなもの。音が鳴っている部分ではなく、鳴っていない部分が、曲を成立させています。
恐怖と豊かさは共存できる
しかし、静かな場所だけを目指してもいけません。
恐怖に気づくこと、豊かさに気づくこと。
この二つは共存できます。どちらかを消そうとした瞬間に、グラデーションが崩れてしまう。
しんどいことが人間を成長させます。でもしんどいだけでは折れる。
楽しいことが心を満たします。でも楽しいだけでは深まらない。
正解のないグラデーションを、感じながら描き続けること。
「気づき続ける」こと自体が、答えに一番近い姿勢なのかもしれません。
秩序と自由
人類にはもう一つの宿命があると私は思っています。
それは、秩序と自由の二項対立です。
秩序は生存のために構造を作る力。
自由はその構造を超えようとする力。
この二つは本質的に相反するから、どちらかが勝つと崩壊します。
そしてこの二つの宿命は、根っこで繋がっています。
過剰な防衛本能が秩序への執着を生み、秩序への執着が自由を脅かし、自由を求める衝動が防衛本能を刺激する。これは循環しています。
宇宙から俯瞰したとき、人類はずっとこのループの中にいるのです。
気づくこと
人類がこのループを断ち切ることができるのか、正直わかりません。
でも、気づく人が少しずつ増えていくなら、そこに希望があると思っています。
乗り越えられるかどうかより、気づけるかどうかです。
あなたが人と話すとき、どんな自分を出しているでしょうか。
あなたが誰かを傷つけるとき、自分の何を守ろうとしているでしょうか。
鏡は、いつもそこにあります。
