クラクフから1時間半。私が、アウシュヴィッツで言葉を失った話
朝7時。
クラクフ中央駅前のバス停で、私はオシフィエンチム行きのバスを待っていました。
オシフィエンチム(Oświęcim)。
ドイツ語で言うと、アウシュヴィッツ(Auschwitz)です。
クラクフから北西に約60km。バスで1時間半の距離。
私はその日、自分が「観光客」として行くべきなのか、まだ答えが出せないまま、バスに乗りました。
🚉 行く前から、ずっと迷っていた
正直に書きます。
アウシュヴィッツに行こうかどうか、クラクフ滞在中ずっと迷っていました。
歴史の本で読んだ場所。映画で観た場所。 でも、現地に立つことが、私のような旅人にとって「正しい」のか、わからなかったんです。
友人に相談したら、こう言ってくれました。
「行くべきか迷っているなら、行ったほうがいい。 そこで何を感じるかは、行ってからしか決められないから。」
その一言で、私はバスに乗りました。
🚪 「ARBEIT MACHT FREI」の門の下で
9時前、第一収容所(アウシュヴィッツI)に到着。
ガイドツアーに合流して、最初に通ったのが、有名な鉄の門でした。
「ARBEIT MACHT FREI」 — ドイツ語で「働けば自由になる」。
写真で何度も見ていた言葉でした。
実物を見上げた瞬間、私の足が、半歩、止まりました。
なぜ止まったのか、自分でもわかりませんでした。
ただ、写真で見るのと、その下に立つのとでは、文字の重さが全然違いました。

🥫 ガラスケースの中の、無数の缶
ガイドさんに連れられて、いくつかの建物を回りました。
その中で、私の中で何かが本当に崩れた瞬間があります。
ある建物の中、大きなガラスケースの前に立った時。
中には、空っぽの缶が何百個も山積みにされていました。
ガイドさんが、静かに言いました。
「これは、Zyklon B(チクロンB)の空き缶です。」
ガス室で使われた殺虫剤の缶。
それまで、私の頭の中で「歴史」は、抽象的な数字でした。 600万人。120万人。 数字が大きすぎて、人として想像できる範囲を超えていた。
でも、目の前にあるのは、一缶一缶が、誰かの命の終わりに使われた物体でした。
数字が、急に、物体になった瞬間でした。
私は、ガラスケースの前で、しばらく動けませんでした。

🚂 第二収容所、ビルケナウへ
第一収容所から、シャトルバスで5分ほどの場所に、ビルケナウ(Auschwitz II-Birkenau)があります。
ここが、もう一つの衝撃でした。
第一収容所が「博物館」のように整理された場所だとしたら、ビルケナウは、ただ、広い。
地平線まで続くような敷地に、当時のバラックや、線路が、そのまま残っている。
正門の下から、まっすぐ伸びる線路を見た時、私はまた、足が止まりました。
「この線路の上を、列車が、人を運んできたんだ」
頭で知っていたことが、足元の砂利の感触として、初めて私の中に入ってきました。
線路の途中で、当時の貨車が一台、保存されていました。
木造で、窓がほとんどない、家畜運搬用のような小さな貨車。
ガイドさんが言いました。
「この一台に、80人から100人が押し込められていました。何日も。水も食事もなく。」
私は貨車の前で、その数字を、人の体積で想像してみました。 できませんでした。


🤐 ツアー中、誰も笑わなかった
ガイドツアーは、3時間半続きました。
参加者は、世界中から来た約30人。 イタリア人、ドイツ人、アメリカ人、日本人、そして韓国人の私。
不思議だったのは、誰一人として、笑わなかったこと。
普通、観光地のガイドツアーって、合間合間に少し笑いが起きるものです。 ガイドさんのジョークだったり、写真撮影の時の冗談だったり。
でも、ここでは、誰も笑わなかった。 誰も、自撮りしなかった。 携帯を出すのも、ためらう人が多かった。
国籍も言語も違う30人が、3時間半、ほとんど無言で歩いた。
その「静けさ」自体が、この場所の答えだと、私は思いました。
🌫 ビルケナウの線路の終わりに、静かに座った
ツアーが終わって、参加者が散り散りになった後。
私はもう一度、ビルケナウの中に戻りました。
線路がまっすぐ伸びている、あの場所。 その線路の終わりまで、ひとりで歩きました。
線路の終わりには、何もありませんでした。 ただ、雑草が生えていて、空が広がっていて、風が少し吹いていた。
その「何もなさ」が、一番、痛かったです。
ここには、本当に多くの命の終わりがあった。 でも、今は、ただの草地です。
世界は、何もなかったかのように、続いていく。
それが、悲しいのか、救いなのか、私には、まだわかりません。
✈ 帰りのバスの中で、ずっと考えていたこと
帰りのバスの中、誰とも話す気が起きませんでした。
クラクフ駅前の停留所で降りた時、街は普通に夕方を迎えていました。
人々は普通に歩いていて、レストランは普通に開いていて、子どもたちは普通に笑っていた。
その「普通」が、不思議でした。
そして、その「普通」のために、人類は今も、いろんなことを忘れないように努力しているんだと、思いました。
📝 アウシュヴィッツが、26歳の私に教えてくれた3つのこと
① 「現地に立つ」ことには、本でもネットでも代えられない重さがある
私は本でも映画でも、ここの歴史を「知っていた」つもりでした。 でも、現地の砂利の上に立った瞬間、知っていたことが「感じる」に変わった。
② 「忘れない」ことは、感情ではなく、選択である 人は、辛いことを忘れるようにできています。 でも、忘れないことを「選ぶ」ことが、社会の品格になる。 それを保存しているポーランドという国に、深く頭が下がりました。
③ どこの国の歴史も、無関係ではない 韓国人として、日本に住む者として、ヨーロッパの真ん中で、私は自分の国々の歴史を新しく考えていました。 旅は、自分の根っこを再発見させる行為でもある。
クラクフ滞在の最後、私はもう一つの場所に向かいました。
地下120メートル、世界遺産の岩塩坑「ヴィエリチカ(Wieliczka)」。
アウシュヴィッツが「人類の最も暗い面」だとしたら、ヴィエリチカは「人類が、地下に作り上げた静かな祈り」のような場所でした。
そのギャップが、あまりにも大きくて、私はクラクフという街を、一生忘れられないと思っています。
その話は、また次回に書こうと思います。
あなたが旅の中で、「ここに来てよかった」と「ここに来て心が重くなった」が同時に存在した場所は、ありますか?
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