『おぞましさと戯れる少女たち』感想
本ノートは2部構成となっており、こちらは後編である。
前半では書籍「おぞましさと戯れる少女たち: フェミニズム美学から読む日本現代美術の少女表象」の内容を整理した。後編であるここからは感想を述べる。前編を未読の方は是非こちらも読んでいただきたい。なお、後編からでも十分に楽しめるように努めて書いた。
前編はこちら
PSYCHO-PASSの回想
本書を読んでまず思い出したのは PSYCHO-PASS の標本事件だ。その犯人である王陵璃華子は女子高に通う少女であり、美術部の部長を務めていた。父、王陵 牢一は少女の肉体をモチーフにした残酷な画風で高名な芸術家だった。彼女は父の作風を模して、同級生の女子を殺害し、おぞましき作品に仕立て上げてそれを社会に提示した。


こちらが彼女の作品の1例である。この作品を「おぞましさと戯れる少女たち」の理論に当てはめて分析してみると、次のようなことがいえる。
頭部は首から上にあるべきだが、腹部にうまっている
手が生えているべき肩から足が生えている
まっすぐ伸びているべき足がねじれて絡まっている
十字架に貼り付けになっている。人であるべきなのに神の扱いである
服を着ているべきなのに裸である
書籍のコンセプトを踏まえると、少女の当事者である王陵璃華子から出てくるおぞましき少女のアートは「少女の葛藤、苦しみを表したおぞましさ」であるはずだ。しかし写真の通り、彼女の作品は苦しみというよりは、澁澤龍彦、会田誠の系譜に連なる、少女をモノとするアートにみえる。
狡噛 慎也は彼女の作品を「メッセージがない」と評したのはそこである。王陵璃華子は作中において女子高を鳥かご、女性を規範に押し込める檻、主体性を奪う施設であると述べ、その苦痛を吐露した。つまり、彼女は少女の苦しみを抱えていたにもかかわらず、作品にはその苦しみではなく、父の作風の模倣、男性の目線が反映されていた。その芯のブレを狡噛は見抜き、槙島は飽きてしまったのではないだろうか。
王陵璃華子に関してはこちらの記事を参考にした。
書籍の内容に対する感想
少女への消費欲望は、癒しの希求である
前編では本書の内容を整理し、最後に私自身の自説を提示した。少女に対する男性の性欲と女性の郷愁は、外形が違うだけで、深いところでは同じものを求めている。それは規範主体としての疲れからの一時的な解放――癒しである。これがアブジェクションの魅惑の正体であり、両性の少女応答を貫く共通動機だ、というのが前編の到達点だった。
後編では、この癒し論を軸に、本書への感想と、そこから派生する現代社会への観察を展開していきたい。
澁澤批判を癒し論から読み直す
前編で見たとおり、澁澤龍彦は少女をモノとして位置づけ、男性の眺める、所有する対象とした。本書はこの澁澤的少女愛を、現代美術における少女表象の典型的な「男性の眼差し」として批判する。著者の批判は要するに、こうした少女愛がミソジニーである言った。
この批判は、男性中心社会の構造として読めば理解できる。男性中心社会において、少女がマイノリティとして苦しみを押し付けられてきたことは事実であり、その構造の改善が必要だという論点には異論はない。
ただ、癒し論の観点から読み直すと、別の様相も見えてくる。
前編で示したように、澁澤的少女愛の動機は単純な性差別ではなく、規範主体としての疲れからの解放を求める動きである。これは、男性中心社会という社会構造の問題と、男性個々が抱える本能的な欲望の問題とが、区別すべき問題であることを意味している。
欲望そのものを否認すると、その先に何が待つだろうか。
おそらく性愛そのものの衰退である。性愛は元来、規範社会の論理に従属しない動きである。前編で見たように、人が誰かに惹かれること自体が、社会の論理が及ばない領域への接近を含んでいる。その動きをミソジニーや病理として全否定すれば、規範に従順な性愛だけが残る。だが、規範に従順な性愛とは何なのか。それを果たして性愛と呼べるのか。
著者は澁澤の少女愛を「閉じこもる自己愛」として批判する。少女を偏愛し、外界を遠ざけ、二人だけの世界に閉じこもる――これが自己中心的な態度として位置づけられる。
だが、愛とはそもそもそういうものではないだろうか。
偏愛し、外界を遠ざけ、二人だけの世界に閉じこもる――これは愛の病理ではなく、愛の本質だ。愛は社会の客観的評価軸とは別の強く主観的な価値基準に基づいている。誰かが世界中で最も大切である、と感じることは、社会全体の論理から見れば偏りである。この偏りこそが愛の核であり、これを排除した「公正で開かれた関係」は、愛ではなく資本主義社会における高価値、つまり値段が高いというわけだ。
そう考えると、「自己愛」「ミソジニー」と病理化することの帰結は、性愛の場そのものを社会規範の内側に押し込めることになる。性愛とは規範からの逸脱としてしか成り立たないものだ、という前提を共有しないかぎり、性愛は痩せ細っていくだろう。
整理すると、本書の澁澤批判は、現実の少女の保護という観点では正当な議論である一方、欲望そのものをも否認する射程まで持つと、性愛の場そのものを規範社会の内側に閉じ込める帰結に向かう、という構造を持っている。
欲望の存在と、現実の少女の保護は、別の層の問題である――この区別がなされないかぎり、両者をまとめて否認する論調になりかねない。そうなれば、規範に疲れた主体が癒される場を、また一つ失うことになるだろう。
太陽と影:規範社会の拡大と「陰」の縮小
現代は多様性の時代だと言われる。だが実態は、社会規範の内側での多様性に限られている。規範の外側にあるものは、むしろ以前より厳しく裁かれているのではないか。
スペインのトマト祭りは「もったいない」、日本の男根祭りは「卑猥」、女体盛りや人間シャンパンタワーは「キモい」と裁かれる。グローバル化と歩を合わせて、価値観そのものが世界規模で統一化されつつある。マクドナルド化は飲食だけの話ではない。
規範社会を太陽、反社会を影と呼ぶならば、太陽が近づいて影が小さくなっているような感覚が現代にはあるのではないだろうか。日向は生きるのに必要だが、ずっと立っていれば熱いし疲れる。陰で休むことが要る。しかし陰そのものが縮小していけば、規範に疲れたヒトの行き場はなくなっていく。
そして規範を完全に守り続けることは、誰にとっても不可能である。誰もがどこかで陰に降りる必要がある。だからこそ祭礼、芸能、夜の街、家庭、フィクション――文化はあらゆる形で陰の場を保持してきた。前章で論じた澁澤的少女愛も、その陰の一つの形態として位置づけられる。
陰が縮小すると、何が起きるだろうか。次章で見るように、性愛そのものが対称的に変容していくことになる。
性愛の対称的入れ替え
女性が男性中心社会に進出していくと、社会の周縁から中心へと位置が移っていく。だが前編で見たとおり、男性が女性に性的魅力を感じる構造的根拠は、女性が反社会の象徴であることにあった。つまり女性が社会の中心側に立つほど、性愛対象としての構造的位置が失われていく。
その究極系は、基本的に男性が男性を性愛の対象としないように、女性が男性の性愛の対象ではなくなる地点である。これは女性個々の魅力の話ではなく、ラカン的な「男=社会/女=反社会」という古典的な象徴秩序の構造が解体された後の構造的帰結として読める。
男性側の癒しはどこに向かうか。前編4.1で触れたとおり、現実の女性が客体性を失っていくと、男性の癒しは少女幻想に流れていく。アニメ、マンガ、フィギュア、アイドル――その隆盛は、現実から退却した「反社会の象徴としての女性」の代替として理解できる。
問題は女性側の癒しはどこに向かうか、である。社会の中心側に立つ女性は、かつて男性が女性に求めていたもの――反社会の象徴としての他者――を、男性に求めるようになるはずである。
その表れが、職業的反社会である。ホスト、3B(美容師・バンドマン・バーテンダー)、kpopやジャニーズに代表されるアイドル。全男性が反社会化するのではなく、特定の男性カテゴリが反社会的役割を職業として担う形だ。
しかし、女性が伝統的に担ってきた反社会の場は、職業以外にもう一つあった。家庭である。
対称性の論理を真に成り立たせるならば、男性の社会退出・家庭入りも帰結として現れることになる。専業主夫、ヒモ、早期リタイア、家庭中心の男性――女性が家庭から社会に出ていくのと対称的に、男性が社会から家庭に降りていく動きである。「職業として反社会を担う」のに対し、社会の中心から自ら退出して反社会の場に入る形である。
整理すると、性愛は対称的に入れ替わっていく:
男性:女性(性愛対象) → 少女幻想(フィクションへ退避)
女性:男性(社会的庇護者) → 反社会の象徴としての男性
男=社会/女=反社会という古典構造が、男女の役割の対称的な入れ替えとして解体されつつある現象が、現在進行している。
しかし、一つ疑問なことがある。現状、女性の社会進出は広がりつつあるが、女性の下方婚が増えているようには見えないということだ。
職業的反社会が対称性の帰結として現れているならば、自分より社会的地位が低い、家庭的な男性を、女性が性愛対象として選ぶ動きが広がっているはずである。だが実際には、女性が経済力や社会的成功を備えた「強い」男性を求める傾向は依然として強い。なぜか。
ここには、女性の中で本能と理性が拮抗しているという構図が見えてくる。
本能のレベルでは、女性はやはり強い雄を求める。進化生物学的に言えば、子の生存に有利なパートナー――身体的・社会的に強く、資源を確保でき、リーダーシップを発揮できる雄――を選ぶことは、長い時間をかけて埋め込まれてきた選好だと説明される。これは個人の意志でどうにかなる類のものではない。
一方、理性のレベルでは、対称性を完成させる選択は逆方向にある。社会進出した女性が真に対称な性愛関係を結ぶには、家庭的で、社会から退出した、いわゆる「弱い」男性を性愛対象として受け入れる必要がある。形態Bは、その理性的選択の延長線上にある帰結である。
理性は本能を超えられるのか。
社会進出した女性が、頭では「家庭的な男性も対等なパートナーだ」と理解しながら、性愛対象としては依然として強い雄を求める。果たしてどちらに転ぶのだろうか。
結論:陰をどこに確保するか
ここまで、本書の澁澤批判を癒し論から読み直し、規範社会の強化と陰の縮小を眺め、性愛の対称的入れ替えを見てきた。
各章を貫いていたのは、規範主体としての疲れと、その疲れから降りる場の必要性という、ありふれた人間の条件である。少女に魅了されるのも、影を求めるのも、ホストや家庭に降りるのも、根は同じところにある。
反社会への欲求が病理化されていく現代の流れの先に、何が待つだろうか。誰もが立っていられない場所に皆を立たせ続ける社会である。マジョリティで居続けることは不可能だが、マイノリティであることは裁かれる――この構造が極まれば、性愛の場、休息の場、文化の場が同時に痩せ細っていくことになるだろう。
本書は現代美術における少女表象を読み解いた優れた著作である。著者の問題意識は確かなものであり、女性アーティストの作品評価には強い説得力がある。私が示したのは、その本書から派生する別の読み筋にすぎない。
規範に疲れた主体としての我々が、どこに陰を確保しうるか――この問いは、女性だけの問題でも、男性だけの問題でもない。少女に魅了される者、少女のおぞましさを描く者、家庭に降りる者、ホストに通う者、誰もが太陽から離れたいと願っている。
陰が消えていく時代に、我々はどこで休めるのか。本書を起点として、この問いが残った。
