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徴用文志としての井伏鱒二

 井伏鱒二は1898年、現在の広島県福山市加茂町の富豪の農家に生まれ、福山誠之館高校に入学し、同校の庭の池に二匹の山椒魚が飼われていた事から、後に初期作としての「山椒魚」が生まれた。

 1917年に上京し、早稲田大学に入学するも中退し、1923年の関東大震災の時には早稲田の下宿から立川あたりまで歩き中央線経由で一時帰郷している(このあたりの事は「荻窪風土記」に詳細が書かれている)

 話しは前後するが、井伏鱒二が荻窪に居を構えたころに15歳の女性と結婚し、阿佐ヶ谷文志村の中心的な人物になり、1930年には太宰治にも知り合い、初の作品集『夜ふけと梅の花』を出版している。

 さて、ここから本題に移ろう。井伏鱒二は数々の文学作品を世に出しているが、彼が戦争にかかわる事となったことは、あまり知られていない
 井伏鱒二も他の作家らと同様に徴用されたのだ。弟子となっていた太宰治は徴用検査を免れ、井伏が徴用された時には東京駅まで見送りに行ったとされ、井伏と一緒に徴用された中村地平高見順などもいたが、見送人の数は多くなかった(太宰治や亀井勝一郎の名前もある)。

 先生に挨拶して、どうぞ、お元気で、と云ったら、「──うん、有難う」と先生は頷いていてから、小さな声で、「──厭だね、こんなの。本当に厭だね」と言った。(小沼丹翡翠」)

「──厭だね、こんなの。本当に厭だね」という言葉に、戦争に対する井伏鱒二の気持ちが象徴されていると考えられる。
 井伏鱒二は1941年に大本営派遣の陸軍報道班員の一人としてシンガポール(昭南)に駐在することになったが、開戦を知ったのは南シナ海の船上での事であり、ジャーナリストの松本直治と知り合ったのも船上であり、それ以降、行を共にし、退役後も友情を交わしていた。

 尚、松本直治の著作でもある「原発死」の序文を書いたのも井伏鱒二である。

放射能と書いて無常の風とルビを振りたい。(井伏鱒二)

https://note.com/roro101577/n/na6cd3936a50d

 さて、本題に戻ろう。さて、徴用されシンガポールでの駐在員となった井伏鱒二は大本営の意に添うような記事を書いたのか。答えはNOであったのだ。そのことは、井伏の作品「花の街から」や「徴用中のこと」「遥拝隊長」などから読み取る事もできるし、また、黒古一夫氏の著作「井伏鱒二と戦争(花の街から黒い雨まで)」にも詳細が書かれている。

 尚、冒頭トップの画像は「黒い雨」の映画にも登場する「遥拝隊長」の一コマである。
 この続きは近日中に書くが、今日は井伏鱒二の「黒い雨」と、それの原本となった「重松日記」の説明をされている、私の郷里でもある広島県神石高原町小畠にある「志麻利」の館長の重松文宏氏のお話しを聞いてみて下さい。

つづく


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