井伏鱒二と重松静馬の昭和天皇批判
明日の8月6日は広島での原爆平和祈念式典で髙市総理がどのような挨拶をされるかも注目でしょう。
さて、上のトップ画像は1946年12月に昭和天皇が巡幸という名目で広島を訪れ、護国神社前の広場で5万人の聴衆を前に「我慢しなさいよ。これからは復興に力を注ぎなさい」と言うような慰霊でもなく、被ばく者無視の演説をぶちあげていたとお思い下さい。地元の中国新聞でさえ、昭和天皇ヨイショ記事を書いているのですから。この場所に当時、5万人の聴衆が集まったのは家父長制の影響も考えられます。
ところで、井伏鱒二の「黒い雨」の第一資料でもある、重松日記には広島に原爆が投下された翌日の7日から昭和天皇が俗にいう「玉音」を行った15日の午後までを日記として記し、子孫のために残すつもりで書いた記録を相馬正一氏の熱心なすすめで、『黒い雨』の上梓から35年目にして、重松文宏(小畠の重松邸の主人)氏の許可が下りた事から出版されたのが「重松日記」で、その中の「続・被曝の記」8月14日の文中に次の重要なくだりがあります。(171p)

それは、徒歩で爆心地を3人(静馬、シゲ子、安子)で抜け、古市の工場に辿り着いた翌日、7日から死者を戸板やトタン板に乗せ、運ぶ兵士の様子や亡骸の様子を田んぼの畦道で見て思わず呟いた事を書き留めた記述です。
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畦畔に腰を卸して、郷里の鎮守の八幡宮に、「大自然の道理に反しております国が、一日でも早く負けて、この戦争が終結いたしますよう、何卒御加護なし下さいませ。そうして、この残酷さから脱して、一人でも多くの人が天寿を全ういたしますよう、何卒御救い下さいませ。私は此の戦争は、我が国が大自然の道理に逆らって起こした戦争で(過度な人工的操作
極端な環境改変や、命の扱いを「モノ」としてのみ見る態度)、我が国の負けだと存じます。勝たんといたしますれば永引き、本土作戦にでもなりますれば、今に幾倍するか判らない残酷さになります。勝てば軍人が社会を横行し、総ては軍隊式となり、人間の自由は失われます。一刻も早く負けて、穏やかな自由で平和の世界になりますよう、どうか御加護なし下さいませ。」と腹のどん底から祈った。
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まず、重松氏が最初に懇願したのが、郷里小畠村の八幡宮の神社です。八幡宮というのは応神天皇を祭神とする神社で奈良時代以前から九州地方で広がり中世以降には全国的に流行し、現在では約4万4000社あるとされている武家神社です。この武家神社と天皇との結びつきは以下の図で示すことがでできるでしょう。

そして、井伏鱒二の「黒い雨」文中の「わしらは国家のない国に生まれたかったのう」というくだりがこれにあたり、つまり、天皇体制論として八幡宮は下位であり、武家の将軍が天皇を任命するのではなく、天皇が将軍を任命するという構図ができていたのですが、それが戦後になって変化したと考えられるでしょう。下の文春動画が少し参考になるかも知れません。
そして、何故、重松が「八幡宮」に願い、「我が国が大自然の道理に逆らって起こした戦争で我が国の負けだと存じます。」と言ったのか、これは8月14日であり、広島にいる重松にとってはポツダム宣言受諾などは知らないはずであり、また、昭和天皇は日本が敗戦に追い込まれている事も知りつつ、熱田神宮と伊勢神宮の三種の神器のことで「先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。[中略]万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ」(『木戸幸一日記』)と述べているのです。つまり、八幡宮と熱田神宮、伊勢神宮は違うのであり、人間として証明されるのは八幡宮の応神天皇であり、敗戦後に至っても、戦争責任も取らず、生き、再武装を望んでいるような昭和天皇を批判していたと私は考えるのです。
そして、8月15日は、いわゆる終戦記念日と現在はされていて、祝日となっていますが、現在の人たちはどのように受け止めているかは私には判らないところも多いのも事実です。尚、広島市中町所在の護国神社は八幡宮と違い神社本庁の息がかかった神社ですから付け加えておきます。
(つづく
