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ベイトソンに試される 102 -『精神の生態学へ』第1篇 メタローグ 2 「フランス人は、なぜ?」 (1951)-

 しかし、言葉だけで言うってどういうことだ? そんなこと、ありえるんだろうか?
 書いた言葉は?
 だめだめ、書いた言葉にだってリズムもあれば、響きもある。それは消せないよ。「ただの言葉」なんてものはないんだ。そこが肝心なところさ。身ぶりと口調や、そういったものに包まれていた言葉しか存在しない。しかし、言葉を包んでいない身振りというのは----これはどこにでもあるな。

      ※

パパ? フランス語の時間に、腕の振りかた教わらないの、どうしてかしら・・・・・・
さあ、どうしてか、パパも知りたいところだよ。外国語がなかなか身につかないのは、きっとその辺りに理由がありそうだ。

グレゴリー・ベイトソン「フランス人は、なぜ?」(『精神の生態学』上巻 pp.61-62)

今回ベイトソンに試されるのは、『精神の生態学へ』第1篇の2つ目の「メタローグ」だ。タイトルは「なぜ、フランス人は?」である。

今回の主人公は上の引用でいうと「※」で示された部分である。
言葉から見ればそれは沈黙を表し、文字から見れば意味の空白を表す。

ベイトソンはこの「※」のところに「コンテクスト」という言葉をあてている。さらに「キネクシス」(運動、情動)や「パラ言語」「メタ・メッセージ」という身振りに関する既成の用語を取っ替え引っ替えしながらあてて、コンテクストの動的な性質を押し出そうと試みる。

今回のテーマは広い意味での情報コミュニケーションから見て、言葉でのコミュニケーションが省いてしまうものについてである。

「メタローグ」は、父と娘の対話で進むと前回の落書き記事でも書いた。この形式は、対話によるコミュニケーションと、対話する父と娘の関係のあり方(コンテクスト)を同時に表す。父と娘の間に愛情や信頼の関係があるというメッセージも読者に伝えるのである。

関係のコンテクスト(状況)がまずあり、父と娘の対話が始まるという設定を念頭に置くと、対話が進む中で、父や娘の言葉のトーンが変わると、互いの表情や身振りも変化している、と読者も想像可能になるのである。

こうして、意味を伝達するとされてきた言語によるコミュニケーションは、関係を維持しながら変化する言語外のコミュニケーションとともにあることが、「メタローグ」という形式で読者に伝わりやすくなっているのである。

そう考えてみると、「メタローグ」が『精神の生態学へ』の第1篇にあるのは、世界を全体として捉えようとするベイトソンのホリスティック(holistic:全体論的)な考え方を要約している、と想像することもできる。今回のメタローグも、コミュニケーションを言葉だけでなく、言葉を発する者同士の関係から紡ぎ出される全体として捉えることがテーマだからである。

コミュニケーションを成り立たせるのは、言葉の意味以外に、声の調子、話し方、表情や身振り、言葉を交わす者たちの関係、場の雰囲気等も、メッセージまたはメタ・メッセージである、とベイトソンはいう。

コミュニケーションは言語+言語外から成ると言語学から記号論まで口を揃えていう。一方、ベイトソンの捉え方にはちょっとした特徴(クセ)がある。言語から言語外へ拡大する人間を中心とした方向からコミュニケーションの全体を捉えないのだ。その逆である。言語外のコミュニケーションから言語によるコミュニケーションを部分的かつ特殊なものとして捉えるのである。

1957年全米芸術連盟第48回年次総会でのベイトソン(右) 英語版Wikipediからa参照

では、言語的動物としての人間が、どうやって言語外からアプローチできるのだろう?

上の問いには、すでに答えが混ざっている。言語的ではない、動物のコミュニケーションから、である。ただし、今回の「メタローグ」には動物の話は最後に少し出てくるだけだ。『精神の生態学へ』全体を読むと、その傾向が次第に明確になってくるのだが、初読の場合、動物のコミュニケーションについては、第1篇第7章のメタローグ「本能とは何か」にようやく出てくる。

今回は「メタローグ」における関係の動き(コンテクスト)をテーマとするので、父と娘の対話をやや長めに引用することになる。



土地争いから出てきた説得術(修辞学)には、実際の争いを抑えるために言葉の上で争いのゲームをする、という特徴がある。人と人とを繋げるよりも分離する方向に重点を置いて言語を使うやり方は、論争や非難や中傷という形でメディアを賑わしている。

現実の争いと言語上のゲームの類似したコミュニケーションの性質について、ベイトソンの側から考えてみる。『精神の生態学へ』では、言葉を使わない動物同士のコミュニケーションで同様の場面でどうするのか、という点について何度か取り上げられている。

先述した7つ目の「メタローグ」である「 本能とは何か」にある父と娘の対話を引用してみる。この考えは第3篇「遊びと空想の理論」でも取り上げられるベイトソンにとってとても重要な考え方である。

 そうだな。小さなイヌが大きなイヌに出会ったとき、わざと仰向けになって腹を見せるということがあるだろう? 「どうぞ攻撃して下さい」と言わんばかりに。それが逆の結果を生んで、攻撃がそこでストップするということが起こる。
でも、そのこと、分かってやってるのかしら。
小さい方のイヌが本心とは反対の表現をしているんだと、大きい方のイヌは知っているか。そして、小さい方のイヌ自身も、自分のしぐさのもつ効果を知っているか。そういう意味かい?
うん。
それは分からない。大きい方のイヌに比べて、小さなイヌの方が少しは知っていそうな気もするがね・・・・・・。とにかく、イヌをいくら観察しても、それを知るのは無理だろう。相手は、知っているとか知らないとかのシグナルを送れないんだから。

(同第1篇第7章「本能とは何か」(『精神の生態学へ』上巻 pp.142-143))

人間が使う言葉を用いない動物では、関係を構築するのは何度か「戦い」の状況を作る必要があるという。小さなイヌが腹を見せたのは、「降参」の意味を持つのかもしれない。が、それが獲得されるには、両者ともに「戦い」の経験を積む必要があるようだ。(「分かってやってる」のか、観察する人間側ではわからないとすれば。)

そして、それを行わないという行為を示すことで安定した関係を得るのだ、という。牙を剥いたり、脅しの吠え声を発したり、取っ組み合いをしながら、行為によって「戦い」を「しない」という否定表現を相手に伝えなくては、「じゃれ合い」や「遊び」という行為を生み出す両者の安定した関係は作れないのである。

このような手順を踏んで、状況を含めて言葉のコミュニケーションを考えると、ヒトも動物同様の非言語的なコミュニケーションを行っていることが理解可能になるのである。



以上の前置きから、第1篇の2つめのメタローグ、「なぜ、フランス人は?」に入ろう。

試されるのは、考えることは言語からできているのだから、言語から考えるのは当たり前だ、という考え方である。言い換えると、言語を基点として考えてしまう人間の偏狭な思考習慣である。

言葉を読み、発信する時間が格段に増えたIT社会では、この考え方は人工言語でできたコンピュータと同じ仕組みに人間を惹きつけるフィルタになっている。ベイトソンはいう、人間はヒト科の哺乳動物であり、人間が用いる言語以外の動物共通のコミュニケーションを常に行っているのだ、と。

ベイトソンは進化のプロセスの痕跡が今ここで話している場面にも現れている、と考える。それゆえ、ベイトソンの言語に関する考え方はこの「メタローグ」では以下のように表現される。(「父」は怒りが滲むような口調で、「娘」の問いに応答しているところを抜き出してみる。)

 だめだめ、書いた言葉にだってリズムもあれば、響きもある。それは消せないよ。「ただの言葉」なんてものはないんだ。そこが肝心なところさ。身ぶりと口調や、そういったものに包まれていた言葉しか存在しない。しかし、言葉を包んでいない身振りというのは----これはどこにでもあるな。
              (中略)
 ともかく、ナンセンスだ。言語(ラングイッジ)が言葉(ワーズ)から成るという考え自体がナンセンスだ。「言葉だけで」とパパは言ったが、その言い方もナンセンス。「ただの言葉」なんてものはないんだから。構文とか文法とか、そういった議論も、「ただの言葉」というものがあるという前提の上でやっているとしたらまるで意味はない----
    (中略)
----全部最初っから考え直すんでなければだめだ。言葉ってものを、もっと大きく、身ぶりのシステムとして捉え直すところから始めるんでなければ全然意味がない。だって、動物は、身ぶりと口調しかないわけだ。「コトバ」ができたのは、ずーっとあとのはなしだよ。語学教師ができたのは、そのまたあとだ。

(第1篇第2章「フランス人はなぜ?」(『精神の生態学へ』上巻 pp.61-62)

非言語的なコミュニケーション--言語学的な用語で言い換えれば、非言語的なキネクシス(表情や身振り)と音声に乗せたパラ言語(文字言語と区別して)--も含めて、「書いた言葉」も考えないと意味がない、と「父」は主張している。(文字にも怒りのトーン[パラ言語]が出ている。)

その際ちょっと面白いのは、「しかし、言葉を包んでいない身振りというのは----これはどこにでもあるな」と独り言のように呟くところだ。この呟きに、動物的な身振りのコミュニケーションを想定してみると、このメタローグの冒頭の娘と父の姿勢の違いが見えてくる。

冒頭は下のように始まる。

フランス人は、なぜあんなに腕を動かすのかしら。
何のことだね。
人とお話ししているときよ。やたら腕を動かして話してるでしょ? それ、どうして?
じゃ、どうしておまえはニコニコしながらしゃべったり、足を踏みならしたりするんだね。
それは同じじゃないわ。あたしはあんなふうに腕を振ってしゃべったりしないもの。フランス人は、あの仕草やめられないのよね、どうなの?
どうだろう、まあ、やめるのは難しいかもしれんな。おまえはスマイルをやめられるかね?

(同上 p.54)

知り合いの「フランス人」の身振りの大きさが気になる娘は、「フランス人」という項目にその性質を紐付けしたいようだ。自分はあんなことはしない、と言いたげである。一方、おまえだって大なり小なり身振りでメッセージを伝えるだろう? と父は娘に問い返す。対話は、<身振りなしの言葉><言葉なしの身振り>との間をめぐって、前者は考えられないが後者は考えられるという話に移っていく。

その際、「情報」という言葉が出てくる。この語を言葉と同等の意味情報と捉えようとする娘に対して、父は「沈黙」によって「情報」が関係を表すことを伝えようとする。

以下に引用するのは、父と娘の会話のコンテクストが少し変化する場面である。この場面での父と娘の間の気まずい沈黙 (※印の部分) は、父と娘の会話内容の状況、つまり両者の関係をメッセージしている(メタ・メッセージ)。

 さてと。フランス人が、怒っていない、むくれていない、というのを伝えるだけのために、あんな一生懸命腕を動かすのは理屈に合わないと、お前は言うんだね? でも考えてごらん。人はぺちゃくちゃとずいぶんしゃべるけど、だいたい何をしゃべってるだろう。アメリカ人の会話って、だいたいどんな話だ?
 それは、いろいろでしょう? 野球のこととか、アイスクリームのこととか、庭のこと、ゲームのこと。それに人のうわさ話もするわ。自分のことも話すし、クリスマスに何をもらったかとか----
 それはいいんだが、いったい誰が聞くんだね。きのうの野球の話とか、人の家の庭の話とか・・・・・・。つまりパパが言うのは、そういう話をしているときに、何を伝え合っているのかってことなんだ。本当に情報が交換されたりしているのか、交換されているなら、どんな種類の情報か----
パパが釣りから帰ってきて、あたしが「釣れた?」って聞いて、パパが「何も」って言うでしょう? パパが1匹も釣れないなんて、言われなければわからないわ。それ、情報でしょう?
ふむ。

      ※

いいかね。釣りのことになるとパパは穏やかじゃいられない。その釣りの話をおまえがした。そして、会話が途切れた。それまで普通にしゃべっていたパパが急にしゃべるのをやめた。そうだね? それで何が分かるか。魚が釣れなかった話をされてパパが機嫌を損ねた、そのことだろう? フランス人が腕をパタッて止めるのと、これは同じじゃないか。
ごめんなさい。でもパパが—--
「ごめんなさい」はちょっと待った。話がこんがらがってしまう。----いいよ。パパは何を言われようと、あしたまた釣りに行くさ。釣れる見込みなんか、全然なくても----
でもパパが、「どんな会話も、怒っていないことを伝えるだけだ」って言うから、だから、あたし—--
いや、全部の会話がそうだと言うわけじゃない。話してる2人が、相手の言うことをよく聞こうという構えでいれば、いろいろ細かな情報を伝えることもできるさ。話すことが、ただ仲良くする以上のことになる。いや、情報を交換する以上のことだってできるかもしれない。新しい発見が得られることもね。

(同上 pp.58-60)

「※」の部分は、父と娘の間の沈黙を示している。父は魚が釣れなかった過去ついて、不意に娘に言われたことで、その悔しさを思い出して怒る。釣れなかった当時のコンテクスト(状況)が、対話のコンテクストに入り込んだのである。

「沈黙」は言葉の欠如ではない。それまでの関係の変容のしるしであり、新たな状況構築へのきっかけなのである。こうしてベイトソンはコンテクストを、常に変容しながら持続する動的な性質を持つものとして示す。

この「メタローグ」は、身振りのような非言語的コミュニケーションも、言葉の意味に変換してしまうヒトの習性のさらに先にある関係の細やかな網の目を示そうとしている、と言える。



上の引用と対照をなすのが、最後のシーンである。前半に引用した父のコミュニケーションに関する考えを怒りを滲ませながら語った部分だった。最後の部分は、言葉なしの身振りは成り立ちそうだ、という言葉がこの対話のオチになる。

----全部最初っから考え直すんでなければだめだ。言葉ってものを、もっと大きく、身ぶりのシステムとして捉え直すところから始めるんでなければ全然意味がない。だって、動物は、身ぶりと口調しかないわけだ。「コトバ」ができたのは、ずーっとあとのはなしだよ。語学教師ができたのは、そのまたあとだ。
パパ !
なんだね。
言葉使うのをやめて、またジェスチャーだけでお話しするようになったら、おもしろいでしょうね。
 ふむ。どうだろう。もちろんそれでは、会話にならんだろうな。ワンワン、ニャーニャー言いながら、腕を振り回しているだけじゃ。泣いて唸って笑っているだけじゃ。しかし面白そうだね。毎日がバレエになるわけだ。バレリーナが自作の音楽に合わせて踊ってるバレエにね。

(同上 pp.62-63)

身振りの例が動物のキネクシスやパラ言語から「バレエ」の踊りになるのか不審に思う場面でこの「メタローグ」は閉じられている。

が、この「メタローグ」自身がモダンダンスに関する年刊誌 Impulse (1951)に掲載されたことが最後の1行で示されると、掲載された雑誌の中のこの「メタローグ」とそれ以外の論文との関係やその雑誌の読者との関係を想像することが可能になる。

父と娘の対話の後、空白を空けてこんな一文が添えられていた。

----このメタローグ[原題“Why Do Frenchmen?”]の初出はモダンダンスに関する年刊誌 Impulse (1951)。後に一般意味論の専門誌ETC : A Review of General Semiotics (Vol.Ⅹ, 1953)にも掲載された。

(同上 p.63)

論理学や文学等の研究で言われる「メタレベル」的関係である。が、このような言語中心の学的領域では、この「メタローグ」がここで終わり、雑誌のあるページに掲載されているという固定的な関係として取り出される。

一方、釣りのことで父が怒り、娘が沈黙した引用と対照してみると、コンテクストの動的な特徴を読者は感覚できる。ベイトソンがしきりに「生きた世界」という言葉を使うのは、コンテクストが、父と娘の沈黙が示しているような動的関係の方に重きを置いているからだ。

静止しているように思われる沈黙も、<激しく止まっている>だけなのだ。



ここからは落書きの落書きになる。

この「メタローグ」をグラフィックに考えてみる。

言葉を台風のような渦の中心(台風の目)のようにイメージしてみる。
それは動いているが、情報処理の過程で動きがノイズとして処理され、円に縮減してしまう。

一方で、言葉の余白に置かれた「※」印は「沈黙」と呼ばれる。そこでは身振りや情動が蠢いている。「※」を円として固定されて観念となった言葉の前後を切りそして閉じる(荒川修作の用語:「切り閉じること」cleaving)指標と捉えれば、円は激しく止まっている渦巻きであることを指すだろう。

コンテクストを伴った言葉が渦巻き状に動いているとしたら、それはいずれ勢いを失い、静かに凪いでコンテクストすらも世界に溶け込んでいくのだろう。

ベイトソンは前回の「メタローグ」でこの世界自体も動いていることをエントロピーの増大する不可逆過程として捉えていた。その持続性は物質とは異なるものの、情報もまたこの不可逆過程の中にある。(「メタローグ ものごとはなぜゴチャマゼになるのか」参照)

流体力学的にイメージすると、言葉は情報の海に、生命は物質の海に浸されているように感じられる。そしてどちらの海も微粒子状にスピンしているようにも・・・。

円錐形の渦、竜巻のシミュレーションgif https://usagif.com/ja/tatsumaki-gif/参照

ここから数学言語によって構想されたホワイトヘッド/ラッセルの「論理階型理論」を情報と生命に援用するベイトソンの言葉を流体世界で変奏してみると、複雑系科学のような見方になる。
(以下は論理階型理論が展開されるホワイトヘッド/ラッセル『プリンキピア・マテマティカ』序文だけは邦訳されている。)

階型のステップを踏むという行為自体が、大なり小なり、水が氷や湯気になったり、オタマジャクシがカエルになるような、相転移的な動きのように見えてくるのである。

円錐図が脳裏に棲み着いてしまった読者からすると、ベイトソンが描く世界は旋回する様々な円錐が様々なレベルで発生し、持続し、消滅を繰り返す大気や海のような流体世界のように思える。

どんな感じがするかね。フランス人が腕を振ってしゃべってるのを見ると、どう感じる?
バカげた感じ?・・・・・・でも、相手のフランス人には、そうは見えないんでしょうね。だって、バカげて見えることをみんながやっているはずないわ。
父 うーん、そうかな。難しいところだ。ほかには?
うーんと、エキサイトしているっていうの・・・・・・?
父 よし。「バカげていて」で「エキサイト」している。
でも、ほんとにエキサイトしているのかしら。あんなに腕を振ってしまうほど・・・・・・。あたしだったら、歌い出すか踊り出すか、相手の顔をピシャッと叩くことはするでしょうけど、フランス人って、ただ腕をあっちこっちに動かしてるだけでしょう? きっと、ほんとにエキサイトしているんじゃないのよね。

(同上 pp.55-56)

流体的な世界を念頭に上の引用部分を再読すると、「フランス人」が「あんなに腕を振って」いる身振りが、水の中で溺れているようにも泳いでいるようにもイメージされてきて面白い。そして、コンテクストを示す身振り等のメタ・メッセージの渦巻きの中心で言葉は止まりながら震えているようにも見える。

このような一連の図をベイトソンは「序章 精神と秩序の科学」の中で、ニューギニアのイアトムル族の神話で天地創造のステップとして取り出していたことを思い起こす。

流体世界から始まるこの神話で「フランス人」役を務めるのは水をバシャバシャやっている「ワニのカヴウォクマリ」だった。そして「文化英雄ケヴェンブアンガ」がそれを「殺し」て「陸地が出来上がり」、「足跡」としての固定した言葉が記される、というステップを踏んで天地が創造された。

ニューギニアのイアトムル族の起源神話も、われわれのものと同様、陸地と水域の分離という問題を中心に扱っている。それによると、はじめに、ワニのカヴウォクマリが前足も後ろ足もバシャバシャと動かしていて、その攪拌によって、泥が水中に浮遊していた。そこに偉大なる文化英雄ケヴェンブアンガがやってきて、槍でカヴウォクマリを殺した。すると泥が沈殿して、かわいた陸地が出来上がり、ケヴェンブアンガはその陸地に自分の足跡を誇らしげに記した。いわば「これを良し」としたわけである。

ベイトソン「序章 精神と秩序の科学」(『精神の生態学へ』上巻 pp.35-36)

ヒトは海と陸を分離する過程を自らの思考習慣にセットしているようだ。
そして、海の動きを忘れてしまうように思考のステップを踏むということも。




※見出し画像は、何か(おそらくは獲物)に狙いを定めているような白猫。猫は言葉ではなくその身振りで何か(おそらくは獲物)との関係を私に伝えてくれる。そうして見守る私も、その関係に一時的に関係することになる。

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