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心と体と環境をオートファジーできる場所 -三鷹の森ジブリ美術館+川崎市岡本太郎美術館-

自由な範囲をもち、建築的身体に必要な凝集性がそこから形成される結合性のようなものに、意のままに浸ろう。それも、その結合性に反省が及ぶようになるまで、そこかしこで切り閉じのワルツ、つまり固着しつつ、みずからを分離するように切断する躊躇のワルツを踊ろう。複雑に変容している着地した気づきの幾つもの性向、傾いた微風、追究、小川とともに。ともに参加するエリアでは、固着したさまざまな能力が結びつきを変え、異なるカップリングへの指示があたえられる。新たな結びつきに参加し、新たな結びつきとともに、あなたの建築的身体は、みずからの図式を拡張し、それを開いていくことになるだろう。
                                                       続く・・・・・・
 建築がなにへと現成するかによって、生命はなにか別のものへと再度、開始することができるであろう。

荒川修作+マドリン・ギンズ「日常の探求」(『建築する身体』 pp.184-185)

一日が充実したら、「今日は何もしなかった」と呟くことにしている。
 「今日は何もしなかった」というフレーズが、自分にとってプラスに変わったからだ。
 
コロナ禍で心身が不調になって、生活習慣を変えることにようやく気づいた。
 
文庫本が重く感じる。文字もかすんで見える。来る日も来る日も、「今日は何もしなかった」とPCに打ちこむ。打ち込むキーも固く重く感じる。
 そんな「何もしなかった」時間に、衰弱し、うまく動いてくれない体にまず向き合う。

起きて、こいつ、生きてるな、と自覚してから朝が始まる。
すると、その自覚はもっと深いところに降り始めている。
 
脳と意識が自分だと思いこんでいても、体をすっぽり含んでいる無意識の領域は、そんなことなどかまわず生きて存在している。
呼吸し、鼓動し、手足が動く、そんな無意識の上に、意識はのさばっている。
タスク管理だの問題解決だの意思決定だのでできた世界が崩れてきて、それを痛感した。
 
こんな身近なところに無意識の入口があった。この感覚を育ててみよう、そう思いはじめる。
 
マインドフルネスの時間を少しずつ増やす。
息をするだけの時間を作ると、意識と無意識という区分では説明がつかない領域が広がっているのを感じ始める。身体を通して、意識の表層から深層へ沈んでは浮き上がるイメージが出てくるからだ。
 
意識と無意識、これは西洋的な分け方だ。意識の表層と深層、これは東洋的な分け方だ。
意識と無意識には境界があるようにイメージしていたが、境界は意識の側の区切り方だった。
表層と深層だと、意識していること自体があやふやになってくる感覚にフィットする。
 
マインドフルネスがアメリカに渡った小乗仏教の瞑想由来だから、東洋的な分け方がいいんだろう。
 

 
三鷹市のジブリ美術館に行くと、歩きながら表層と深層を上下動する感じがする。

井の頭公園の端にある建物まで、最寄り駅から玉川上水沿いにゆっくり歩くと原色の建物に家族連れが列をなして吸い込まれて行く。


ジブリ美術館外観

子供たちの歓声を耳にしながら、小さな上映室の一番前に座って、光の明滅するスクリーンを見上げる。
 
暗いところから明るいところへ出て、子供たちが走り回るのを眺めながら、階段を何度も上り下りする。
 
仕事部屋の壁に貼り詰めたコンテやメモや蔵書を目を凝らして眺め、ガラスケースの展示品を屈んだ姿勢で見る。
 
中庭に出たり、カフェに寄ったり、ショップを見たりした後、屋上まで螺旋階段を上ってラピュタのロボットを見上げる。

屋上で入場者を寂しげに見下ろすロボット

夕景色と秋の自然の匂いに包まれる。(周りは井の頭公園の緑でいっぱいだ。)
 
螺旋階段を降りて、吹き抜けの空間にかけてある狭い橋を、一階の床を見たり天井を見たりしながら渡る。
 
そしてトトロにサヨナラして外に出る。

入退場口の脇の円形の小さな建物の中から挨拶してくれそうなトトロ

階段を上り下りし、見上げたりしゃがんだりして子供に「なる」あるいは「逆行」する。この過程で、意識の表層と深層を上り下りするイメージが浮かんでは消えた。
 
建物を出て、駅まで歩いているときに、ふと体調が上向いているのを実感した。
意識の層を上下する感覚は、スムースなスロープより階段のほうがより感じられたのが気づきだった。
 
帰路、そんなことを思いながら「あるこー、あるこー、わたしはげんきぃー♪」と口ずさむ。
 

 
体調を気にしながらの生活では、体の内感や動きに注意が向くことが多い。
階段や坂の上り下りの時も、意識の階層を上下するイメージが浮かぶ。
 
ジブリ美術館の体験した後は、体の調子と相談しながら坂や凸凹道を歩く習慣をつけた。
 
本を読んで歩きながらのマインドフルネスの仕方も頭に入れて、座っている時間以外にも意識の層を上下動する時間を増やす。
 
平坦な道を歩いているときは、脈絡のない記憶の連なりが浮かんでは消える。デフォルト・モード・ネットワークなるものが働いて、ネガティブな記憶どもが脳の中をめぐっている。
 
呼吸に集中したり、移り変わる景色を見て、看板、空、道路、何丁目、消防車等々に気を散らしていくとそれらも消えていく。坂を上り下りしたり、土の道や石が敷き詰められた凸凹道を歩くと余計なことは考えなくなる。
 
こうして脈絡のない記憶の生滅の経験を繰り返していくと、過去の記憶に気を取られることは少なくなった。
 
そんなとき、遠ざかりつつあるネガティヴな記憶どもは、その物語的なイメージが萎み始めて神経の束のようなぶよぶよした曲線になっていく感じがする。
 
その代わりとして、現在の記憶に少しの間留まる、色彩や動きの方に注意を向ける癖が少しずつついてきた。
 
色彩と動きに囲まれていると自覚している間は、形や名前はさほど気にならない。
 
その時、自分は子供に「なる」のだ、と思う。確かに下を向いてスマホを見たり、二足歩行で急足に歩く時間の狭間に、上を向いたり時折膝を屈伸するようなふりをしてしゃがむ時間が入り込んできた。
(階段や床や道にしゃがむのは、ちょっと勇気がいる。)

意識の深層に降りていくイメージは脳から身体へ記憶と知を下ろしていく過程だと思う。以前の記事でも引用したベルクソンの記憶の円錐図でいうと、頭でっかちな上部のAB面から可動平面Pに触れる頂点Pへと、か細くなっていく「縮約」の過程にあたる。

独今論者のカップ麺「ベルクソンの円錐図<ベルクソン「物質と記憶」を読む4>」から参照http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2

円錐が細くなるにつれて(「縮約」していく)、生命体は円錐の外側の環境の動きに開かれていく。データとしての観念の記憶(長期記憶)に、色彩や動きの印象の記憶(短期記憶、感覚記憶)が混入し始めるのである。

 

 
ベルクソンの記憶の円錐をセットして、身体を軸に考え始めてから、ふと思いついて、川崎市にある岡本太郎美術館に行く機会を作った。

 色彩、動き、見上げるしかない高い塔、方形の形などない場所。ここならちょっと道や床にしゃがんでもよさそうだ。
 
向ヶ丘遊園駅を降りて歩いて、生田緑地に入る。
少しずつ傾斜が出てくる坂道をゆっくり上っていく。
さらに階段を上りきると、山の斜面をくり抜いてできたような建物が口を開けて待っている。

岡本太郎美術館入口

そこに呑み込まれるように入ると明るい吹き抜けの天井を見上げ、奥の暗い展示室に向かう。
まるで宮澤賢治『注文の多い料理店』に迷い込むハンターの気分だ。
 
赤の強い絵の色彩と暗い照明が混ざり合う中で、緩い傾斜の床を行ったり来たりする。
(館内撮影可:ただしフラッシュと動画を除く。)

入場口

順路はなく、ゆるい傾斜や段差の中をウロウロする。
大きなカンバスにぶよぶよの丸と曲線でできた人間や動物が、塗りたくられた原色の背景に叩きつけられている。

蠢くようなぶよぶよの線や立体がコーナーと壁を占める

 丸でできた大きな顔の彫刻、曲面ばかりの踊るようなモニュメントの中に、岡本太郎の殴りつけるような制作過程の動画やたくさんの写真に眼を凝らす。

激しく止まっているような有機-無機体

 マルセル・モースに人類学を学んだというアーティストが沖縄や東北の祭りや民芸、縄文土器や土偶の写真をたくさん撮っていた。
 
見上げると、館内の傾斜を上った先に「太陽の塔」のレプリカがゆっくり回転している。
そうか、これも巨大な土偶なのか・・・

「太陽の塔」後部(電動でゆっくり回転している)

マルセル・モースに民族学を学んだこのアーティストが縄文に日本の無意識を重ねたとしたら・・・
 
意識の成果である近代技術の発展を謳歌する大阪万博(EXPO’70)に、巨大な無意識を屹立させてやろうとしたなんて面白い、と口元が緩む。
 
美術館を出て、曇天を背景に聳える「母の塔」を見上げる。

自分も空に向かって両手を広げたくなる「母の塔」

そして長い坂道を下りながら思う。
 
脈絡のない自分のネガティヴな記憶どもが曲線状になるのを絵にしたら、あんなぶよぶよした線かもしれない。
 
その時、岡本太郎の体が意識の深層に降りて行くイメージが、ふと脳裏をよぎった。
 
 
今も、意識が作り出した抽象言語でできたPCからIT社会の日常に入っていく時間は減らない。
が、脳と意識に埋め尽くされる日常にストレスを与えられた体との対話を続けることにした。
 
マインドフルネスも少しずつ増やして、1日60分を超えるようになった。
床に座ってマインドフルネスを終えると、「今日は何もしなかった」と呟いてみる。
 
PCの傍には、いつも小さな「太陽の塔」のフィギュアが置いてある。
椅子から降りて机の下から見上げるようにして眺めると、天井がとても高く見える。

見上げるべき小さな塔と世界を小さく見下ろしてしまうPC画面の机上での出会い


 
心は身体と繋がっている。そう考えると、身の回りの環境を日々生きながら動き回るこの生命体に注意が向く。
 
ここからの話は、美術館紹介からすれば余計な話になる。
が、この2つの美術館に行ったのは、非日常を体験するためでも、教養をつけるためでも、見聞を広めるためでもない。
 
ジブリ美術館と岡本太郎美術館から受け取ったのは、生命ある有機体がいまここにいるという感覚をしっかり持て、というメッセージだった。
 
この感覚はすぐ消え去ってしまいがちだ。
すぐに平坦で直線でできた世界が広がり始めて、記憶データを過去から取り出して未来を予想し始める。今現在は、その通過点になってしまう。
 
が、幸か不幸か、この有機体はこのところ調子が悪かった。
そこで、心だけでなく、生き物として何もしない時間を作れる機会ができた。
2つの美術館に訪れたのをきっかけに、マインドフルネスに加えて、ファスティングを始めた。
 
プチ断食は簡単だ。スマホに断食の時間と日付を記録してくれる程度のシンプルなアプリをインストールして、マインドフルネスのアプリの隣に置く。
 
夕食後、夜の8時から睡眠も含んで次の日の正午まで断食を始める。
当初は週に一度、金曜の夜から土曜の昼まで試して、ひと月してから金曜から土曜、土曜から日曜の2回に増やした。2ヶ月後、毎日夜8時から次の日の正午までお腹に食べ物を入れないことにして今に至る。
 
胃を空っぽにする時間を作って体の中からスッキリしたい、という程度の軽めの目標なので、睡眠時間も含めての緩い断食なので、断食後に体重計に乗ることはしない。数値の増減よりも、体の内側の感覚の変化に注意を向ける。
 
断食中ても、水、炭酸水、お茶などは飲める。
コーヒーならブラックで1杯程度、香りを嗜むくらいはできる。
徹夜してしまったことがあったが、そんな時も空腹がつらい感じはなかった。
 
空腹時は、今は「オートファジー」の時間だ。体が自分の細胞を食べる時間だ、などと想像することにする。始めた当初、面白い変化があった。プチ断食明けに食事をしたら、体が急に熱くなる感じがして熱を測った(平熱だった)。
 
その後、空腹でも食べないことに慣れてくると、間食の量が減ってきた(多少は口にする)。前日の疲れが残って、ウォーキングの最初の一歩がおっくうになることもなくなった(気にしなくなったor忘れた)。
 
いいことばかりでもない。体力が落ちることはなかったものの、一年後に腰が不調になって、筋肉量が落ちるという副作用を知った。そこで仙骨中心にストレッチして、足腰の軽い筋トレを毎日することにした。
 
身体とは対話が必要だと思う。日々試行錯誤である。が、プチ断食した午後は、日常の色味も少し変わるように感じられる。
 

 
空腹は体にとってはストレスだ、と投資家で文筆家のナシーム・ニコラス・タレブは言う。出身地のレバノンでは少数派のギリシャ正教徒だったというタレブだが、ラマダンの時期には今も断食を行うことをいくつかの著書で明かしている。

空腹というストレスが体によい効果を及ぼすという考えに則って断食するのだという。そのベースには、有機体は変動性(ボラティリティ)を好む、というランダム性をベースとした確率論的な世界観がある。(タレブは確率論のPh.D.をパリ大学で取得している。)
 
(マーヴィン・ミンスキーのインプリマ、メンター、ロールモデルという学びに必要な3人の目標的人物に無理やり当てはめると、自分的には、タレブは日々生活していく上でのロールモデルに当たるかもしれない。以前の記事で書いたように、親のように慕ったインプリマはベイトソン、指導者的なメンターは実際に会って何度も叱られた荒川修作かな、と思う。)

『反脆弱性』という本では、変動性を好まない姿勢は「脆さ」(Fragile)と呼ばれ、その対義語として「反脆さ」(Anti-fragile)という造語が案出された。絶食や空腹は、生活にランダム性を取り戻すいい意味でのストレスの例としてこの本に登場する。

一定のストレスや変動性を好むものは、身の回りにいくらでも見つかる。経済システム、人間の身体や精神、それから栄養だってそうだ。(糖尿病のような現代病の多くは、食事のランダム性やたまの絶食というストレスがないことと関連があるようだ)。

ナシーム・ニコラス・タレブ「プロローグII 反脆さ」(『反脆弱性』上巻 p.23)

この本では、一つの予測不能な出来事の出現で「ぶっ飛ぶ」「脆」い世界が非有機体に代表される機械論的考え方にある点が批判される。一方で、有機体に代表される「反脆さ」(ある程度のランダム性を好む傾向)を様々な分野から見出して、現代に生き延びる姿勢に高められていく、そんな本だ。
 
その中で、「空腹」は、薬学的観点から有機体に特有の性質を示唆する「ホルミシス効果」を説明する際に、タレブの実践した例として紹介されている。「ホルミシス効果」とは、毒は適量であれば体によいものもあるが、ある量を超えると毒になる、という薬と毒の両面性を表す効果を指す。
 
確かに、giftという英語にも天からの賜物と毒という両面的な意味がある。古代西洋では、その度合い(適量)を試行錯誤して調整していく過程が、生きる上での倫理的姿勢を作ったという話を聞いたことがある。

過食が逆の効果をもたらすことと考え合わせると、一時的なカロリー制限の効果は次のように解釈することもできる。食べ過ぎは身体(からだ)に悪い、人間から「空腹」というストレスを取り除くと、最大限の寿命まで生きられない可能性がある。したがって、ホルミシスの効果とは、人間にとって自然な食事量と空腹の度合いを定め直すことなのかもしれない。言い換えれば、ホルミシスが行われているのがふつうの状態で、行われなくなると身体に害が生じるというわけだ。

(タレブ「ダモクレスとヒュドラーの間で」同上 p.72)

ランダム性を好む傾向は、適度なストレスを認知して体自らが自己調整しようとする能力の存在を教えてくれるように思う。
 
タレブがいうむき出しのランダム性は、カオスであり、「母なる自然」と呼ばれる。変動し続ける自然、地球そのものだ。そして、「母なる自然」の中で生き残ってきたこの体には、自然に適応し、変異を続ける進化の歴史が刻まれている。
 
そう考えると、これまでノイズとして扱ってきた空腹を楽しむこともできる。ジョン・ケージなら、「おなかの鳴る音はノイズじゃない、<サイレンス>だよ」と言うかもしれない。

 

 
断食は「引き算」的考え方だ。人は健康を得るために何かと「足し算」する。薬を飲み、サプリを飲み、医者に行き、カウンセリングを受ける。資本主義社会では、「足し算」的に商品やサービスを買って、消費していくように日々誘導される。
 
が、ランダム性を好む傾向、つまりタレブがいう「反脆さ」は、有機体自身が持つ能力に関わる。生命に必要な能力は体に備わっているが、「足し算」をベースにすると足していく時空も平面と直線で埋め尽くされて、その能力に気づくことすらない。
 
「母なる自然」のランダムさ(非線形性)を忘れて世界は線形的だと思い込むのが日常になる。すると、凸凹で坂道だらけの大地も過去のデータから未来予測が可能なフラットな時空でできたテクノロジーで埋め尽くしてしまう。そうやって新しい技術を「足し算」的に増やしていくのだ。
 
そうしていると、「母なる自然」の非線形性は、逆に猛威を振い始める。まるでスマホ画面を見ながら歩いて体のことを忘れてしまい、電車のホームから転落するかのように。自然を線形化すると非線形性が増大するのだ。そんな世界だから「引き算」する力に注目したくもなる。
 
そこで自分の日常の本質部分で一番足し算的なものは何か、と身の回りをぐるりと見回した。
 
情報だ、そして眼にみえる情報としての本だ。
 
そこで、情報に関する考え方もウォーキングとファスティングをしながら変えることに着手した。
 
心、体ときて環境を変えるというところまできた。
 
部屋やモニター上で培った文字に書かれた意味情報という考えから、歩く世界の中で知覚を通して濾過された情報という考え方へのシフトである。
 
文字情報のみが情報であるとは考えない習慣がついて、タレブのいう「反蔵書」(読んでいない本)が、自然の中にも多々あるようにイメージするようになる。
 
そのために新しい本はもう買わないという考えをすぐ実行に移した。もちろんネットの情報源も断捨離した。(書籍はなるべく図書館で済まし、電子書籍も減らす方向で・・・とはいえ、どうしても必要なものがあれば、1冊買うと2冊断捨離という基準は作った。)
 
この春も、本の断捨離をした。そして気づいたことがある。
 
本の断食を決めて断捨離すると、直近の情報を載せたものはすぐに廃棄されるのだが、古典と呼ばれる本を残すようになる。
 
なるほど、「古いものは新しいものより、さらに長く生き延びる」(タレブ)、ということか、、、
 
古臭いと思いがちな格言や地元の民謡が、東日本大震災のような災害時に重要なメッセージだったことに気づかされた。ランダムで非線形的な世界に適応しながら生き延びてきた言葉の方が、反脆弱性をたっぷり含んでいるのだろう。
 
 
自分にとっての「古典」とは脳と意識に蔑まれてきた身体のようだ。
 
そこには言葉にならないが、激動する世界を生き延びてきた格言のようなメッセージがふんだんにある。意識に与えられた世界に抗して、自分の体から世界を建築してみろ、というメッセージが。(冒頭の『建築する身体』の最後のページの引用も参照されたい。)
 

足し算だらけで情報に塗れたこの有機体を、ランダム世界を生き延びてきたメッセージを感じられる体にオートファジーしてくれる、そんな場所に迷い込むことは、とても貴重だ。
 
ジブリ美術館と岡本太郎美術館は、何も足さない、むしろ引き算してくれる美術館である。
 
またこの2つの美術館に行って、家に戻った時「今日は何もしなかった」と充実した気持ちで呟けたらいいな、と思う。
 



 ※このエッセイは、以前入会していた際に掲載したエッセイを現状に合わせて改稿し、再構成したツギハギ的羅列である。

※見出し画像はジブリ美術館と岡本太郎美術館の図録

※掲載写真はすべて自分で撮影したものである。
 

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