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D/Gに巻き込まれる 000 -『千のプラトー』 「諸言」: メエルシュトレエムに呑まれて-

諸言

この本は『資本主義と分裂症』の続編であり、最終巻である。
第1巻は『アンチ・オイディプス』であった。

本書は、章ではなく、「プラトー」 〔高原〕 によって構成されている。
後でその理由の説明を試みるつもりである (なぜテキストに日付がついているのかについても)。
ある程度まで、これらのプラトーは、たがいに独立に読みうるものであるが、結論だけは終わりに読むべきである。

『リゾーム』(ミニュイ社、1976年)、『狼はただ1匹か数匹か?』(『ミニュイ』5号)、『いかにして器官なき身体を獲得するか』(『ミニュイ』10号)は、すでに発表したものである。
変更を加えてここに採録した。

ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ「諸言」(『千のプラトー』上巻 p.9)

※((D/Gの記述はパラグラフ単位が長いので、引用では一文単位で改行してある。なお、パラグラフの区切りについては、1行空けて表示する。【これからの引用も同様】)

『千のプラトー』(CAPITALISME ET SCHIZOPHRÉNIE MILLE PLATEAUX, 1980)に目を通しても、それを「読んだ」という区切りがつけられない。それが本という体裁を持つことは承知の上だが、材質が紙であれ電子であれ、パッケージとしてもコンテンツとしても、それについて語れる対象として本のように扱えたためしがない。否、あったのかもしれないが、忘れてしまったようだ。

記憶の多重貯蔵モデルで言えば、この本はストーリーやエピソードを溜め込む長期記憶よりも、運動時の手続きや気づきを一時的に収める短期記憶や感覚記憶に貯蔵される感じなのだ。反復しても海馬が大脳皮質に送らないような、繰り返されず、意味づけしにくいデータが多くを占めているのかもしれない。もしくは、こちらの記憶能力が問題なのだろう。

ただ座って話すより、立ってまたは歩いて話すとこの本の言葉がスムースに出てくることがある。どのページのどのあたりかという視覚イメージも出てくることも・・・(走りながら、転びながら、飛び跳ねながら話そうと試みたことはまだない。) この個人的な感覚は、今回から始める『千のプラトー』を「落書き」する際のモチーフになるように思える。

例えばフランス語の「agencement」・・・ドゥルーズ/ガタリ独特の使い方で出てくるこのフランス語の邦訳について、同じ著者たちによる『哲学とは何か』の邦訳者財津理氏は「訳者あとがき」で以下のように述べる。

では、アジャンスマン(agencement)とは何か。この訳語は、日本ではあまり知られていないフランス語の発音をそのまま用いたものである。したがって、フランス語に馴染みのない読者にとって、このような訳し方は迷惑な話に思われるかもしれない。しかし、外来語をも含めて日本語のどの言葉を選んでも、一言ではアジャンスマンの意味の用法の理解を妨げると言ってもよいほどである。ところで、定義なしに、しかも文脈からは意味がはっきりと類推できないままに、あるいは複数の解釈が可能になるかのように、唐突に言葉が出現する、というのがドゥルーズのスタイルである。ただし、多くの場合、その言葉の一定の意味を示唆している叙述が、後になってから断片的にさりげなく現れてくる。そこで、「アジャンスマン」への言及を、『千のプラトー』から一部抜き出し、『千のプラトー』と『哲学とは何か』において、「アジャンスマン」が、「共立性」(コンシスタンス)、「機械状のもの」、および「生成」と密接に関連しているということを指摘しておこう(ただし『千のプラトー』では、「アジャンスマン」は「アレンジメント」、「共立性」は「存立」、「生成」は「生成変化」と訳されている)。なぜなら、その点を理解することが、『哲学とは何か』の思想のひとつの急所を把握することになるからである。
「内部-アジャンスマン (アレンジメント) のなかには、異質な合成諸要素が、そのすべての種類にわたって介在している。・・・・・・最初に問うべきことは、それら領土(テリトリー)化する印、それら領土(テリトリー)的モチーフ、それら領土(テリトリー)化された機能がすべて、ひとつの同じ内部-アジャンスマンのなかで、一緒に(アントンブル)成立するのはどうしてか、ということであろう。それは、共立性(コンシスタンス)、すなわち、異質な諸要素が (一緒に-成立すること) に関する問である」(『千のプラトー』373頁----ただし引用は邦訳のままではない)。アジャンスマンとは、さしあたって、異質な諸要素が共立している集合(アンサンブル)である。「わたしたちが機械状のものと呼ぶのは、まさに、異質なものを異質なものとしてのかぎりにおいてそのように総合することである」(同381頁)。こうしたアジャンスマンは機械状アジャンスマンである。「異質な諸項と、伝染という共-作用をそなえたそれらの多様体は、或るいくつかのアジャンスマンに入る。そして人間がおのれの様々な<動物への-生成>を遂行するのは、まさにそこにおいてである」(同280頁)。アジャンスマンは、生成の場である。というより生成そのものである。

財津理「訳者あとがき」(ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』pp.402-403)

注目したいのは「定義なしに、しかも文脈からは意味がはっきりと類推できないままに、あるいは複数の解釈が可能になるかのように、唐突に言葉が出現する」という叙述がこの著者たちの常套であるという点だ(財津氏は「ドゥルーズの」と限定しているが、ガタリもまた同様、否、哲学領域を背景に持つドゥルーズよりもっと自由で徹底している)。

言い換えると、著者たち(以下D/Gと表記)の叙述は、定義から始めて意味を確定し、その意味の範囲や派生する概念で論を展開する、という一般に行われる論理的な叙述手順とは異なっているということになる。それゆえ、『千のプラトー』を開くと見慣れない語が不意の出来事のように文中に出現するのだが、この出来事を記憶して、次の出現に備えると異なる意味で出てくることもしばしば起こるのである。

先取りして言えば、この状況が文庫版で1000p以上続くと、読者は軽度のダブルバインド状況を体験する、ということもできる。この落書き後半に触れるが、この状況は一方で病的な状況に陥らせることもあるが、全く異なる状況に読者自身が進むきっかけにもなりうるのである。ともあれ、今回はこの本に「巻き込まれる」というテーマでなので、読み続ける際に軽いダブルバインド状況を覚悟しておく必要があるという点だけは確認しておきたい。

コロナ禍で、『千のプラトー』の邦訳を全文打ち込んだ際、邦訳で終わらず、フランス語原書と英訳と対訳的にテクストを作ったのは、この意味確定の不確かさによるところが大きかった。(ちなみに、フランス語原書と英訳はその頃すでに、ネット上でPDF版が公開されていた。一方、昨年ドゥルーズ生誕100年を記念して倍近い価格の豪華版を出した国もあるという。)

agencementは、日常的には家具の配列やデータの整理や文章の構成を表すとされる。が、D/Gはさらに動的に、そして異種混交的な要素も放り込む。すると読む側は「異種同士がくっつきあってモヤモヤと動いている状態」のような感じかな、という漠然としたイメージで読むことになる。英訳では他なる多の集まりという方向で「assemblage」(人やモノの集合体)、邦訳では宇野他訳の『千のプラトー』が組み合わせるという意味合いで英語の「arrangement」をカタカナにして「アレンジメント」、財津訳『哲学とは何か』では生成や作動の意味合いを含むフランス語に引き寄せてそのまま「アジャンスマン」である。

一般性や確定性を求める定義や意味への還元を拒むようなD/Gの用語法は、逆に言えば、「一時性と不確かさ」という基準があると考えるとちょっと納得がいく。厳密さを求めて接近まではできるが、確定はできないという意味で。(この考え方は荒川修作+マドリン・ギンズの運動の記憶、つまり出来事の到来において作動する感覚記憶、短期記憶を言語化する際に語が担う基準をひとまず借用した。)

「一時性と不確かさ」は言葉を確定することを拒むような力の作用である。この作用がフランス語でも他言語の翻訳でも特徴的に出てくるのは「multiplicité」というキー概念かもしれない。第2プラトー(『千のプラトー』では「第2章」を指す)のテーマともなるこの語を、日本語訳、特に文庫版では「多様体」と訳す場合が多い(ハードカバー版は「多種多様性」も多かった覚えがある)。ところが、この語は数学領域での多様体(仏: variété, 英: manifold)と異なる多項式(重根)いう意味がある。『千のプラトー』でのこの語は、厳密な多様体というより、多様性、多重性、多数性という多それ自体の関係の諸タイプの混交状態を表しているようにイメージできる場面が多いのである。

上の引用で財津氏が体験的に述べているように、D/Gの書物には、ページ上をあちこち飛び回ることでどうにか接近できるように、語が散りばめられていると言える。本を書くこと、本になること、本であること、本を読むことという連なりがagencementであり、multiplicitéを形成するような本に出会ったら、読むことを飛ぶこと、または飛び回る、否、さまようことにシフトさせて対処するしかなさそうだ。

もしかしたら、この本を開いたのではなく、この本に巻き込まれてしまったのか。言葉の渦のよう・・・否、渦や乱流の方が言葉を偽装して現れたようなのである。

では、『千のプラトー』はなぜそんな語の用法になるのだろうか? (もちろん『アンチ・オイディプス』も同様だが。) その点を、冒頭のエピグラフに挙げた「諸言」の1行目にある「資本主義と分裂症」というテーマからちょっと考えてみる。『アンチ・オイディプス』(1972)の冒頭では、「資本主義」と「分裂症」(現代では「統合失調症」と改称された)の関係は以下のように示されていた。

下の引用は、ゲオルグ・ビューヒナーの小説の主人公レンツが次第に狂気に陥っていく過程で散歩をするという描写の後に続いている。その散歩でレンツは、自然、環境、そして宇宙と機械的machinicにつながっているような感覚に包まれている。それゆえか、下の引用でD/Gは「分裂症の自然主義的な極を決定しようとしているのではない」と釘を刺している。
(D/Gの記述はパラグラフ単位が長いので、引用では一文単位で改行してある。【これからの引用も同様】)

私たちは、分裂症の自然主義的な極を決定しようとしているのではない。
分裂症者が、独自に類として生きているのは、決して自然の特定の極などではなく、生産のプロセスとしての自然なのである。
ここでいうプロセスとは何を意味するのか。
おそらく、ある水準においては、自然と産業ははっきりと区別される。
すなわち、ある面で、産業は自然に対立し、別の面で、産業は自然から原料をひきだし、また別の面では、産業はその廃棄物を自然に返している、等々。
自然-人間、自然-産業、自然-社会というこの弁別的関係は、社会の中にさえも「生産」「分配」「消費」と呼ばれる相対的に自律的な領域の区別を存在させる条件となっている。
しかし、こうした一般的な水準の区別は、発展した形式的構造の中に認められるもので、(マルクスが指摘したように) それは単に資本と分業の存在を前提としているだけでなく、資本家という存在が自己についてもつ誤った意識と、全体的過程に属する諸要素の固定を前提としている。
なぜならほんとうは、錯乱の中に埋もれている目覚ましい暗い真実が示しているように、相対的に独立した領域や回路といったものは存在しないからである。
すなわち、生産はそのまま消費であり、登録なのである。
登録と消費は直接に生産を規定しているが、しかも生産そのものの真っ只中で生産を規定している。
だから、すべては生産なのだ。

ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ「第1章 欲望機械」(『アンチ・オイディプス』上巻 pp.19-20)

『アンチ・オイディプス』では、欲望は欠如した対象を満たすもの、という欠如から出発する従来の欲望概念(念頭にはラカン派の欲望概念があるのだろう)に異議を唱えることから始まっていた。欲望を満たす欠如した対象の生産が、従来の欲望の生産だった。これに対して、D/Gにおける「生産」は、欠けることなき欲望の「生産」とされる。この「生産」が「分裂症者」であるレンツの散歩に見出される、とD/Gは主張するのである。

一方、従来の欠如を満たす欲望概念に沿った「生産」は、「自然-人間、自然-産業、自然-社会というこの弁別的関係」から「生産」を限定するような「形式的構造の中に認められる」という。丸括弧の中に「(マルクスのいうように)」と添えているように、この「生産」を、単に工業社会における資本主義と捉えず、産業資本、商業資本、金融資本がシステムを為して信用を基盤としたバーチャル空間も含む「結合生産様式」的な「形式的構造」を持つ資本主義世界、と捉えた方がフィットしそうだ(『資本論』第3巻)。というのも、単なる商品の生産ではなく、欲望の生産がここでは問題になっているからである。

このような区別の先例は、ジョルジュ・バタイユの一般経済と限定経済の区別に見られる(実際、『アンチ・オイディプス』冒頭では早速バタイユへの言及がある)。人類学的な視野から西洋中心の「蓄積」一辺倒の経済概念を批判するバタイユは、蓄積したものを「蕩尽」という徹底した浪費によって生産性を持たなくする経済から、蓄積を一方向的に目指す西洋的な経済を限定的と捉えた。(バタイユ『呪われた部分』参照)

ここから、この落書きの範囲で想像してみるなら、欲望の生産と自由との関係がこの引用でのテーマになっているようにも思える。もしマルクスが資本主義の「生産様式の中に」閉じ込められた人間の解放を捉え、バタイユが西洋的な人間からの解放を人類学的な蕩尽経済に見出したとするなら、D/Gは人間を有機体として扱うことで、生産概念自体を環境と結合するようにして欲望を全方位的に解放する契機を「分裂症者」の散歩に見ている。そんなふうに想像できる。

そこでようやくのこと、ちょっとだけ『千のプラトー』に戻ってみる。そして、その邦訳で言えばagencement「アレンジメント」、多種多様で異質なものとの結合が継続する状況を、『アンチ・オイディプス』でのレンツの散歩の描写に重ねてみる。すると、「資本主義と分裂症」というタイトルが気づかないうちに身近になっていることに気づく。というのも、グレゴリー・ベイトソンがダブルバインド状況と創造性に踏み出す状況が表裏一体になった段階が、資本主義システムととても似ているように思えるからだ。

また『千のプラトー』から遠ざかってしまうような、、、まあ、しかたがない。流れに沿っていこう。

ベイトソンのいうダブルバインド状況は、家族関係における親と子の相補的な分裂生成(支配-服従関係)が前提となる。さらにその関係の継続の中で親の方が一貫した考えを示さず、子供にその解釈を強いるような関係が長期間にわたって継続するという状況が加わる。そして、この継続によって子供の方に解釈不能なダブルバインド状況が生じ、統合失調症的な症状が出てくる。ここで注目したいのは、例えば、考えを一貫して示さない母親(言葉では愛していると言いながら表情や身振りで嫌いなサインを子供に示す)に従属している子供が、母親がいない場面でも「母なるもの」the motherを感じて、どこにいてもこの状況から逃れられなくなる点である。(ベイトソン「疫学から見た統合失調症」を参照。)

ここで、「それは単に資本と分業の存在を前提としているだけでなく、資本家という存在が自己についてもつ誤った意識と、全体的過程に属する諸要素の固定を前提としている」という上の引用の一節を見てみる。そして「資本と分業」を家族と分業に、「資本家」の誤った「自己意識」に母親のそれに、資本主義の「全体的過程に属する諸要素の固定」に統合失調症のクライアントが固定される親子の相補的分裂生成関係に、置き換えてみる。すると、マルクスのいう資本主義の「生産様式」が統合失調症のクライアントの家族でも相似的に演じられているように見える。

両者の共通の特徴は、「形式的構造」から逃げ出せるような外はない、と思い込む思考習慣を世界に敷き詰めていくという点である。なら、どうするか? D/Gは「資本主義と分裂症」というタイトルにその契機を忍び込ませているように見える。それは「資本主義」と「分裂症」を関係づける<と>という接続詞の捉え方にあるのかもしれない。

この落書きのとりあえずの方向舵は、ベイトソンが握っている(落書きは手持ちの知識でダラダラ書くしかできない)。そう考えながら、改めてD/Gの「資本主義と分裂症」というタイトルを眺めると、「家族と統合失調症」は切っても切り離せない関係であり、支配-従属的な分裂生成関係にあることが二重写しされる。すると、そこから逃れられない「統合失調症」が生じ、このような家族を拡張した資本主義社会自体もとても病的に見えてくる。ところが、ベイトソンはこのような家族関係が継続する中で、そこから脱することが可能なことも記しているのである。

「ダブルバインド、1969」という論考で、ベイトソンはダブルバインド状況から脱せない状況を統合失調症の状況とし、そこから脱する状況に創造的なものを見出した。ベイトソンはセラピストとしてそのような状況で苦しむクライアントの中に、稀にだが、この状況から脱するクライアントがいることも含めて、ダブルバインド理論のアップデートを試みている。その際、哺乳動物の行動観察からそのような脱出のケースをベイトソン独自の段階的な学習理論に組み入れている。以下はその引用である。

先に私は、ダブルバインド理論が、習慣をなす規則や前提のもつれに関わる経験的要因を問題にする、と述べた。ここでさらに、コンテクストの織り目に生じるズレや裂け目の経験は、それ自体が〝ダブルバインド〟であること、そして、(学習と適応の階層的プロセスに与するものである限り) それらは私の言う「トランス=コンテクスチュアル」なシンドロームを必ずや助長すると主張しよう。
ごく単純なモデル・ケースを考えてみる。1頭の雌のシワハイルカ (ステノ・ブレダネンシス) が、調教師の笛の音を「2次的強化」として受け取るよう訓練されている。笛が鳴ると、餌が来る。笛が鳴ったときやっていたのと同じ行動を後でまたやると、期待通りにまた笛が鳴って餌がもらえる。
このイルカが、「オペラント条件付け」のしくみを観客に見せるために使われる。演技用の水槽に入ったイルカが水面上に頭を出すと、笛が鳴って、餌が与えられる。再び頭を出すと、再び強化が与えられる。この同じシークエンスを3度ほど繰り返せばデモンストレーションとして十分だろうから、イルカは舞台から退いて、次の実演まで2時間ほど待機させられる。この段階でイルカは、自分の動作と笛の音と水槽と調教師とを1つのパターンへ織り合わせるための単純なルールを学んでいる。そのパターンとは、すなわち1つのコンテクストの構造であり、情報の結び合わせ方を告げる1組の規則である。
しかしこのパターンは水槽での1回のエピソードにしか適合しない。エピソードのクラス class に対応するには、この小さなパターンへの捕われを打ち破らなければならない。事象の脈絡の背後に、脈絡の脈絡 context of contexts が控えており、それに適応できないと (イルカは) 誤った行動を続けるしかないのである。
次の実演で調教師は「オペラント条件付け」を、また始めからやって見せようとする。そのためには、前回と異なった顕著な行動を選ばなければならない。
イルカは舞台に登場すると、前回同様、水面上に顔を出す。しかし、笛の音は聞こえない。調教師はイルカが次に際立った行動を見せるのを待つ。それは尾びれで水面を叩く動作かもしれない。イルカは苛立ったとき、よくその動作を見せるのだ。すると、今度はその動作が笛と餌で強化され、何度か繰り返される。
しかしもちろん、3回目のショーでは、尾びれの水面打ちには何の報酬も与えられない。
以上の手続きが繰り返された結果、最終的にそのイルカはコンテクストのコンテクストへの対処のしかたを学習した。舞台へ出るたびに、それまでとは異なった、新しい new 際立った行動を示せばよいことを学習したのである。
ここまでのことはすべて、イルカと調教師と観客とが (何の意図的な縛りのない) 自然史的な関係にあるなかで生じたものである。その後同様の手続きが、新しいイルカを使って実験的に繰り返され、その模様は忠実に記録された。[Pryor , et al. 1967]

グレゴリー・ベイトソン「サイバネティクス、1969」(『精神の生態学へ』中巻 pp.232-234)

ベイトソンは調教師にダブルバインド状況を作り出す母親、イルカに統合失調症に陥る子供をオーバーラップさせている。この二重写しに学的な根拠を与えるのは、彼の段階的な学習理論である。イルカは調教師から餌をもらえる際のルールを学ぼうとしている。餌をもらえると次にも同じことをすれば餌がもらえると予想するイルカは同じことを行う。が、その振る舞いに調教師は反応しない。イルカはあれこれと試みるが、餌が得られない状況が続く。こうしてダブルバインド状況が出現する。

調教師の方はというと、バラス・スキナーの「オペラント条件付け」を何度もリセットしながら新たに繰り返している。この条件付けは、これをすれば褒美に餌をあげて、それをすれば罰として餌をあげないという賞罰を設けることで学習させる手続きである。この賞罰のルールをそのつど調教師は変えるのである。イルカには苦痛の時間が続く。ここからベイトソンにとって「学習」とは、ある特定のコンテクスト下でルールを抽出し、他のコンテクストに適用することであることが見て取れる。一方、調教師側がコンテクストをくるくる変えると、コンテクストからルールを抽出するという「学習」が挫折し続けることにもなる。これが「学習」から見たダブルバインドである。

ところが、どういうきっかけかは不明だが(ベイトソンはここに確率的な過程を見出すのだが)、イルカはルールをコンテクストから抽出しようという努力すらやめて、自らさまざまな振る舞いを生み出していく方向に向かうことがある。餌を貰いたいという「欠如としての欲望」と、ルールを抽出して学習することでエサという対象を得るというパターン認知を「蓄積」するという方向性を放棄し、単に「消費」に走るような方向が、むしろ新たな生産、つまり「創造」へと向かうことになる、とベイトソンは解釈する。

この実験に関して、次の2点が重要だ。
その第1は、(調教師の判断から) 実験上の規則を何度も破る必要があったということ。自信をもってやった演技が報われないという経験がイルカに非常に大きな不安を与えたため、イルカと調教師の関係 (つまり、取るべき行動のコンテクストが置かれたコンテクストの、そのまた背後をなすコンテクスト) を維持するために、本来は得る資格のない多くの強化を与えなければならなかったのだ。
第2に、演技の初回から14回までは、不毛な結果が続いたということ。そのあいだ中イルカは前回強化された行動をやみくもに繰り返すだけだった。その間にとられた別の行動は「偶然」の所産と判断される。ところが14回目が終わった中休みのあいだ、イルカは明らかな興奮の様子を示した。そして15回目の舞台に現われるや、8種類の際立った行動を含む演技を念入りに披露したのである。そのうち4つはまったく新しいもので、この種のイルカにはそれまで観察されたことのないものだった。
私の見るところ、この物語はトランス=コンテクスチュアル症候群の発生にまつわる2つの面を明らかにしている。
1つは、他の哺乳動物との重要な関係性を律する規則を誤解するような状況に追いやられた哺乳動物は、激しい苦痛感と不適応症状に陥るうること。
そしてもう1つは、そうした病変への落ちこみをすり抜けた、あるいはそれに耐え抜いた動物にあっては、創造的能力が促進されうること、である。

(同上 pp.234-235)

人類学調査をしたベイトソンがイルカの単なる消費するような振る舞いそのものに「創造的能力」を見出すことと、バタイユが人類学的視野から従来の蓄積一辺倒の経済概念を「蕩尽」から捉え直し、芸術にその自由で創造的な表現を見出すことが、奇妙にもリンクしている点はとても興味深い。が、それ以上に興味深いのは、D/Gにとってベイトソンいうこの「創造的能力」が、資本主義自身の中で育まれ、抵抗し、あるいは突き破るようなポテンシャルを秘めていることを、様々なプラトーを設けて、複数の声でスローガンを叫ぶシュプレヒコールのように彼らの書物で繰り返されている・・・そのように思えてくる点だ。

「資本主義と分裂症」というタイトルがとても身近に感じられるのは、マクロ的な体制とミクロ的な、ごく個人的な病状が<と>という接続詞で繋がっているからだろう。この連結はマクロな体制とミクロな病理が全体と部分の関係あるからではない。むしろ、全体-部分関係を横断するような「トランス=コンテクスチュアルtrans=contextualなシンドロームを必ずや助長する」(ベイトソン)ような接続の関係にある、と考えられる。

ベイトソンは、最初の引用の冒頭部分で、「trans-」の接頭辞がついた関係を「コンテクストの織り目に生じるズレや裂け目の経験」と捉えていた。<と>という接続がズレや裂け目として生じる時、資本主義と分裂症(統合失調症)はその「シンドローム」(症候群)として分岐するように現れるのかもしれない。そう考えると、agencementに開かれたコンテクストの織り目そのものの世界を「トランス=コンテクチュアル」に経験するのも、レンツのような「ズレや裂け目」を経験する人物なのだろう。

統合失調症(分裂症)側から「資本主義と分裂症」というタイトルを眺めると、この病理は万人のものであることがわかる。というのも、私たちは資本主義の社会に生き、「コンテクストの織り目に生じるズレや裂け目の経験」を日々感じているからである。ベイトソンはこのような社会を「分裂生成」する社会として捉えた。D/Gは、だからこそ「プラトー状態」も資本主義的な分裂生成の社会の側で「特殊なもの」として稀に出現すると考えるのだろう。ベイトソンが調査した1930年代のバリ島の文化は「蓄積」をよしとしない文化だった。

さて、ここまでが「諸言」の最初の2行、「この本は『資本主義と分裂症』の続編であり、最終巻である。第1巻は『アンチ・オイディプス』であった。」に関する落書きである。落書きゆえの無駄口もはなはだ多くなった。その後に続く『千のプラトー』の各章を「プラトー」と呼ぶこと、日付がついていることについては、これからの「落書き」の中でおいおい言及することになるだろうから今回は省略したい。

だだ、『千のプラトー』という本ができる以前、前半の「プラトー」を構成する3つの論考がすでに発表されていた点についてはもうちょっと落書きを続けたい。というのも、「リゾーム」(ミニュイ社、1976年)、「狼はただ1匹か数匹か?」(『ミニュイ』5号)、「いかにして器官なき身体を獲得するか」(『ミニュイ』10号)には、この本の根幹をなす基本語「リゾーム」rhizome「多様体」multiplicité、「器官なき身体」corps sans organsがすでに出揃っているからである。

この3つの基本語たちには、落書き前半で述べたような、意味に還元する力に抗う力に満ちている。財津理氏がagencemantをめぐって飛び回るようにして接近することで示してくれたような、例の「一時性と不確かさ」に満ちているとも言える。この3つの論考のタイトルが「諸言」に並んでいると、この本を読むことは飛び回ることになるんだぞ、というD/Gからの警告が、無防備な読者に発せられている。そんなふうに思える。

そこで、この「落書き」では、意味に固定しないような読み方を、ひとまず図式的なイメージを介して言葉にしてみることにした。アンリ・ベルクソンの逆円錐図を回転させてみて、その動きに沿うようにして言葉を捻り出すとどうなるか、ちょっとした実験を課してみたい。もちろんこの手順が効かない場面が多く出てくるだろう。その場合は図式diagramのバリエーションをある程度試みてから、方向転換するつもりである。

ベルクソンの記憶の円錐

これを回転させると、

逆円錐が回転速度を与えられて粒子状に拡散している。上の中心部はゆっくりだが、下に向かって行くと回転速度が速まる。下の方では拡散した粒子が遠心力で外の空間に溶け込むようにして見えなくなる。

こんな感じ…?

ちなみにこの手順の発想は流体力学、位相幾何学、複雑系科学を語る際にダイアグラム(図式)に沿って言葉を紡ぎ出すことを一貫したフィリップ・ボール『かたち』、『流れ』、『枝分かれ』の3冊から参照した。というのも、一見静止画像に見える図式は、動的な出来事を記すことができるからである。流体力学がまだない時代、乱流をスケッチしたダ・ヴィンチは流れというランダムに見える動きに秩序があることを静止した画像に生き生きと描いた。このエピソードは『流れ』の冒頭にある。

また、こんな手持ちのモチーフしか持たないところから『千のプラトー』に巻き込まれているのだから、もうすでにこの「落書き」が長続きする気はしない。そこでちょっと付け焼き刃に、ガイド役として江川隆男氏の本に時々助け舟を求めるかもしれない。『アンチ・モラリア』、『死の哲学』以来、D/Gを読む際にいつも江川氏の言葉を参考にしてきたのは、D/Gの本に哲学の枠を無理にはめ込むようなことをせず、「情感の理」で飛び込んでいるように感じられるからである。江川氏に面識のある友人によれば、江川氏は酔うほどに明晰に饒舌になるという。ヘンリー・ミラーを引いて「水で酔っ払うこと」を推奨するD/Gの本を読むのだから(ドゥルーズがある時期アル中だったりガタリも晩年そうだったという逸話と関係があるかは不明だ)、これは信用に値する情報である。(「水で酔っ払うこと」については、第6プラトー「いかにして器官なき身体を獲得するか」 『千のプラトー』上巻 p.339参照)

さらに、『千のプラトー』を一冊の本として読む試みは仲正昌樹氏の『『千のプラトー』入門講義』がすでにある。ので、『千のプラトー』の乱流に呑まれて溺れた時は、浮き輪としてしがみつかせていただくこともあるだろう。この『入門講義』で試行錯誤する仲正氏の言葉には、うまくまとめようとしない姿勢がうかがえて、多少とも安心感を得ることができるからである。

このような経緯から、『千のプラトー』の「落書き」はその言葉たちから連想させる乱流的イメージを重ねて、「D/Gに巻き込まれる」とした。もちろん「乱流的」というイメージは個人的なものに過ぎない。ただそんな姿勢でどこまで読める(流れに沿って流れたり、時折はあちこち飛び回ったりする)か、実験する場としてnoteをお借りしたいと考える。

それゆえ、この「落書き」は哲学領域からも学問領域からも遠く離れているし、さらに遠ざかっていくだろう。これはただ単にプライベートな、いい意味では試行錯誤、通常の意味では単なる読み物にもならない悪戦苦闘の無駄話である。それでは文字を連ねる自分もつまらないので、ちょっとスラップスティック風の味付けくらいはするかもしれない。筋も意味もないドタバタには喜劇がふさわしいだろうから。

今回は「諸言」なので、渦の縁あたりでアタフタする言葉を連ねておしまいになる。けれど、次回から『千のプラトー』に巻き込まれる時は、不死・革命・トランスヒューマンという課題は手放さないぞ、という姿勢だけは維持したい。

さて、最後にちょっとだけ、第1プラトー「序 リゾーム」の冒頭部分を覗いてみる。

われわれは『アンチ・オイディプス』を2人で書いた。
2人それぞれが数人だったのだから、それだけでもう多数になっていた。
この本では、いちばん手近なものからいちばん遠くにあるものまで、なんでも手あたりしだいに利用した。
見分けがつかなくなるように巧みに擬名をばらまいた。
なぜ自分たちの名はそのままにしておいたのか?
習慣から、単に習慣からだ。
今度はわれわれ2人の見分けがつかなくなるように。
われわれ自身ではなく、われわれを行動させ感じさせ、あるいは思考させているものを、知覚できなくするために。
それにみんなと同じようにお喋りして、日が昇る、などと言うことは楽しいからだ。
みんながそんなのは話の糸口に過ぎないと承知しているときに。

ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ「序 リゾーム」(『千のプラトー』上巻 p.13)


んっ?

なんだこれ?

なに言ってんだ、こいつら?

https://adamwriteseverything.blogspot.com/2014/01/gilles-deleuze-liberal-research-time.html参照


※見出し画像は以下の記事から参照した。


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