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年齢を重ねて、なお学ぶ。

「後生可畏」

『論語』の言葉です。

私は、仕事でも趣味でも、何かを学ぶことが好きです。特に新しいことにはワクワクしますし、できるだけ多くを吸収したくなります。

20代の頃は、どこへ行っても、

「若いね」
「覚えが良くていいね」
「先が楽しみだね」

と言われることが、いつの間にか当たり前になっていました。

もちろん、間違えたり、失礼があったりして叱られることもありました。それでも、師や先輩たちからいろいろなことを教えていただき、可愛がっていただいたと思います。

そんな私も、もう50歳を過ぎました。
今も自分自身の活動をしながら、勤めの仕事もしています。

転職が多かったこともあり、今は一社員として働いています。そのため、自分より若い人たちから教えてもらうことも少なくありません。

けれど、私はそれを嫌だと思ったことがありません。
もともと年齢に関係なく人と関わることが好きですし、若い世代の考えや話を聞くのも好きです。

中でも、意識の高い人、意欲的な人、純粋な人、誠実な人に出会うと、本当に敬服します。

「自分も、もっとしっかりしなければ」

と、自分の甘さを感じさせられることさえあります。

孔子は、

「子曰、後生可畏、焉知來者之不如今也、四十五十而無聞焉、斯亦不足畏也已。」

と言っています。

「後生は畏るべし。これからの人が、今の人に及ばないなどと、どうして分かるだろうか」

若い人には、これから先、自分たちを越えていく可能性がある。だからこそ、年齢だけを理由に軽く見てはいけない。

一方で、私はこの言葉の後半にも、どうしても目が向きます。

「四十五十而無聞焉」

四十、五十になっても、何も聞こえてこない。

ここでいう「聞」は、単に有名になることではなく、その人が世に認められるような仕事や学びを成していること、と理解されます。

そう考えると、私はもう、この言葉の「四十、五十」の側にいます。

若い頃のように、

「これから先が楽しみだね」

と言われる年齢ではありません。

人生の残り時間を考えることも、以前より増えました。

だから、この言葉は若い人に向けた言葉として読むだけではなく、自分自身に向けられた言葉としても響いてきます。
だからこそ、少し耳の痛い言葉でもあります。

けれど、私はこれを「四十、五十になればもう遅い」という言葉だとは思っていません。
むしろ、年齢を重ねても学ぶことをやめるな、という自分への戒めとして受け取りたいと思っています。

若い頃は、知らないことが多いから自然に人から教えてもらいます。
しかし、年齢を重ねるほど、「自分は知っている」という感覚も増えていきます。
だからこそ、若い人の言葉に耳を傾けることが大切なのだと思います。

自分にはなかった考え方。
自分の時代にはなかった価値観。
自分より若い人の、まっすぐな意欲。

そこに触れたとき、「自分もまだ学べる」と思えること。

それは、年齢を重ねたからこそできる学びなのかもしれません。

私はもう、「先が楽しみだね」と言われる側ではありません。

けれど、これから先も、若い人を素直に畏れ、敬い、そこから学ぶ人でありたい。

そして、自分自身も「もう遅い」と可能性を閉じることなく、生涯をかけて精進していきたい。

「後生可畏」。

この言葉を、若者への言葉としてだけではなく、

「自分もまた、学ぶ者であり続けよ」

という、自分自身への言葉として受け取っていきたいと思います。

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🙂今回のブログはここまでです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

梁世(りょうせい)|巡る問い 易セッション主宰

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