一本の線を、あなたから
彼がそれを差し出したのは、何でもない夜だった。
箱は小さかった。
黒に近い紺色で、リボンもない。
彼女はテーブルの上に置かれたそれを見て、しばらく手を出さなかった。
「何ですか」
「開ければ分かる」
「そういう言い方、ずるいですね」
彼は答えなかった。
猫が椅子の脚に身体を擦りつけて、そのまま向こうへ歩いていく。
彼女はようやく箱を手に取った。
軽い。
蓋を開ける。
細い一本の簪が入っていた。
銀色の軸。
余計な装飾はほとんどない。
端に、小さな白いものがひとつだけ揺れている。
貝にも見えたし、真珠にも見えた。
「……これ」
彼女は指先で触れた。
「簪ですね」
「そうだな」
「それは見れば分かります」
少しむすっとしてから、もう一度見る。
かわいらしい花はついていない。
赤い玉もない。
房もない。
細く、硬い線。
その先に、ごく小さな白。
それだけだった。
「どうして、これにしたんですか」
彼は少し間を置いた。
「お前には、あんまり飾りを足したくなかった」
彼女は顔を上げた。
「……それ、褒めてます?」
「褒めてる」
「難しい褒め方ですね」
彼は笑った。
それから簪を指差した。
「髪がもう十分あるから」
彼女は黙った。
「量も、流れも。そこに花をいっぱい付けても、たぶん違うだろ」
図星だった。
彼女は簪を箱から取り出す。
細い軸は、思っていたよりしっかりしていた。
「一本だけでいいと思った」
彼が言った。
「一本?」
「線が」
彼女の手が止まった。
そういう言葉を、この人が使うとは思わなかった。
彼女は簪を見つめた。
流れるものを、一本で留める。
切るのではなく。
縛るのでもなく。
ただ、必要な場所に一本通して、形を与える。
「……私、こういうの、人からもらうの嫌かもしれないと思ってました」
「じゃあ返す?」
すぐに言われて、彼女は簪を胸元へ引いた。
「それは嫌です」
「どっちだ」
「あなたじゃなかったら、という意味です」
彼は黙った。
彼女は少し困った。
言ってから、その意味の大きさに気づいた。
だから視線を落として、簪の白い粒を指で揺らした。
「誰かに、これが似合うとか、こういう女でいてほしいとか……そういうのを決められるのが、あまり好きじゃないんです」
「うん」
「昔から、形を決められるのが嫌でした」
「知ってる」
「でも」
簪を握る。
「あなたがこれを選んだのは、なんか……違う気がします」
彼はまだ何も言わない。
待っている。
彼女はその沈黙が好きだった。
急いで言葉を埋めないところが。
「私を変えたいからじゃないでしょう」
「違う」
「あなたの好みにしたいからでもない」
「違う」
「じゃあ、なんで」
彼は彼女の髪を見た。
肩を越えて、以前より少し長くなった髪。
量が多く、ところどころ自然にうねっている。
昔なら、重いと言って切っていただろう。
扱いづらいと言って、減らしていただろう。
けれど今は、それを伸ばしていた。
「その髪、最近好きそうだから」
彼女は目を瞬いた。
「……それだけですか」
「それが大事だろ」
胸の奥が少し動いた。
彼は続けた。
「お前がやっと、自分の持ってるものを減らさなくなったから」
彼女は何も言えなかった。
髪のことだけではないと、分かった。
欲も。
感覚も。
創作も。
怒りも。
静けさも。
人と違うところも。
ずっと「多すぎる」と思って、どうにか小さくしようとしてきたもの。
彼はそれを、増やせとも減らせとも言わなかった。
ただ、
そのまま使えばいい、
というように簪を差し出した。
「つけてみます」
彼女は立ち上がった。
鏡の前へ行く。
髪を集める。
最近覚えたばかりの手つきで、くるりとねじる。
まだ少し短い。
毛先が逃げる。
一度失敗した。
二度目も、少し緩んだ。
後ろから彼が見ている。
「笑わないでください」
「笑ってない」
「見られるとやりづらいです」
「じゃあ向こう向く?」
「それも嫌です」
彼が小さく息を吐いた。
笑ったのだと分かった。
三度目。
髪をねじる。
張力を残す。
簪を差し込んで、返す。
根元の髪を拾う。
もう一度、束の中へ通す。
すっと、留まった。
彼女は手を離した。
髪が落ちてこない。
「……できた」
鏡の中で、銀の一本線が黒い髪を横切っていた。
白い粒が、小さく揺れる。
彼女はそれを見て、少しだけ息を止めた。
似合っている。
というより、
馴染んでいる。
まるで前からそこにあったものみたいに。
彼が後ろへ来た。
けれど、髪には触れなかった。
鏡越しに視線が合う。
「どうですか」
「いい」
「それだけ?」
「俺が選んだんだから」
「自信がありますね」
「珍しくな」
彼女は笑った。
それから、ふと思いついて言った。
「これって、ちょっと怖いですね」
「何が」
「人から線をもらうって」
彼の表情がわずかに変わった。
「嫌なら外していい」
すぐに返ってきた。
その言葉を聞いた瞬間、
彼女はこれを、しばらく外したくないと思った。
「そういうところです」
「何が」
「あなたからなら、もらってもいい理由」
彼は答えなかった。
彼女は簪へ触れる。
硬い。
細い。
でも、その一本があるから、髪はほどけない。
「私の形を決めない人だから」
彼女は言った。
「だから、あなたの線なら、少しくらい入れてもいい」
静かになった。
窓の外では、風が木の葉を動かしている。
彼はようやく手を伸ばした。
簪ではなく、その下の髪へ。
指先で、落ちていた一房をそっと耳の後ろへ送る。
「少しくらい?」
「全部はだめです」
「分かってる」
「私の髪ですから」
「うん」
「私の身体も」
「うん」
「私の人生も」
「それも」
彼女は鏡の中の彼を見た。
何も奪われていない。
だからこそ、
何かを渡したくなった。
彼女は身体を少しだけ後ろへ預けた。
背中が彼の胸に触れる。
彼の手が腰へ回る。
ただ、それだけ。
髪の中では、彼が選んだ一本の線が、
彼女自身の張力によって留まっている。
そこがよかった。
彼の簪なのに、
留めている力は自分の髪の中にある。
彼女は目を閉じた。
「……これ、ずっと使うかもしれません」
「使わなくてもいい」
「そう言われると使いたくなるんですよ」
「難しいな」
「私はそういうものです」
「知ってる」
今度は、その言葉が少し嬉しかった。
知っている。
でも、決めつけない。
近づく。
でも、奪わない。
線を差し出す。
けれど、それを髪へ通すのは彼女自身。
そのくらいが、
彼女にはちょうどよかった。
月のような銀の光と、
小さな白い真珠が、
鏡の中で静かに揺れていた。
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