映画『セッション』から考える暴力
★この先の文章は映画『セッション』のあらすじや内容について言及しています。ネタバレを好まない方は一度映画をご覧になった上で以下をお読みいただくことをお勧めします。
暴力的な要約/あらすじ
『セッション』という映画を見た。106分で比較的短くて、さっぱり見終えることができる。暴力的に要約するなら、音楽大学に入学したドラマーの主人公がカリスマ指揮者にしごかれながらも成長するというあらすじ(今時、指揮者のいるビックバンドジャズが流行っているのかは割と疑問だが)。
youtubeにあった宣伝用の動画を張っておく。
このカリスマ指揮者、名前はテレンス・フレッチャーは恐怖政治でバンドを取り仕切っていて、主人公アンドリュー・ニーマンはほんの少しテンポが違うと折檻される。メインドラマーもちょっとした理由で簡単に変えられてしまう。
そういった恐怖政治が成立しているのは、単純にフレッチャーには実績があるから。学生達はこの人に認められたい、認められればその後のキャリアは見えてくる、という気持ちなのかもしれない。
フレッチャーのやっていることはかなり無茶苦茶な暴力で、そんな教師から逃げたらいいのに、などと傍から見ていると思ってしまう。
そして傍から見せないように、観客を主人公と一致させるように映像は工夫されている。
主人公ニーマンはいろいろ頑張って主奏者に成り上がり、どうやら大き目のコンサートに出演することになった(詳細については映画を見ていただくほかないのでご容赦願いたい)。
そしていろいろアクシデントがあって、血まみれでドラムスティックを握るのもやっとの状態でステージに上る(106分の映画なので筋運びには強引さはあるがあまり気にならなかった)。
当然演奏などまともにできるはずもなく、演奏はめちゃくちゃになってフレッチャーとニーマンは舞台上で喧嘩になって終わる。ニーマンは退学になり、フレッチャーは過剰な指導が問題になり、退職することになった(その密告が誰によるものなのかは作中では明示されておらず宙吊りだ)。
その後、ジャズバーでたまたまニーマンとフレッチャーが出会う。その時にフレッチャーは初めて自身の過剰な指導方法について語る。チャーリーパーカーが成功したのは、ジャムセッションで失敗したときにフィリー・ジョー・ジョーンズからシンバルを投げられたというエピソードが挿入され、その暴力があったからこそ、ジャズを変えてしまうような偉大な成功を成し遂げたのだ、という理屈で暴力を合法化してしまう。
その後またいろいろあって、フレッチャーの指揮のもとニーマンはステージでドラムを演奏することになるのだが、1曲目の楽曲はニーマンに知らされていない曲で、ニーマンは当然まともに演奏することができない(これがまたキメの多い曲でブレイクの箇所を知らないと全く歯が立たない難曲だ)。
ニーマンは、フレッチャーへ反発から一人勝手にcaravanの演奏を始める。緊張感のある展開でなかなかのカタルシスがある。
フレッチャーはニーマンの暴走に一応は怒鳴って見せるのだが、ニーマンの素晴らしい演奏によってか、最終的には微笑んでドラムソロを一緒になって盛り上げる。そして映画は終わる。
駆り立てられる成功
フレッチャーの過剰な暴力的指導によって、ニーマンは偉大なジャズマンになった、というのが一般的な解釈のように思える。フィリー・ジョー・ジョーンズにシンバルを投げつけられることで大成したチャーリー・パーカーがニーマンに重ねられている。
また作中では成功を駆り立てるエピソードとして、親族のだれだれがどこどこ大学のアメフト部で成功していて、その兄弟は大きい会社で成功していて~というような典型的な成功エピソードが挿入されている。
こちらのエピソードにしても、フレッチャーの指導方針にしても幾分過剰な成功至上主義がある。客観的な成果以外は全く意味がないといわんばかりのエピソードだ。そしてニーマン自身も音楽で成功する必要がある、そのためには時間が惜しいということで、恋人に一方的に別れを告げる。
しかし作中にはフレッチャーの元教え子でプロになった(ウィントン・マルサリスに指名されたとか)人物が、その華やかな成功の一方で自殺したというエピソードも挿入されている。
このエピソードによってフレッチャーの暴力は相対化される契機を得、作品は一定の批評性を確保する(これがないと本当に暴力推奨映画になってしまう)。
なぜフレッチャーは暴力をふるうのか/過剰な物語化
フレッチャーの暴力は過剰だ。そして彼の暴力はジャズマンとしての成功という目的によって合法化されている。ラストシーンのcaravanを考えると、「成功には暴力が必要だ」というメッセージが読み取れる。そういう終わり方だった。
暴力や体罰に効果はないというような研究結果もあるという聞いたことがあるが、実際のところは一旦置いておいて、成功には暴力が必要と認めて考えてみる。
なぜフレッチャーは暴力をふるうのか。
フレッチャーは名門大学の名物教授として一定の成功を収めているが、それはチャーリーパーカーがジャズを変えてしまったほどの成功ではない。教え子にチャーリーパーカーを重ねるより、自身がそうなることを目指すべきではないか。
フレッチャーはチャーリーパーカーにはなれなかった。客観的な成功を目指す垂直方向の欲望(松本卓也『斜め論』)は挫折している。しかし絶えず成功に駆り立てられる社会にあっては、水平に広がり安住することは許されない。
フレッチャーは自身が達成できなかった欲望を教え子に押し付けている。「あなたのためだから」といって、当人の意向を無視してしまうことなんて、日常生活でもざらにある。「女の子だからこうあるべき」とか、「大人だからこうすべき」とか。
暴力とは欲望を押し付けることだ。その時相手の在り方は歪められている。
暴力は消えるのか
「暴力は欲望を押し付けること」と拙すぎる速度で定式化した。暴力は良くない。なぜなら相手の在り方を歪めてしまうからだ。
ここまで「当人の意向」や「相手の在り方」なるものを前提として議論を進めてきたが、果たしてそんなものが有りうるのか。
例えばニーマンが偉大なジャズマンになりたいと思っているとする(映画を見る限り順当な解釈だ)。しかしそれは成功に駆り立てられる社会に要請されたものではなかったか。他者からの「こうあってほしい」という期待は常に自分自身にも跳ね返ってきている。純粋な「当人の意向」や「相手の在り方」は存在せず、常に他者の欲望が滑り込んでいる。
暴力は消せない。他者関係は暴力によって基礎づけられている。僕たちは他者の欲望が渦巻き、常に成功へと駆り立てられる社会の中に生きていて、そこでは常に暴力に晒されている。
おわりに
無理筋を押して押して、なんとかそれらしい風に書いてきた。がしかし無理なものは無理である。土台読めたものではない。
フレッチャーの過去については映画中では描かれておらず過剰な物語化であるし、彼の暴力と他者関係を基礎づける暴力とでは単なる程度の差異では片づけられない差異があるのではないか。
浅田彰の蓮實重彥評を最後に引用して終わる。身につまされる批評だ。
蓮實重彥は映画を物語へと還元することを拒否する。どこまでも具体的な画面の継起のうちにふみとどまり、その外部に抽象されたものでしかない物語に請求にとびつこうとする安易さを徹底して斥けること。そのためにも、画面を深層の意味に還元するのではなく、あくまでもそれ自身の表層性において体験すること。
『セッション』において、筋立ての強引さを若干感じたが、それは映画を物語へと還元しすぎているが故のものかもしれない。
だとすれば筋運びの強引さこそに目を向けてもいいのかもしれない。そもそも筋を措定することに問題がある。。。
出来の悪い批評はおしまい。
