「する」と「ある」~アーナンダマイー・マーの教えより
「to do」と「to be」
「する」ことから始まる人は、何かをしようとする。瞑想をする。祈りをする。マントラを唱える。神を思う。自分を変えようとする。それは必要なことです。
はじめは、自分の意志で行わなければなりません。けれど、「すること」と「あること」は同じではありません。マーは、こう語っています。
“Being is one thing, and doing quite another.”
「あること」と「すること」は、まったく別のものです。
「する」とは、自分が何かを行うこと。「ある」とは、何かをしようとしなくても、その状態が自然に起こっていること。
瞑想
瞑想も同じです。最初は、「瞑想しよう」と、自分で努力する。けれど、努力を重ねていくと、やがて瞑想が自然に起こるようになる。「自分が瞑想している」のではなく、瞑想がある。
祈り
祈りもそうです。最初は、自分から神を思い出そうとする。何度も名前を唱え、何度も心を神へ向ける。けれど、やがて、神を思おうとしなくても、心そのものが神へ向かう。そこでは、「する」という感覚が薄れていく。
努力
マーは、努力についても語っています。
“Sustained effort ends in effortless being.”
「持続した努力は、努力のない在り方へと至る。」
「何もしなくていい」ではない
だから、「何もしなくていい」ということではありません。むしろ、最初には努力が必要です。けれど、その努力を永遠に握りしめるのでもない。することを通って、あることへ。これが大切なのです。
変わろうとする自分
人は、「もっと瞑想しなければ」「もっと善くならなければ」「もっと神に近づかなければ」と、自分を変えようとします。けれど、その「変わろうとしている自分」さえ、最後には手放されていく。すると、「自分が何かを成し遂げた」という感覚ではなく、ただ、そうである。ただ、ある。というところへ近づいていく。それは、新しい何かを獲得することではありません。何かになることでもありません。むしろ、何かになろうとしていた動きが静まったとき、もともとそこにあったものが現れる。
「する」から「ある」へ
だから「する」と「ある」は、対立するものではありません。「する」は、「ある」へ向かう道にもなる。そして最後には、「私はしている」という感覚さえなくなり、ただ、ある。そこには、する人も、されることも、その結果を握ろうとする人もいない。ただ、それがある。それだけなのです。
~引用について~
本稿で引用した
“Being is one thing, and ‘doing’ quite another.”
“Sustained effort ends in effortless being; in other words, what has been attained by constant practice is finally transcended. Then comes spontaneity.”
これは、1948年8月12日、ベナレスでのアーナンダマイー・マーの質疑応答記録に基づく英語資料より引用しています。
出典:
Words of Sri Anandamayi Ma
Ma Anandamayi.org

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