子曰、君子和而不同、小人同而不和
言いたかったことを思い出すのは、いつも帰り道だ。
帰りの道すがら、「あそこで、こう言えばよかった」と完璧な言葉が降ってくる。三時間遅れで。
先週の打ち合わせもそうだった。出てきた案に、私は正直、無理があると思っていた。でも進行役の人は乗り気だったし、時間も押していたし、何より私が言うことでもない気がして、黙っていた。そのとき、隣の席の人がさらっと言った。
「それ、たぶん現場が回らないです」。
空気が、少しだけ張った。でも三十秒後には、その前提で話が進みはじめていた。私は自分の中の言葉が、行き場をなくして沈んでいくのを感じていた。悔しさと、ほんの少しの憧れ。ああいうふうに言える人が、私はずっとうらやましい。
その週末、実家に寄った。夕方のニュースで、海の向こうの大統領が何かを言っていた。父が味噌汁をすすりながら、「よく言うよなあ、この人は」と笑った。
思ったことをまず口に出して、あとから引っ込める。あんまり引っ込めるものだから、TACO(Trump Always Chickens Out=トランプはいつも引っ込める)なんてあだ名までついたらしい。それでも次の日には、また何かを言っている。
父のように、そこに小気味よさを感じる人がいるのは、分かる気がした。言いたいことを飲み込んで生きている人ほど、代わりに言ってくれる誰かの声は大きく聞こえる。何か大きなものと戦ってくれているように見える瞬間も、きっとあるのだろう。私だって、会議室で隣の人が言ってくれたとき、少しだけ胸がすいたのだから。
ただ、その気持ちのまま頷けなかったのも本当だった。私は父とは少し違うことを思っている。でも、言わなかった。
台所で洗い物をしながら、自分に少しがっかりした。
会議でも実家でも、私は結局、何も言わない人だ。
言葉は放った瞬間に自分の手を離れてしまう。あとから「言い過ぎた」と思っても、相手の中にはもう残っている。訂正はできても、なかったことにはできない。ニュースの中の出来事なら、次のニュースが上書きしてくれる。けれど私と父のあいだには、上書きしてくれるニュースがない。次に会うのはたぶんお盆で、そのときも同じ食卓につく。
言いたいことを全部言えば、分かり合えるのだろうか。たまには、そういうこともあると思う。ぶつかってはじめて本音が見えて、前より近づける関係も確かにある。でもそれは、相手を信じきれているときだけだ、というのが私の実感だ。たいていは、言葉のほうが先に強くなって、関係が後から追いつけなくなる。
結局、節度なのだと思う。何を言うかより、どこで止めるか。
その夜、本棚から『論語』を引っ張り出した。
子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。
仲良くやることと、同じ意見になることは、別のこと。注釈にはそんなふうに書かれていた。
いい言葉だなと思った。孔子も分かり合えない誰かと同じ部屋にいたのだ。そして「同じにならなくていい」と、わざわざ書き残してくれた。逆に言えば、意見を合わせにいくことは、必ずしも仲の良さではないのだとも読める。
私は父と同じ意見にはならない。たぶん、これからも。それでも、同じ鍋から味噌汁をよそうことはできる。それは我慢でも負けでもなくて、たぶん「和」のほうなのだと思う。
言えなかったのは、弱いからじゃなくて、その人との明日をまだ残しておきたかったから。飲み込んだ言葉は消えたわけじゃなく、ちゃんと私の中にあって、いつか、ちょうどいい温度で出せる日が来るかもしれない。
もちろん、言わなきゃいけないときはある。飲み込んではいけない言葉も、確かにある。そこだけは間違えないようにしたい。
ただ、「はっきり言える人がえらくて、言えなかった自分はだめ」という物差しだけは、そっと脇に置いておきたいと思った。
今日もきっと、帰り道の途中で完璧な言葉を思いつく。三時間遅れで。それでいい。それはたぶん、まだ使わなくていい言葉だったのだと、そう思うことにしている。
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