『論語』のなかの「推しの章」② 信義の重要性
私は六月くらいから(正確な日付は覚えていないのですが…)『論語』を毎日素読しており、いまはもう半分以上読み進めたところです。
それで、私はそうした素読を続けるなかで気に入った章、心にささった章をみつけると線を引いたり、丸印をつけたりしているのですが、その中でも特に気にいった章や、今後も忘れたくない章には「推し」と書くようにしているんですね(笑)
そこで、今後そういう章を少しずつ紹介していけたらな、と思っています。
さて、今回取り上げる私の「推し」の章は、『論語』二つ目の篇・為政篇の第22章(金谷治訳注・岩波文庫版の区分に従う)に出てくる言葉です。
短いフレーズですから、気にいった方はぜひ暗唱してみるといいと思います。
子曰、人而無信、不知其可也。大車無輗、小車無軏、其何以行之哉。
(子曰はく、人にして信無くんば、その可なることを知らざるなり。
大車輗(げい)なく、小車軏(げつ)なくんば、それ何を以てかこれを行(や)らんや)
・現代語訳
先生(孔子)が言われた、「人として信義(うそをついたりせず、他人に対して誠実であること)がなかったら、その人はうまくやっていけるはずがない。
それは、例えば牛車に装着する横木や、馬車に装着するくびき止めが無いようなものだ。(それでは牛や馬を車につなぐこともできないので)そんな車をどうやって前に進めるというのか。
この部分の章は短いですが、人としての「信義」の重要性を語った章となっています。
ここで、「信」という漢字を見てほしいですが、にんべんに「言」と書きますよね。また、この漢字は「まこと」と読むこともありますよね。
つまり、「信」という漢字は本来、「人の言葉にいつわりがないこと」という状態を指したものです。それをいいかえると、「他人に対してうそをつかないこと」「誠実であること」だといえます。
そして、孔子はその「信」が人にとっていかに大事か、それを説明するためにたとえ話をつかっていますが、それがまた面白いですね。
現在の私たちは牛車や馬車と言われてもなじみがないと思いますが、ここで孔子が言いたいのは、
「他人に対してうそばかり言ったり、不誠実な人は、使いものにならない牛車や馬車のようなものだ。前に進まないそれらの車のように、結局は社会のなかをうまく渡っていけなくなる」
ということなのではないかと思います。
人間、生まれてから一度もうそをついたことがない、という人はいないでしょう(私もありますので)。
しかし、「習い性となる」という言葉があるように、いつもいつもうそをついているようでは、いつしかそれがくせになってしまうでしょう。これはやはり恐ろしいことだと思います。
うそをつくことで、一時的には自分の利益になるかもしれませんが、一度何かうそをついて自分自身をごまかしてしまうと、その後も自分にうそをついて取り繕う必要が出てきたりしてしまうと思います。
そして、その大きなうそがばれてしまうと、人からの信頼を失うでしょうし、人間関係に支障を及ぼしますよね。
そこから信頼を回復するというのも、無理ではないと思いますが困難が伴うでしょう。
これは個人レベルの話だけでなく、企業の不祥事とか、大きなレベルでの不正などをみればよりわかりやすいと思います。
しかし、そういう大きな不祥事であっても、最初は小さな嘘からはじまっていたりするものです。だから、そこで油断をせずに、人として信義を失ってしまうこと、それは巡り巡って自分(やその組織)の首を絞めるのだ、ということを肝に銘じるべきだと思います。
なぜ人は嘘をついてしまうのか、私自身の過去の経験などを振り返って考えてみましても、それは「目先の利益にとらわれてしまう」からだと思います。
個人レベルであれば、自分にとって不都合な事実を隠すことで「周囲の人から怒られたりするのを防ぐ」、もっと大きな組織レベルであれば、「社会からの追及を防いで組織の保身に走る」といったところでしょうか。
しかし、人間そういう嘘をついているとやはり心のなかにどこか後ろめたさを感じるものですし、そういう嘘は不思議なものでいずれ発覚するようになっていると思うんですね。
なので、目先の利益にとらわれたうそはかえって自分の首を絞めるべきだと思うことです。
これについて、前の記事でも書いたことがありますが個人的に忘れられない話があります。
私の中学の部活の顧問は厳しい方で、怒鳴ることもしばしばでしたが、正直な行動には案外優しいものでした。
あるとき、部活内で「練習中にふざけている一年生がいる」という話が三年生の間で出たらしく、私たち一年生の部員はみな呼び出され、先生が、
「練習中にふざけた者は手をあげなさい」
と言いました。そこで私は近くにいた仲の良かった友達と目で合図をし(私たちは自覚がありましたので)素早く手を挙げました。
そして、私たちに追従するかのようにほかの部員たちが手を挙げました。
すると、先生は私たちを怒るどころか、
「先に手を挙げたものたち(=私たち)を評価する。人として間違いをおかしてしまったとき、それをまず認めるということが何より欠かせない。君たちには、間違いをごまかすような大人になってほしくない。その点、後から手をあげた者たちは自分の意思で間違いを認めようとしたのではないから、そういう態度ではいけない」
といった内容のことを言って、むしろ私たちの後に手を挙げた人たちを怒っていました。
そして私たちは後から個別で先生に呼ばれ、
「間違いをしたときにそれを自分からちゃんと認めること、そういう態度を今後も大事にするように」と言われました。
あれから10年以上、このことはいまだにはっきりと脳裏に焼き付いています。
当時は『論語』をよんだことがなかった私でしたが、今また『論語』の言葉にふれてこのエピソードが思い出され、改めて「信義」の重要性を認識いたしました。
みなさんには、この「信義」にまつわる個人的な経験はあるでしょうか。『論語』のこの部分を読んで、何か思い出されるものがあるかもしれませんね。
このように、自己の経験と章の内容が結びつく、それもまた古典、特に日常生活のなかでの心構えを説いた章が多い『論語』を味わう醍醐味だと思います。
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