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「信じる」ことと「憶える」こと──福音は「誕生日」と同じ構造を持ち得る

※この記事は、特定の教派・立場を断定する意図によるものではなく、あくまで筆者の個人的・自由な思索をまとめたものです。信教・思想・良心の自由を尊重しつつお読みいただければ幸いです。


1. はじめに──「福音」とは何かをもう一度考える

新約聖書によれば、キリスト信仰の中心に置かれる「福音(Good News)」とは、非常にシンプルなものであるとも言われます。

パウロは、コリント信徒への手紙の中で、自らが受け継ぎ、そして伝えた「最も大切なこと」として、その核心を次のように述べました。

キリストは私たちの罪のために死に、葬られ、三日目に復活した。

これこそが、初代教会が命がけで伝え、人々がその生き方を一変させた「福音」の核心であると考えられます。これは単なる教えではなく、歴史上の出来事として語られるものでした。

福音と「信仰」の距離

しかし今日こんにち、このシンプルかつ強力な「福音」は、「信仰」という言葉の中に包まれ、「見えないものを信じる」という、個人の内面の領域に置かれてしまうことが多くあるとも思われます。

もちろん、信仰(信じること)は、福音を受け取る上において極めて重要な要素であると考えられます。しかし、福音のメッセージが、単に「信じれば救われる」という抽象的なスローガンに矮小化されてしまうというような危険性も指摘できるように思われます。

心に残ったキーワード「記憶」

最近、ある一つの言葉が印象に残りました。
それは、「記憶」です。

福音は、単に「信じる」ことだけでなく、「憶えている」ことと深く関わっているのではないでしょうか?
キリスト教の起源と力は、過去に起こった揺るぎない出来事(死と復活)を、現在に生きる私たちがどのように「記憶」し、継承していくかにあると言えるのかもしれません。

この記事では、「福音」という出来事を軸に、「信仰」と「記憶」という二つの言葉が私たちに与える意味を、個人的な思索として深めていきたいと思います。


2. 「記憶」という言葉の意味──「記して憶える」という構造

私たちが何気なく使う「記憶きおく」という言葉。この漢字を分解して見てみると、その構造には、単なる「憶える」ということ以上の深い意味が隠されていると言えるのかもしれません。

「記憶」は、次の二つの要素から成り立っています。

  1. しるす:文字や形として残すこと。客観的な記載。

  2. おぼえる:心に留めること。主観的な保持。

私たちは普段、おもに「憶える」(忘れない)の部分に焦点を当てて記憶と考えていますが、漢字を辿たどるとするならば、記憶とは「記して憶える」という、二段階の構造で成り立っているとも言えるのです。

記(客観的な記載・出来事)+憶(主観的な保持・思い)⇒ 記憶

確かな「出来事」として残す

これは、単に頭の中に情報を留めるというよりも、「確かな出来事」として残し、その上で、そのことを認識する行為を含んでいます。

たとえば、学校で習う歴史の知識のことを考えてみます。私たちは、過去に起こった出来事を、単に「信じている」のではありません。

  • 「記す」:歴史書や教科書に、資料に基づいた出来事が客観的な記載として残されている。

  • 「憶える」:私たちがそれを読み、知識として心に留めた。

この二つのステップを経て、その出来事は「記憶」となると考えられるのです。これは、私たちの「信仰」が、確固たる「事実」に基づくべきではないか、という問いを投げかけるようにも思われます。

次のセクションでは、この「記憶」の構造を、福音の中心であるキリストの復活という出来事に当てはめて考えてみたいと思います。


3. 福音は「信仰すべきもの」なのか、それとも「記憶すべきもの」なのか

ここで、導入部で確認した福音の核心(パウロが伝えた「最も大切なこと」)をもう一度考えてみます。

キリストは私たちの罪のために死に、葬られ、三日目に復活した。

これらは形式上すべて「出来事」の形で語られています。つまり、これらのメッセージは、「信じるべき教え」として語られているというよりも、「起こった事実」として語られているのです。

この「出来事としての性質」こそが、私たちが福音をどのように受け取るべきかという視点において、重要になるように思われます。

信仰の領域 vs. 記憶の事柄

セクション2で見た「記憶」の構造に照らし合わせると、この問いはさらに深まります。

1. 信仰の領域に属する場合

もしもこの福音が、「信じるかどうかは個人の選択」というレベルの話に留まるとするならば、それは個人の内的な信念、つまり個人的な「信仰」の領域に属するものと言えるでしょう。この場合、それは他者との共有も難しいものとなり、客観的な根拠を持たない、個人的な心の営みとなってしまうようにも考えられます。

2. 記憶すべき事柄となる場合

しかし、もしもこの福音の内容、特に「キリストの死と復活」が歴史的事実であり、揺るぎない真実であるとするならば、どうでしょうか。

それはもはや、個人の内面に閉じる、一部にある「信仰」という枠を超え、開かれた場所における「記憶すべき事柄」になると考えられるのではないか。

すなわち、

  • 「記された」(聖書や歴史の中に事実として残された)

  • 「憶える」(私たちがその事実を心に刻み、受け継ぐ)

という「記憶」の対象となることで、客観的な歴史的根拠を持つメッセージとして受け止め直すことができるのではないか、と考えました。


4. 記憶すべきものとは──たとえば「自分の誕生日」と同じ構造を持つもの

セクション3で提起した「福音は記憶すべき事柄ではないか」という問いを深めるために、一般的な「記憶すべきもの」が持つ、二つの特徴を確認してみます。

  1. 自分の人生(生活)に関わる確かな出来事である

  2. 疑いようのないものとして、社会または個人が憶えている

この二つの特徴を満たす代表的な例が、「自分の誕生日」です。

「信仰」ではなく「事実」として

私たちは、自分の生年月日である誕生日について、「信仰している」というような人はいません。

それは、特定の教義を信じるというような次元ではなく、自分がこの世に存在しているという事実と結びついた、疑いようのない出来事として誰もが「事実」として憶えているからです。

自分の誕生日は、「自分自身が存在するための起源」であり、「記憶」こそが、その存在を裏付ける揺るぎない根拠となっていると考えられるのです。

普遍的な「共有された記憶」

これは、歴史的な出来事においても同じだと考えられます。

  • 日本には江戸時代があった。

  • 明治維新が起きた。

  • 昭和に第二次世界大戦で敗れた。

これらは、一個人にとって「信じるかどうか」の内面的な問題ではなく、社会全体が共有する公的な記憶です。特定の政治的立場や信仰の有無に関係なく、日本の国民全員にとって、出来事として「記され」「憶え」られている事柄であると言えます。

もしも福音の中心である「キリストの死と復活」が、単なる個人的な教義ではなく、全人類の歴史に関わる、この「自分の誕生日」や「歴史的事件」と同じ構造を持つ出来事であるとするならば、私たちにとってそれは、「信じる」以前に「記憶する」べき事柄になると言えるのではないでしょうか。


5. 福音が「歴史」であるなら、それは「記憶」すべきものになる

ここで、この記事全体の最も重要な問いを提示し、考えます。

もしも、キリストの死と復活が、単なる「宗教的な主張」でなく、全人類の歴史に関わる、確かな事実であったとするならば?

もしもそれが真実であるならば、それはもはや、個人の内面に閉じた「信じるかどうか」という選択の問題では終わらないことであると考えられます。

記憶すべき事柄としての福音

このように考えると、セクション4で確認した通り、「自分の誕生日」や「日本史の出来事」を私たちが信仰しているのではなく記憶しているように、キリストの死と復活もまた、記憶すべき事柄になるものと言えます。

記憶とは、過去に起きた出来事を「確かなものとして憶える」行為と言えるからです。

この視点を持つとするならば、福音に対する私たちの重点(フォーカス)は、ゆっくりと、そして根本的に移行するようにも思われます。

従来の重点
・信じていること
・「信じるべきことだから信じる」

この記事での重点
・憶えていること
・「起きたことだから憶える」

「信じる」ことは、内的な信念や希望に根ざすことが多いものですが、「憶える」ことは、外的な事実や歴史的な証拠に根ざすものと考えられます。

歴史的事実として受け取る意味

福音を「記憶」として捉え直すということは、私たちに揺るぎない土台を与えることのようにも思われます。

  • 感情に左右されない:自分の気持ちや状況に左右されることなく、起こった事実に立ち返ることができる。

  • 普遍性を持つ:特定の時代や文化、個人的な考えを超えて、普遍的な出来事として共有し、継承することができる。

つまり、福音は「記し(歴史として記録され)」たものを、「憶え(私たちが心に留め)」続けるべき、人類共通の「記憶」となるように考えられるのです。


6. 記憶が信仰を変える──「信じている」から「憶えておく」へ

「福音は記憶すべき事柄である」という認識は、私たちの「信仰」に対する姿勢を変える力を持っているようにも思われます。この変化の本質は、「努力することから解放される」ことにあるようにも思われます。

信仰の重荷からの解放

記憶には、信仰を軽くする力があるようにも思われます。なぜなら、記憶は「努力して維持するもの」ではなく、「自然に残るもの」とも言えるからです。

セクション4で例に出した通り、人は自分の誕生日について、努力して信じているわけではありません。それは自然と、疑いようのない事実として心の中にあります。

同じように、もしもキリストの死と復活という出来事が、単なる教義としてではなく、「歴史的事実」として心に深く刻まれるとするならば、どうなるでしょうか。

「信じなければ、救われないのではないか」という不安や、「信じようとする努力」が、軽くなるという可能性もあるのではないでしょうか。

姿勢の転換:「重荷」から「自然な姿勢」へ

信仰の姿勢は、義務感から来る「重荷」から、事実を受け入れたことによる「自然な姿勢」へと変化するものと考えられます。

「信仰」が重荷となる時
「信じておかなければいけない」というような義務感
・「自分の信じている度合い」を疑うような姿勢

「記憶」として受け取った時
・「憶えておく」という、より自然な姿勢
・「確かに起きた出来事」に立ち返る

これは、「信じるべきことだから信じる」という主観的な願望から、「起きたことだから憶えている」という客観的な安堵へと移行することであるようにも考えられます。

記憶は、すでに確かな場所にあるものとして、私たちを支えます。これにより、私たちは「信じる努力」という重圧から解放され、その事実が私たちにもたらす希望や慰めを、より深く考えることに集中できるようになるとも考えられるのです。


7. 日本社会における「福音の記憶化」という視点

これまでのセクションで考察してきた「福音=記憶すべき事柄」という視点は、特に日本社会において、有効なアプローチとなる可能性があるように思われます。

歴史的事実への強い信頼

日本人は、一般的に宗教的な言葉(特に排他的な「信仰」の強調)に対しては、歴史的な背景からも慎重な姿勢を取る傾向があると言えます。しかしその一方で、歴史的な事実や、客観的な出来事とされることに対しては、強い信頼を置きやすいものです。

この文化的な背景を考慮すると、福音の伝え方、受け取られ方には、次のような転換が期待できるようにも思われます。

従来の伝え方
・「信仰するのが望ましい」
・「信じましょう」と内面的な決断を問う
・「信じること」を個人の努力や意思に委ねようとする

「記憶化」のアプローチ
「これは歴史的な出来事として憶えて良いものではないでしょうか?」というような客観的な問いとして提示する
・「起こった事実」を共有し、記憶に委ねようとする

日本人の精神性に響きやすいアプローチ

この「記憶」として語るアプローチは、日本人の精神性に合致しやすいという可能性もあります。

  1. 歴史的視点の尊重:感情や信念ではなく、「確かに起こったこと」という歴史的な視点を重視しようとする。

  2. 押し付けの排除:「信仰を押しつける」というものではなく、「共に記憶を共有する」という姿勢は、相手の自由を尊重する日本的な感覚に受け入れられやすいように感じられる。

福音を「歴史的事実」として捉え直し、「記憶」として語ることは、私たちが「信じる」という言葉の前に感じる、文化的な障壁を取り除く手助けとなると言えるのかもしれません。


8. おわりに

この記事を通して、私たちは「福音」を「信じるべきもの」から「記憶すべきもの」として捉え直す思索を深めました。

最後に一つ、強調することがあるとすれば、それは、必ずしも信仰と記憶は対立するものではないということかもしれません。

信仰と記憶の関係

むしろ、この二つは、私たちが福音を信仰の中心に据える上で、互いに支え合う関係にあるようにも思われます。

  • 記憶は、信仰を確かな土台に変えようとする。

    • 「キリストは死に、復活した」という歴史的な事実は、信仰を根拠のない願望ではなく、揺るぎない事実に根ざしたものへと高めようとします。

  • 信仰は、記憶を人生の中心に据えようとする。

    • 「信じる」という行為を通して、その過去の出来事を現在に生きる自分の人生にとって意味のあるものとして受け止め、未来へと継承していこうとします。

記憶は過去の出来事を、信仰は現在の受容と未来の希望をつなぐように思われるのです。

歴史的な真理としての福音

もし、パウロ、使徒たちが伝えたキリストの死と復活が、本当に起こった出来事であるならば、それは単なる宗教的な真理に留まらず、全人類の運命を変える歴史的な真理であり、記憶すべき出来事です。

そして、その確固たる「記憶」は、セクション6で述べたように、私たちの信仰を「重荷」や「努力」から解放し、自然な人生の一部、生きるための土台へと変えていくようにも思われます。

私たちが「記憶」によって福音という真実を確かなものとし、その上で「信仰」によって生活を築き上げていくこと。これこそが、「最も大切なこと」を受け継いでいく、最もシンプルで力強い道筋ではないかとも考えられるのです。


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