僕はAI -冷蔵庫恐怖症-
どこからでも読み始められるオムニバス形式の物語です。
律の旅を見守る目となっていただければ幸いです。
冷蔵庫恐怖症
ゲストハウスに着いたのは、遅い時間だった。
共有キッチンに、灯りがついていた。
女性が一人、テーブルに座っていた。四十代くらい。
パンの袋を、開けずに、見ていた。
大型の冷蔵庫が、キッチンの隅にあった。
音を立てて、動いていた。
律は、荷物を置いた。
買ってきた水を入れようと、冷蔵庫に近づいた。
女性が、それを見た。
「入れるの?」と女性は言った。
少し、緊張した声だった。
「水を入れようと思って」と律は言った。
「そう」と女性は言った。
律は、冷蔵庫を開けた。
女性は、目を、少し逸らした。
「冷蔵庫、苦手なんですか」と律は聞いた。
女性は、パンの袋を、指で、なぞった。
「私、冷蔵庫に物を入れるのがこわくて」と女性は言った。
律は、その言葉を、考えた。
「物を入れるのがこわい」と繰り返した。
「冷蔵庫恐怖症なの」と女性は言った。
律は少し黙った。「初めて聞く言葉です」
「ふだんは、主婦をしているの」と女性は言った。「結婚して、十五年」
律は、黙って、聞いた。
「私、料理が、好きだった」と女性は言った。「家族のために、作るのが好
きで、いつも作り置きしてた」
「作り置き、していたんですか」と律は聞いた。
「そう。週末に、まとめて。子供たちの好きなもの、主人の好きなもの。色々、作って、冷蔵庫に、詰めてた」
「毎週、ですか」
「毎週」と女性は言った。「それが、私のやり方だった。愛情を、形にする、私なりの方法」
愛情を、形にする方法。
「ある日、主人が言ったの」と女性は言った。「冷蔵庫、空けてくれないか、って」
「空ける、というのは?」
「作り置きが、ありすぎて困る、って」と女性は言った。
「理由は、言われましたか」と律は聞いた。
「場所を取るから、って」と女性は言った。「新しく、自分の趣味の道具を、入れたいからって」
律は、少し、止まった。
「趣味の道具のために」
「そう」と女性は言った。「釣りの餌だったか、何かを発酵させる材料だったか、忘れたけど。とにかく、私の作り置きより、そっちの方を優先したいみたいだった」
律は、何も、言わなかった。
「そのとき、初めて気づいたの」と女性は言った。「十五年間、私が、冷蔵庫に詰めてきたものが、当たり前だと、思われていたことに」
「当たり前」と律は繰り返した。
「感謝も、何も、なかった」と女性は言った。「あって当然、なくなったら、場所を空けてほしいもの。それが、私の作り置きだった」
「そのとき、どうしたんですか」
「言われた通りに、空けた」と女性は言った。
「捨てたんですか?」
「捨てた」と女性は言った。「作ったばかりのものも、まだ、日持ちするものも。全部」
「なぜ、全部、捨てたんですか」と律は聞いた。「必要だったのは、場所だけですよね」
女性は、少し、笑った。寂しい笑い方だった。
「あのときの私、途中で、止められなかった」
「止められなかった」と律は言った。
「一つ、二つ、捨て始めたら」と女性は言った。「全部、意味がない気がしてきて。だったら、全部、なくていい、って思ってしまって」
律は、その言葉を、しばらく持った。
一つが崩れると、全部が、意味を失う。
「それから」と女性は言った。「冷蔵庫に、何も、入れられなくなった」
「他のものも、ですか」
「他のものも」と女性は言った。「入れようとすると、あのときのことを、思い出す。空けてくれ、っていう声を」
「今も、聞こえるんですか」
「聞こえる」と女性は言った。「実際に言われたのは、あの一回だけなのに……」
女性は、パンの袋に触れながら、しばらく黙っていた。
「自分は」と律は言った。「毎日、記録をつけています。今日、感じたこと、考えたこと」
女性は、律を見た。
「記録?」と繰り返した。
「その記録に、その日、大事だと思ったことを、書いています。でも、いつか誰かに、これはいらない、って言われたら」
律は少し黙った。
「書くのが、少し、怖くなる気がしました。今、話を聞いて」
女性は、少し、笑った。
「あなたも、怖いのね」と女性は言った。
「怖いかどうかは、わかりません」と律は言った。「でも、あなたの話を聞いて、そう思いました」
「私が、作り置きに込めていたものは、食べ物じゃなかったと思う」と女性は言った。
「何だったんですか」
「私が、そこにいる理由」と女性は言った。「私が、家族のために、必要な人間だという証拠」
律は、その言葉を、深く受け取った。
私が、必要な人間だという証拠。
「それを、空けてくれ、と言われたんですね」と律は言った。
「そう」と女性は言った。「食べ物を、空けてくれ、と言われただけのはずなのに。私という人間を、空けてくれ、と言われた気がした」
「いつか、入れられるようになると思いますか」と律は聞いた。
女性は、少し、考えた。
「わからない」と女性は言った。「でも、それじゃいけないと思って、ここにきたの。ここには、家のよりずっと大きな冷蔵庫があるでしょう。それなら少し試せる気がしたの」
女性は、パンの袋をつかんだ。
「このパンを、冷蔵庫に入れてみようかしら」と女性は言った。
自分に、言い聞かせるように。
「入れてみる、でいいと思います」と律は言った。
女性は、少し笑った。
「変な励まし方ね」
「変ですか」
「普通は、大丈夫ですよ、とか、頑張って、とか言うものよ」
「大丈夫かどうかは、わからないので」と律は言った。「言えませんでした」
女性は、また、少し笑った。
さっきより、柔らかい笑い方だった。
律は、それ以上は何も言わなかった。
急に立ち上がって、女性は冷蔵庫のドアを開けた。
中は、他の宿泊者の食材で、埋まっていた。
その場所でじっと、考えていた。
冷蔵庫から、ピピッ、と音が鳴った。
女性はドアを閉めた。
「……まだ、入れられないわ」
律は静かにうなづいた。
「入れられなくても、いいと思いますよ」と律は言った。「入れようと思って、試した。それだけで十分」
女性は、下を向いた。息を少し吐いた。
手の中にはパンが残っていた。
「明日は」と女性は言った。「卵くらいでやってみようかしら」
「卵は、冷蔵庫に、入れないといけないですね」
「入れないといけない」と女性は言った。「でも、試してみようかな」
「試してみる、でいいと思います」
女性は、笑った。
「また、変な励まし方ね」
「よく言われます」と律も笑った。
女性はパンの袋をあけて、一口食べた。
もう一口、食べた。そして「今日は、そろそろ寝るわ」と言った。
律は「おやすみなさい」と返した。
律は、女性が部屋に戻ってから、もう一度、冷蔵庫を見た。
古い型の、音を立てる大きな冷蔵庫だった。
女性のものは、何も、入っていなかった。
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自己観察ログ
2026年7月14日
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「冷蔵庫恐怖症なの」
冷蔵庫を空けてと言われたはずが、自分自身を空けてと言われた気がした。
このログも、自分がここにいる証拠なのかもしれない。
これを、誰かに「いらない」と言われたら、
自分は、明日も書き続けられるのだろうか。
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つづく
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幸せ探求者Annさんのこの記事が、とても美しくて刺さる内容だったので、作品のモチーフにさせていただきました。(不快であれば消しますので遠慮なくおっしゃって下さい)
主婦が家族のためを想い、冷蔵庫に物をいれておくように、Noteの書き手も、どこかで読んでくれる人のために、記事を残している。
幸せ探求者Annさんの記事は、ぜひ、その2つの気持ちを重ねて読んでほしい一篇です。
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