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綿々ず続く日垞の円環を越えお䞖界を語るこず あるいは【映画レビュヌ】「ダンダン倏の思い出 / 侀侀 / Yi Yi: A One and a Two」(2000)

ダンダン 倏の想い出 侀侀 / Yi Yi: A One and a Two
2000幎 台湟・日本合䜜 173分
★★★★★ (映画史に残る名䜜、必芋)
監督゚ドワヌド・ダン
脚本゚ドワヌド・ダン
出挔りヌ・ニ゚ンチェン/゚レむン・ゞン/ゞョナサン・チャン/ケむ・リヌ/タン・ルヌナン/むッセヌ尟圢



韓囜旅行の埌、「ポンヌフの恋人」芳に行ったりしお、12/20に芳たこの映画のレビュヌを緎る機䌚がないたた幎の瀬を迎えおしたった。
この映画に぀いおの思いは旅行䞭もずっず枩めおいたのだが、ただきちんず蚀語化できおない。
たあ、そんな状態でも曞き始めれば意倖ず䜕ずかなるものだ。ずりあえず、曞いおみる。


12/20に映画通をハシゎした。
朝から劻ず「殺し屋のプロット」を新宿のキノシネマで芳お、倕方枋谷に行っおBUNKAMURAから珟圚駅前に仮移転䞭のル・シネマでこの映画を芳た。
劻ず映画通に行くのは40幎ぶり、映画通をハシゎするのは45幎ぶりだ。
なんだか懐かしかった。
あの頃は䞀日に3本ハシゎなんお無茶なこずもやっおたし、2本立おをハシゎしお䞀日4本芳るなんお離れ業もやったこずがある。
久しぶりにそんな颚にしお芳た映画が、生涯ベストクラスの玠晎らしい映画だったのだから䜕ずも感慚深い。

゚ドワヌド・ダンずいう監督さんは、実をいうずごくごく最近たで自分の意識の範疇倖の人だった。圌の名を䞀躍有名にした「牯嶺街少幎殺人事件」はちょうど自分がアメリカに留孊に行っおいた時代に公開されたずいうこずず、そもそも自分がアゞアの映画に興味があたりなかったずいうこずもあっお、ごく最近になるたでその名前すら意識しおいなかった。偉そうにレビュヌしおるけど、「牯嶺街少幎殺人事件」だっおサブスクで初めお芳たのは今幎のこずだ。
映画の冒頭数分芳るだけでこの䜜品のクオリティがずんでもないレベルにあるずすぐに刀明した。そういう映画は䟋倖的だ。それこそ、アンゲロプロスずかベルむマンずかそういったレベルの映画の魔術を党お知り尜くしおいるような偉倧な監督の䜜品ず同質の凄味を感じた。
その埌「台北ストヌリヌ」をサブスクで芳た。
これもすさたじい䜜品だった。
「カップルズ」「恋愛時代」もサブスクで芳るこずができるが、それらは未芋のたたなので、䞉本目がこの「ダンダン 倏の想い出」ずいうこずになる。


映画の舞台は1990幎代埌半の台北。高玚マンション䜏たいのIT起業家NJ䞀家ずその呚蟺の人々が経隓するひず倏の苊悩ず波乱の出来事を極めお抑制的なタッチで描いた䜜品である。
映画通で䞀床芳ただけだが、断蚀しお良いだろう。
映画史䞊に残る名䜜である。
寡䜜で知られるダンの遺䜜ずなったこずもあっお、圌の死埌に評䟡がどんどん䞊がっお来おいるずいう事情があるようだが、そのような背景を取り陀いたずしおも歎史的な傑䜜ずいう評䟡に揺らぎはないだろう。
映画が䜕をなすべきで䜕を䞎えおくれるのか、ずいう問いの䞀぀の答えがここにあるず蚀っおもいい、must seeレベルの名䜜である。

登堎人物は倚いが、ストヌリヌの䞭心ずなるのはNJの劻ミンミンの母芪(NJから芋るず矩母)であるお祖母ちゃん(名前は明かされない)ず、邊題にもなっおいるその孫にあたるNJの息子ダンダンず蚀っお良いだろう。
お祖母ちゃんは、NJの矩理の匟アディ(劻ミンミンの匟)の結婚匏の日に倒れ、昏睡状態ずなる。圌女を看取る䞭で、生きるこずの意味ず向き合えなくなった家族はい぀の間にか離散しおいく。
誀解を恐れずに単玔化すれば、この映画は、おめでたい垭でお祖母ちゃんが倒れお、家族で看病しようずしたけどうたく行かなくお結局死んじゃった、ずいうだけの話ず蚀っおしたえばそれたでである。
もう少し悪意を持っお読み解けば、生きるこずに向き合う芚悟のないプチブルたちがお祖母ちゃんを看取るこずができない様を描いた映画ずも蚀える。
そしお、誰にも看取られず、お祖母ちゃんは死ぬ。
圌女の葬儀の匔蟞ずしおダンダンが語る手玙が、この映画の䞻題だ。

倧人たちが芋ようずしないもの、芋るこずができない本質をダンダンは芋おいる。その契機を䞎えたのが祖母である。
お祖母ちゃんはこの䞖界の「理」そのものだ。
ずたで蚀うず断定しすぎかもしれないが、圌女が倒れお意識を倱っお以降NJ䞀家が安定を倱うずいうシヌク゚ンスを考えるず、少なくずも映画の仮構䞖界の䞭ではそう蚭定されおいるず解釈しおも匷ち間違いではないだろう。
そしお、ダンダンは、トリックスタヌであり、コミックリリヌフであり、芳察者であり、モデレヌタヌであり、倧人たちが抜け出せない、綿々ず続く円環の倖に䜍眮しおいる。

だが、ダンダンはストヌリヌテラヌではない。この映画にはオヌガナむザヌも゚ヌゞェントもストヌリヌテラヌも存圚しない。
あくたで映画の仮構ずしお䜜られた䞖界の䞭で、生たれたばかりの赀ちゃんから、死に行く老人たで、あらゆる䞖代の人々の生ず死に関わる姿が、自然死ず殺人たでも含めお次々ず映し出されおいく。矀像劇的でもなく、必ずしもクロニクルでもなく、ロゞカルでシヌケンシャルな盞互連関があるわけでもない。最も長く画面に映っおいるのはNJかもしれないが、圌らそれぞれのむベントに濃淡はない。意味づけもない。圌らは、ただ、画面に珟れおは去っおいく。その映像は䞖代を超えおこの映画を芋るものすべおの心に届こうずする。少々䞍栌奜だったりするが、凡そ感情を高ぶらせるでもなく、説埗しようずするわけでもなく、ただただ人々が自然にありのたたにこの䞖界にあるこずを吊応なく意識させる。
だが、NJの家族も含め登堎人物たちの行動はどこかもどかしい。圌らは前に進たない。キャラクタヌは異なるものの、圌らの行動はすべお円環の䞭での類䌌した反埩行為のように芋えるのだ。圌らは誰ひずりずしお繰り返されるだけの日垞を抜け出せない。それは本来ならば玠敵なこずのはずだが、ここでは呪瞛のように人々を瞛り付ける。

圌らは昏睡するお祖母ちゃんに向けお語る蚀葉を持たない。
圌らは䞖界ず向き合っおいない。だから自分のこずしか語れない。
自分がゎミを捚お忘れたせいでお祖母ちゃんが倒れたず思い蟌んでいる孫嚘のティンティンはただひたすら蚱しおほしいず懇願を繰り返すだけ、嚘のミンミンは毎日が同じこずの繰り返しで䜕も語るこずがないず絶望し、息子のアディはギャンブルで借金は返せるから倧䞈倫だず根拠もなく匷がる。
最埌に順番が回っお来た嚘婿のNJは、自分の人生には答えがないように思える、ず、愚にも぀かぬ愚痎をこがすこずしかできない。
誰䞀人ずしお䞖界ず向き合うこずができない様が冷淡に描かれる。
結局家族は誰もお祖母ちゃんをたずもに看取るこずはできず、介護士に新聞を読んでもらうこずになる。
NJたちはそれすらしない。できないのだ。
倧衆消費資本䞻矩ずいう「倖郚」からの力が䜜り出したアッパヌミドルクラスの「䞖界」ずの繋がりの匱さをカリカチュアラむズしたかのような惚めな光景がそこでは繰り広げられる。

家族の䞭で男孫のダンダンだけが「答えるこずができない人に語りかける意味があるのか」ず疑問を呈し、祖母ぞの語りかけを拒吊する。
幎長者たちが、自分語りで祖母ぞの矩務を圢匏的に果たし、莖眪されようずしおいるのに察しお、圌だけが本質を芋おいる。

だが、そんなダンダンも孊校に行くず女子に虐められる毎日を繰り返し、その䞭の䞀人に淡い恋心を抱いおしたう。その関係性の䞭だけで蚀えば、圌もたた円環の内偎に囚われようずしおいる存圚でもある。
その危うさも本䜜の魅力のひず぀ず蚀えるだろう。


この䜜品では、4぀の異なる関係性のグルヌプの10人に及ぶカップルが、䞍倫や䞉角関係などの非倫理的な関係も含め、党くスマヌトではない愛憎劇を繰り広げる。ダンダンの淡い初恋バナも含めれば人数はさらに増えるこずになる。これだけ惚れ話が散りばめられおいればどこかでラブストヌリヌが織り蟌たれおも良さそうなものだが、䞀瞬たりずもそうならない。ほが誰䞀人ずしお幞犏にはならず、ラブロマンスも生たれない。もっずもロマンスに近いように芋えたNJの元カノずの犁断の再䌚は䜕の意味も残さず霧散する。そこにはそもそも恋愛関係は存圚しなかったかのように。

ず曞いおしたうず、䜕か悲劇的なこずが起こったかず思われそうだが、物語自䜓は意倖ず平穏に、䜕事もなかったかのように収束する。
悲劇はこの円環の呚蟺でだけ䞀瞬起こる。ティンティンが眪から逃避するかのように付き合ったファティずいう䞭途半端な若者が䞀家の䜏むマンションで衝動的に起こす凶行。その悲劇はストヌリヌずは党く関係しおいないように芋えお、この物語を匷制的に終わらせる暎力装眮の圹割を果たしおいる。
ファティの凶行の埌、ティンティンは自らの過倱によっお昏睡状態ずなった祖母ず心を通わせるこずができる。その瞬間、実は祖母はすでに亡くなっおいた。だが、ティンティンは眪の意識から解攟される。
同時にNJの過去ずの再䌚も無為に終わり、宗教に救いを求めおいたミンミンは垃教斜蚭から戻る。
぀たり、終わりは円環の倖からもたらされるのだ。

そもそも、この䞍興の始たりは祖母が倒れたこずだったわけだが、元をたどれば、矩理の匟アディが「䞀番瞁起の良い日」を遞んで日取りを遅らせた結婚匏に遡る。
瞁起の良いはずの結婚匏に出垭した祖母は䜓調䞍良を蚎えお家に戻り、再床倖出したずころで脳卒䞭を起こしお意識䞍明ずなったのだった。アディのゲン担ぎはおそらく颚氎に基づくものだず思うが、この物語の元凶は、䞖界を自らの目で盎芖せず、迷信のような倖的なものに頌る点にあるずいう瀺唆でもある。
さらにやや牜匷付䌚気味に意味づければ、この構造は、゚ドワヌド・ダンが䞀貫しお描いおきたチャむニヌズ・アむデンティティの危うさぞの批刀にも通じおいお、西掋資本䞻矩の毒に飌いならされた颚氎土着信仰の矮小化に䟝拠しおしたう郜垂䜏民のポストモダニズム的些末さを笑い飛ばしおいるず芋るこずもできるだろう。

そういう若干オカルト的な芖点で芋るず、赀ん坊の名前が最埌たで決たらないのは、祖母の死によっおも䞀家の䞖界の凶事がただ閉じおいないこずを暗瀺しおいる。
ダンダンの感動的なスピヌチでこの物語は倧団円ずなったように芋えるが、実は䞀家を取り巻く問題は䜕も解決しおいない。
䞀家はみな、円環から攟り出される前にギリギリのずころで螏みずどたっただけで、ただ円環からは逃れおいない。ファティの凶行ず祖母の死によっお䜕かが解決したように芋せおいるが、䜕も倉わっおいない可胜性の方が高い。もちろん、祖母の死を契機に圌らが䞖界ず向き合おうずする可胜性はれロではない。映画の終わり方はそのような楜芳性を瀺しおいるようにも芋える。
だが、そもそも向き合う䞖界が残されおいるのか、ずいう問題がある。
甘い恋の蚘憶、宗教的䟝存、眪の意識からの逃避。圌らが抱えおいた問題はいったん圌らの䞭では解決を芋た。だが、それはそういった求心力を持たない日垞の円環に戻るずいうだけのこずであり、新しい䞖界ぞ螏み出す䜕かを䞎えおくれるわけではない。
20䞖玀末の台北の郜垂䜏民は歎史の倧きな物語を倱っおいるのだ。圌らが暮らし、芋る䞖界はそもそもが些末な円環でしかありえないのかもしれない。
それがこの映画の残酷なずころであり、同時に途蜍もなく説埗力があるず同時に愛おしくもあり信頌できるポむントでもある。


歎史の物語の欠劂は、この映画の䞀぀のポむントでもあるず自分は感じおいる。
゚ドワヌド・ダンは、「牯嶺街少幎殺人事件」でも「台北ストヌリヌ」でも台北に生きる垂井の人々を描いおいるが、そこには台湟の歎史に根差した䞀皮の業のようなものを匷く感じさせるパトスがあった。やや゚モヌショナルな蚀い方になるが、それは台湟の人々が吊が応でも持たざるを埗ない「䞭囜人」ずいうアむデンティティず密接に関わっおいる。片や1950幎代の冷戊構造䞋二぀の䞭囜の間で宙ぶらりんずなる戒厳什䞋の若者たち、片や「囜家」ずしおの正統的な地䜍を「倧陞」に奪われながら資本䞻矩䜓制䞋で西偎の実務的な経枈パヌトナヌずしお急成長を遂げおいた1980幎代に生きるカップル。圌らは垞に「台湟」ずいう政治的に曖昧な共同䜓の䞭で、その曖昧さゆえに藻掻かざるを埗ない存圚ずしお描かれおいた。そこでは垞に、歎史的な「倧陞」ずの繋がりの文脈の䞭で「台湟」が匷芁されおきた独自のアむデンティティの揺らぎがテヌマの䞭心に眮かれおいた。

だが、この「ダンダン倏の思い出」はいささか趣が異なる。
ここには䞭囜倧陞の圱はもはやない。1990幎代のITバブルに湧く西偎経枈のサプラむチェヌンの䞭でアメリカや日本ず䞊んで重芁な䜍眮を占めるこずになった独立独歩の台湟の姿がある。IT産業の隆盛の䞭で功利的に立ち回ろうずする人々の立ち振る舞いがこの映画の䞻軞の䞀぀だ。
それはいかにも自虐的な䞭囜的プラグマティズムのステレオタむプではあるが、チャむニヌズ・アむデンティティずは蚀い難い。この映画で描かれる「䞭華」的なものは、そう、事件の元凶ずなっおいるかのように描かれる颚氎くらいだ。
だからこそ、それを単にコミカルなギミックではなく、ストヌリヌの根幹にかかわるものずしお批刀的に読む必芁はあるのだろうず感じおいる。

䞀方、自分はこの時代の台湟に仕事で頻繁に蚪問しおいたので、この蟺の空気感は䜕だか劙に懐かしい匂いがしたこずも事実だ。圓時自分が珟地で䌚った台湟人のビゞネスパヌ゜ンはみな自信を持っおいた。圌らは極めお珟実的でありながら、少々遵法粟神に欠けるようなずころがあったり、劙な隓担ぎをしたり、ず、この映画の䞭で描かれおいるパヌ゜ナリティず重なる郚分もあり、興味深い。
おそらく台湟が䞭囜倧陞から離れお最も勢いを持っおいた時代だろう。その埌再発する倧陞ずの埮劙な関係性を考えるず、この時期だからこそこの映画のような倧衆消費瀟䌚のアッパヌミドル階玚の持぀普遍性を携えた䜜品が撮れたのではないかずいう思いもある。
それは垞に「䞭囜人」であるこずを意識し぀぀も、それを批刀的に描き続けたように芋える゚ドワヌド・ダンにずっお、ひずずきの解攟のようなものだったのかもしれない。

圌はその埌ゞャッキヌ・チェン補䜜のアニメ映画を手掛けようずしお病に倒れ垰らぬ人ずなった。
圌が生き氞らえおいたら、おそらくはもっずストレヌトな倧陞ぞの批刀を匂わせる䜜品を撮っおいたのではないかず掚察する。そういった䜜品でも圌の才気は十分に発揮されただろうが、この映画を芳た埌だず、そちらの方向に傟倒する前に、この普遍的な䟡倀を持぀名䜜が撮られたこずを僥倖ず感じざるを埗ない。


䞭囜語の原題は「䞀䞀」。これは䌝統的な䞭囜語衚蚘で曞くず瞊に䞊ぶため「二」にも芋える。そしお、英語のタむトルは「A one and a Two」。「䞀ず二」なのだが、”a”が付いおいるのがミ゜で、こうなるず、音楜などを始める時のカりントに䜿われる慣甚句ずなる。䞀぀で二぀、䞀人ず二人、さあ始たるよ 。いろんな意味に取れるタむトルだが、邊題は「ダンダン 倏の思い出」ず原題ずは党く関係のないものになっおいる。
なんだかズレおいるようにも芋えるが、補䜜に日本サむドが匷く関わっおいる台日合䜜映画なので、おそらくは意図的なミスリヌドずいうか、原題を蚳しただけでは䌝わらないものを䜕ずか䌝えようずした苊肉の策のように芋える。
正盎原題を日本語に蚳しただけでは䜕のこずかわかりにくい。
敢えお、必ずしも䜜品䞭の登堎頻床ずしおは䞻人公ずは蚀い難いダンダンをタむトルに出した意図は悪くないず思う。少なくずも映画が䜕を描こうずしおいるのかを䌝える䞊では有効だ。

䞭囜語原題が意識させる「反埩」ずいう点では登堎人物の名前の倚くが音韻の繰り返しずなっおいるこずも指摘しおおきたい。
ダンダン、ミンミン、ティンティン、リヌリヌ。完党な反埩ではないがNJ(ニェンゞェン)も繰り返しの韻を螏んでいる。
反埩がない名前を持぀のはアディ、ファティ、シェリヌ。
前者の矀は反埩する円環的な人生を歩む人たちで、埌者の矀は円環から自由になっおいる人たちず捉えるこずもできる。
前者に分類されおいるリヌリヌの振る舞いは䞀芋自由に芋えるが、母芪の束瞛によっお円環の䞭に瞛り付けられおいお、䞀芋懲りないギャンブル人生を反埩し぀぀円環の䞭にいるように芋える埌者矀のアディは振り返らないこずず郜垂型に矮小化された颚氎ず持ち前の楜芳䞻矩で円環から逃れおいる。

タむトルの謎解きをもう少し続けるず、この映画では、ガラス窓や鏡の反射で䞀぀のものを二぀に芋せる映像手法が倚甚されおおり、これもタむトルの反埩ず重なる構造ずなっおいる。
さらに蚀えば、個人が円環の䞭にいるだけでなく、実らない恋愛関係が䞖代を超えお反埩されるこずもタむトルずの同質性を瀺しおいる。

䞀方で、英語タむトルの”A one and a Two”は「さあ、始めよう」皋床の意味なのだが、これだけだず赀ちゃんず家族の前途を楜芳的に芋おいるようにも取れなくない。これを単語の䞊びの通り「ひず぀ずふた぀」ず取るず少々意味深で、おそらくは劇䞭でファティが蚀う「映画は人生を䞉倍にする」ずいう台詞を反映しおもいる。「人生は䞀床きりだが、映画はそれを二倍豊かにする」ので1+2=3になるずいう話。メタな仕掛けだが、あのセリフに絡む劇䞭でのやりずりティンティンはその芋方を拒絶するず、その重芁性を考えるず、むしろこちらが本筋かもしれないずも感じる。映画が人生にもたらす可胜性を信じながらも、そもそも䞖界の豊かさ自䜓を信じられないティンティンのような人たちぞのやさしい目線がそこにはある。

ずいった具合に、原語ず英語のタむトルが持぀倚矩性はこの映画の深さを䌝える効果をもたらしおいるが、どこか埌付けの謎解きっぜさは残る。
邊題が「ダンダン」に蚀及しおいるのは、出番が必ずしも倚くない圌の芖点で芋るべきずいうヒントを䞎えおいる点でかなり芪切であり、映画の理解には圹立぀ず思う。


最埌の祖母ぞの手玙の䞭で、ダンダンが語る「知らないこずを人々に䌝え、芋えないものを芋せたい」ずいう独癜こそが実はこの映画の䞭で䞀番重芁なメッセヌゞなのかもしれない。
それは、突き詰めお蚀うず、䞖界をわかりたいし、わかるようにしたい、ずいう意思であり、䞖界に察する愛の宣告だ。
゚ドワヌド・ダンの䜜り手ずしおの矜持や芚悟が、このメッセヌゞに蟌められおいるず考えるのは、あたりにメタすぎお短絡的かもしれない。だが、圌の映画を䜕本か芋お感じるのは、圌は芳るものを突き攟さないずいうこずである。圌は芳客の知性を信じおいる。芳るものを銬鹿にしない。それは䞀貫しおいるように感じる。だから、この蚀葉は意倖ず圌の本音なのかもしれないず考えおいる。

断っおおくが、それは映画を「わかる」「わからない」で遞別するような傲慢な態床ずは根本的に異なる。そもそも、映画を語る時に「わかる」ずか「わからない」などずいうどうでもいい軞で評䟡するこずの意味が自分にはわからない。ここで蚀う「わかる」はおそらくcomprehendではない。どうせsympathizeでありempathizeだ。芁は「共感」だ。どうでもいい。
映画なんお創䜜だ。すべお赀の他人が䜜った虚構だ。わかるわけがない。わかったような気になるだけだ。共感する必芁もない。すべおが嘘の話なのだ。
映画の評䟡は、その䞭で提瀺された䞖界や䞖界芳が普遍的に受容可胜かどうかでおおよそ決たる。芋るものが共感したかどうか、わかったような気になったかどうかなどはどうでも良いのだ。
受け手ずしおそういった最䜎限のマナヌは確実に存圚するが、それに察し、それでも「䞖界を理解しおほしい」ず䜜り手が考えるこずずは矛盟しない。
自分がここにいる意味は誰にもわからない。だからそんなものずシンクロするこずを䜜り手に期埅するのは筋違いだ。創䜜物を「わかる」ず蚀い切るのはそれを期埅する態床の延長にある。
䞖界が存圚する意味はもっず普遍的であるはずだ。だから、䜜り手が正圓にそれを創䜜物ずしお提瀺したずしたら、受容するこずはできる。
それが「知らないこずを人々に䌝え、芋えないものを芋せたい」に蟌められた意味であり、䜜り手ず芋るものを結ぶ信頌関係の線だ、ず、この映画は私たちに語りかけおいるのだず信じたい。

゚ドワヌド・ダンはこの映画の完成埌のむンタビュヌでこう述べおいる。

私は1980幎にフランスのリベラシオン氏が、カンヌ特集の付録ずしお、䞖界䞭の映画監督達に問うたシンプルな質問を思い出す。

「あなたは、なぜ映画を撮るのですか」

私の答えは、その質問ず同じくらいシンプルだ。

「倚くを語らなくおすむから」

ずおも真摯な態床で信頌できる。
ず、同時に、自分がこの映画を芳終えた時に感じた思いは必ずしも的倖れではなかったのだず、少しだけ嬉しくなった。


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