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科学と宗教における信、あるいはその働きについて──いじましき一個の人間のために──

私たちは実存という、或る基準点である。身を捩ることすら出来はしない。恐らく、この事に想いを馳せぬまま生を終える人も、数多いのだろう。しかし、すでに気づいてしまっている以上、実際その事について、考えぬことは出来ない──私が生きていると云うことについて、信に足る説明を──



科学の明らかな確かさ

科学とは、現在のところ──そしておそらく未来においても──最もうまく"物理現象を"説明(整合的に記述)できるツールである。
もっとも、実際はむしろ逆で、「最もうまく物理現象を説明できるツール」である事が、科学を科学たらしめているのだから、これは全く──オカルティストがどんなに"証拠"を挙げて反駁しようとしても──否定のしようがない。

科学の射程、現れて在るもの

しかし科学は物理現象以外のものを説明できていない──科学者がなんと言おうと、実相としてそれが存在するか否かは、それが"物理的"であるか否かではなく、実存としての認知の境界線上に現れて在るかによるのだから──恐らく唯物論者は、私のやや強引な断定に対して、「全ての実相は物理的である」と答えるだろうが、いずれを基準に採るかという選択そのものの根拠を、どちらも示し得ぬ以上、反駁になり得ない。彼はなお「物理的基準は説明的成功によって選ばれる」と主張し得る。だが"成功"もまた、かの選択に内在する。
そして"それ"は、否定し難いほどはっきりと、いましあるのである。

宗教の「説明」、科学の「説明」

宗教、あるいは神秘は、"実存を支えるという一点において"、物理現象を含めたそれら全てを、科学より上手く説明(定立)する。何故なら、科学者の血と汗の結果として形作られたその方法論は、人間の心全体を支え余りある信仰に比べれば──もちろん、それは科学においては瑕疵ではないのだが──全く杓子定規で頼りなく感じられ、またその範囲は、未だに物理現象の範囲内に可愛らしく収まっているからである。

しかし、科学が物理現象を整合的に説明し、また宗教が全て──認知の境界線にある全て──を実存的に説明するのは、至極当然のことで、どちらも非難には値しない。科学が物に軸を置いているように、宗教もまた"それら"に軸を置いている。それぞれの定点の違いが、位相の差異を生み出すのだ。

それぞれの信への跳躍

ただし当然ながら、両者の差異はそれだけに留まらない。宗教はその"定立"という性質によって──それらに、いや全てに対して──"意味"を与える。対して、科学はそれ単体では意味を規定する機能を持たない。単なる現象から意味──価値命題──を導き出すには無根拠な前提、"大いなる跳躍"が必要とされる。すなわち──信──である。

地続きの"ように見える"こと

科学も一種の信を集めてはいるが、それは明らかに別種のものである。それは「道具としての確からしさ」であり、親近感からくる「信頼」であり、恐らくそれ以上のものではない。
それは"跳躍"を持たない、あくまでも地続きの物の"ように見える"。だが地続きに見えるのは──実際その足場を問わぬからで──見かけに過ぎない。故に、両者を分かつものは、跳躍の有無ではない。

信頼の信、信仰の信

それはまた宗教とは反対側に位置する信である。「普遍的なるものを導いた先に、現れざるを得ないが故に」現れた、自然の斉一性なるもの──それは即ち、科学というものの命綱そのものでもある──への、信頼としての信。

それは、「超越的なるものを求めた瞬間、必然として与えられたが故に」現れた宗教の信──即ち信仰としての信──とは、逆の働きをする。一方は人にそれを利用させ、他方はそれが人を支え包む。ただ宗教の信のみが、人を保とうとする。

新たな選択肢は何を与えうるか

一つの選択として、自らが跳躍を引き受け、意味を創ると言う者もあるだろう。ただし其処においては、支えるものと支えられるものが、同じ一人である。それは立つ事であり、眠りを許さない。ここにおいて信は、ウロボロスの様に環を閉じる。
あるいは不条理を前にして、なお実存に軸を置き、跳躍を拒み、意味なきままに生きることを選ぶ者もまた、あるだろう。だがそれも同じ一つの選択であって、根拠はない。それは一体、実存において、何をかもたらしうるだろうか?

命じられた幸福

彼が言うところの「明晰な意識のもとで、見つめ続けること」が他の姿勢よりも善く、またそれこそが人生を価値づけると、彼は定立する。彼もまた、跳躍に至る点で、先行する者達と同じ地平を往く。ただし彼はあえて──他者のそれを哲学的自殺と呼びつつ──自らのそれを、跳躍と呼ばない。
そしてなお、彼はこう返すだろう。「根拠を取り去った後に残るものだ」と。彼はさらに命ずるだろう。「シーシュポスは幸福だと想わねばならない」と。しかし、その残ったものに立つための足場は──彼の理念通りに──現れないのだ。



全てはこの実存のために

信仰こそは、或る実存において──いじましき一個の人間であることを知る人にとって──この不条理な世界に条理を、迷える者に目的を、苦しみに満ちた私に救いをもたらす、唯一のものなのである。








註:認知の境界線とは、実存の認知が届き、且つその先には触れ得ない限界、あるいは実存の認知が世界と接する面である。それが実際に世界と接しているか、あるいはそれが存在するかどうかは、境界の性質を境界の内側から記述することになり、循環に陥るが故に判断され得ない。その先を感得し得る可能性については、今回の主題でないので、次の機会におく。

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