「箱の中の羊」はなぜ酷評されたか 質の高いヒューマンドラマと薄いSF要素
是枝裕和監督の最新作「箱の中の羊」。監督自身が脚本も手がけた完全新作はカンヌ国際映画祭に出品され観客にも9分間のスタンディングオベーションで迎えられたにも関わらず、なぜ様々な海外紙に酷評されたのかを考える。ネタバレがあるため注意。
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大悟×綾瀬はるか主演「箱の中の羊」
是枝裕和監督作品『箱の中の羊』は、2026年5月29日に公開された、前作『怪物』以来3年ぶりの新作で、自身で脚本を手がける作品としては8年ぶりだ。
主演を千鳥・大悟と綾瀬はるかが務めている。あらすじとしては「とある事件で7歳の子どもをなくした夫婦(健介と音々)の元に、ロボットメーカーから便りが届く。亡くなった子供そっくりのロボットを無償で貸与するので、一緒に生活してみませんか?というもので、人間そっくりのロボットとの生活を決めた夫婦は、息子(翔)が生き返ったようなロボットを迎えて生活を始めるが…?」というものだ。
手塚治虫の『鉄腕アトム』は、天馬博士が亡くした息子を再現しようとしてアトムというロボットを作る物語だが、まさにそのような感じである。
この「箱の中の羊」、第79回カンヌ国際映画祭「コンペティション部門」に正式出品されたのだが、海外の評論家からは酷評されたというのだ。どういう理由で酷評されたのか、実際に見た感想などを交えて深堀する。
『箱の中の羊』をレビューする
ここからは公開初日に『箱の中の羊』を見た感想をレビューしていきたい。まず個人的な印象として、レイトショーとはいえ300席くらいある中で20席くらいしか埋まっていなかったのは、是枝作品としては珍しいように感じた。
是枝監督としての初のSF作品だったのだが、そもそも「箱の中の羊」をSF作品と位置づけてしまったことが、カンヌでの酷評に繋がっているようにも感じた。
家族の物語としてのおもしろさ
まず、父親像の解像度の高さとそれを見事に演じきった大悟が素晴らしかった。妻との会話、職場の従業員とのコミュニケーション、苦しみながら絞り出した言葉、どれも見事に演じていた。日本の様々な家庭で見られる父のイメージを高い完成度で濃縮していた(だからこそ最後の選択は健介(大悟)らしくないようにも思い、疑問が残るのだが)。
音々(綾瀬はるか)と健介(大悟)の夫婦は、それぞれが子を失った痛みで苦しみ続けていて、子供そっくりのロボットがその痛みと向き合い、前に進むことを促す。特に音々が嫌いだった母親と同じように母であることをやめようとする展開はかなり効いた。
音々は母親を、健介は(いるかどうか分からない)犯人を、心の中で責め続けており、前に進むことができなかったが、ロボ翔に謝り、和解することで前へと進むきっかけになっていく。この過程や人と人の距離感を見事にえがいたのはさすが是枝監督である。
急激に下がっていくリアリティライン
リアリティラインとは、「そのフィクション作品における、現実感の度合い」のことである。『箱の中の羊』においては、リアリティラインが作中で急激に低下していくことが、ある意味「ツッコミどころ」のようになってしまったのではないかと考えている。
3000体もヒューマノイドが配られているのに、イマイチ社会に浸透していない
ヒューマノイド以外のロボ描写は序盤だけ、結果としてヒューマノイドの技術だけ奇妙に発展しているように見える
女の子のヒューマノイドが家族に忘れ去られ河川敷に放置されるが、GPS搭載の高価なロボットがあんな風に置き去りにされるだろうか。
廃校に子供たちが出入りしてたらもっと事件になれ
音々はヒューマノイドが水遊びしてたらもっと早い段階で止めてくれ
その森にヒューマノイドを置いていったら次々と壊れると思うが大丈夫か?
子供レベルの筋力だけでツリーハウスが作れるのか…?(もしかしたらハッキングしてパワーを増大するとかあるのかもしれんが、そんなバイオレンスなノリが出来るなら工業用ロボとかも出てくるはず)
そのおもちゃみたいな水車で電力が賄えるか
よく考えたらヒューマノイドへの虐待については何の解決にもなってないぞ
いきなり家にいっぱいヒューマノイドが来た時に音々のお母さんは送り出す感じなのか
そもそもキーマンっぽいヒューマノイドのお兄ちゃんなんであんなダサいかっこしてるんだ
それこそ「邦キチ! 映子さん」で取り上げられそうなくらいのツッコミどころがたくさんあるのである。ただ、仮にSF的な物語であったとしても、リアリティラインが元から低い物語であれば、そこまでツッコミは入らないと思われる(仮面ライダーがなんであんなにジャンプできるのかとか、誰もツッコまないと思う)。
『箱の中の羊』においては、冒頭でロボットが通学を先導していたり、ドローンが配送をしたりして、近未来としてのリアリティラインを提示した上で、突然おとぎ話レベルまでラインが引き下がってしまったのだ。これはツッコまざるを得ないし、そのせいで物語の本筋に集中できない。
人間を見事に描いた一方で、ロボットについては表層的な表現に留まってしまった
人間についての描写は上述した通り素晴らしく、余貴美子演じる広島から来た母・信代が「(亡くなった息子のロボットと暮らすことを)みっともない」というシーンや、様々なことが積み重なり音々の感情のバケツが溢れてしまうシーンはかなり見応えがあった。
一方、ヒューマノイドの翔がどのようなことを考えていたのかという内面や、社会ではヒューマノイドがどのように扱われているのかという外部環境など、このテーマを描く時に観客が求めるであろう内容については、ほとんど言及がなかった。 某インタビューではインタビュアーが是枝監督に「AIにはどの程度興味があるのでしょうか?」とまで言ってしまうほどの薄さなのである。
逆に人間の側からしても、ロボットを翔(息子)とは違う存在と認めた上で、その先でどのような関係性を築けるのかという問題があったように思うが、夫婦は全てを手放し、ヒューマノイド達を森に返してしまう。大きな木の生命を前提にし、ロボットたちと死者を重ね合わせるアニミズム的で、弔いの感情に満たされたような帰着。ヒューマノイドたちの物語はクリティカルな問題には切り込まれず、その場しのぎのふんわりとした結末を迎えてしまうのである。
というか翔の保護者的視点で考えると、森に子供たちを連れていっておいて帰るのはシンプルに無責任では…?7歳の思考レベルのヒューマノイドが考え出した森での生活、その未来に待ち構えているであろう破滅を考えると、保護者としては止めないといけないのでは…?未来がないという意味では河川敷に置き去りにされていたヒューマノイドとどう違うのか考えてしまう(こんなこといったら野暮かな)。
SFとしての強度がない物語
総じて、見事なヒューマンドラマではありながら、SFとしては最低限の強度が保たれていない物語だったのではないか。AIやロボットが、親が子供の死と向き合うための舞台装置にしかなっていなかったように感じた。
この物語は、ロボットを幽霊とかドッペルゲンガーとかに置き換えても成り立ってしまう。ロボ翔は壁打ちの相手でしかなく、実際には夫婦にとっての「箱の中の羊」である亡くした息子へ一方的に語りかけているのだから。それくらいSFである必然性がなく、そもそも是枝監督にとってSFであることはそこまで重要でなかったのでは、とすら思う作品だった。
AIやロボットの仄暗い側面に踏み込みそうになった時に、ふっと身を翻して関わるのを避けたような、そんな印象だった。技術の明るい面だけを描いた万博のパビリオンの映像のように。
海外における評価
カンヌ国際映画祭では9分間のスタンディングオベーションなど、観客からは絶賛を受けたようだ。一方評論家からの評価は割れており、酷評と言ってもいい評価も見られた。主要なメディアに属する批評家による4段階の評価では平均1.4と、出品作品の中では最下位となっているという速報もあった(この星の数は栄誉であるパルム・ドールの選出に影響すると言われている)。
やはりAIやヒューマノイドのテーマに対する掘り下げが課題になっているようで、ガーディアン紙から掘り下げが足りないといわれたり、ニューヨーカー紙から古臭いと言われたり散々である。またSCMPは“its subplots leave the film scattered(複数のサブプロットによって作品が散漫になっている)”と評したが、これはSFなのかヒューマンドラマなのかという二軸の曖昧さに加え、途中でミステリー(殺人事件の犯人探し)のような要素や、黒い服を着たヒューマノイドを中心にしたロボットの独立と共存という物語の筋が混在したためと思われる(その他、創作の過程と完成品を巡る音々と翔の言い争いや、翔がダンゴムシを潰して考える生命の話など、枝葉のプロットは非常に多い)。
様々な批評家から酷評された背景として、冒頭から「この作品はSFですよ!」として提示された結果、SFとしては新規性がないことや、深堀りの足りなさが注目されてしまったのではないか。そのため「親子関係」を描いてきた是枝監督のこれまでの作品の延長線上にあるものとして捉えにくかったという部分があるのではないかと思う。
一方、『万引き家族』『怪物』に続き撮影に携わった近藤龍人の映像美が賞賛されているレビューもある。
まとめ
是枝監督へのインタビュー記事でも、AIのテーマは深堀りしすぎると収拾がつかなくなるといった記述があった。おそらく『箱の中の羊』は、『万引き家族』『そして父になる』などの親子の関係性を描いた物語として評価されるべきものであるところが、SFというパッケージで提示されてしまったため様々なツッコミどころがノイズとして生じてしまったのではないかと考えられる(是枝監督自身は終盤にかけて「リアリズムから離れないといけない」と考え、ひとつのメッセージ性のある物語としてあの結末にしたということだったが…)。そしてそれらの様々なプロットが物語の中で、必然性のある組み合わせとして響いていたかというと、難しいところに感じた。
それが観客と批評家の賛否両論に繋がっているのではないか。日本では千鳥の大悟がいい演技をしているということで、一定の見応えが担保されているのだが、そのフィルターがない外国の方々から見るとかなり違う印象になってしまうことは想像に難くない。
というか、日本人からみても、これまでの是枝作品よりは難解に感じられるのではないかと思う。切っても切れない母子の繋がりを描く面白さは間違いなくあったと思うが、それをどのように受け止めるかで評価がガラッと変わってしまう作品だった。
個人的には『怪物』と比べると傑作感はないかな…と思ってしまったが、楽しく観ることが出来た作品だった。建築士と大工という設定は面白かったのだが、そのせいかハウスメーカーのCMのようなニュアンスにまとわりつかれていたような気も…。
