民草が紡ぎし絵巻 第23巻 水を引く老人
夜明け前だった。
村はまだ、
静かな眠りの中にあった。
老人は、
一本の木杖を手に、
ゆっくりと田へ向かう。
毎朝、
最初に歩く道は決まっていた。
水路である。
山から流れてきた水は、
細い流れとなって村へ入り、
いくつもの田を巡っていく。
老人は、
堰の前で足を止めた。
昨夜の雨で、
小枝が流れ着いている。
しゃがみ込み、
一本ずつ取り除く。
水は、
音を立てながら、
また静かに流れ始めた。
しばらくすると、
幼い孫が駆けてきた。
「おじいちゃん、
まだ誰も田へ来てないよ。」
老人は笑う。
「だから来るんだ。」
孫は首をかしげた。
老人は水路を指差す。
「水は、
待ってくれないからな。」
二人は、
流れる水を見つめた。
上の田へ流れ、
次の田へ流れ、
さらにその先へ流れていく。
老人は、
堰板を少しだけ動かした。
水の向きが変わる。
一枚の田へ、
静かに水が広がっていく。
孫は目を丸くした。
「どうして、
少しだけなの。」
老人は、
田の向こうを見ながら答えた。
「全部ここへ流したら、
向こうの田が困る。」
孫は、
遠くの田を見る。
まだ誰もいない。
それでも、
そこにも水は流れていく。
老人は言った。
「水は、
一人のものじゃない。」
その言葉だけだった。
朝日が、
山の端から昇る。
やがて、
村の人々が田へ集まってきた。
若者は鍬を担ぎ、
女たちは苗を運び、
子どもたちは笑いながら後を追う。
どの田にも、
水が静かに満ちていた。
その日、
老人が何度堰板を動かしたのか、
誰も覚えていない。
どれほど多くの朝、
同じ道を歩いたのかも残っていない。
けれど、
名もなき老人たちが、
夜明け前に水路を見回り、
村みんなの実りを思いながら水を分け続けた時間の積み重ねが、
一枚一枚の田を潤し、
人々が共に生きる共同体を育てていったのである。
『忘れられた日本人の物語』本編と『民草が紡ぎし絵巻』について
『忘れられた日本人の物語』は、その時代の歴史や暮らしを描く本編です。
『民草が紡ぎし絵巻』は、本編から生まれた名もなき人々一人ひとりの物語です。
本編が時代を描き、絵巻が人生を描きます。
どちらから読んでもお楽しみいただけます。
第二部 稲穂を育てる人々👇
📚 本編(ブログ)
🌐 第1話 稲を育て始めた人々
🌐 第2話 水を引く人々(8月31日公開)
🌐 第3話 土を耕す人々(9月2日公開)
🌐 第4話 実りを待つ人々(9月4日公開)
🌐 第5話 米を蓄える人々(9月6日公開)
🌐 第6話 村を育てる人々(9月8日公開)
🌐 第7話 糸を紡ぐ人々(9月10日公開)
🌐 第8話 海をつなぐ人々(9月12日公開)
🌐 第9話 境を守る人々(9月14日公開)
🌐 第10話 稲穂を残した人々(9月16日公開)
📚 民草が紡ぎし絵巻(本note)
第1話より
🌐 第22巻 最初に苗を植えた少女
🌐 第23巻 水を引く老人(本作)
第2話より
🌐 第24巻 初めて堰を築いた若者(8月31日公開)
🌐 第25巻 最後に水門を閉じる母(9月1日公開)
第3話より
🌐 26巻 鍬を直す父(9月2日公開)
🌐 27巻 初めて稲を刈る娘(9月3日公開)
第4話より
🌐 第28巻 雨を待つ老人(9月4日公開)
🌐 第29巻 最初の穂を見つけた子(9月5日公開)
第5話より
🌐 第30巻 種籾を残す母(9月6日公開)
🌐 第31巻 倉を守る老人(9月7日公開)
第6話より
🌐 第32巻 新しい家を建てる夫婦(9月8日公開)
🌐 第33巻 村で生まれた子(9月9日公開)
第7話より
🌐 第34巻 糸を紡ぐ娘(9月10日公開)
🌐 第35巻 母の布を受け継ぐ子(9月11日公開)
第8話より
🌐 第36巻 鉄を運ぶ舟人(9月12日公開)
🌐 第37巻 海の向こうから来た女(9月13日公開)
第9話より
🌐 第38巻 濠を掘る父(9月14日公開)
🌐 第39巻 門の内側で待つ母(9月15日公開)
第10話より
🌐 第40巻 最後の稲刈り(9月16日公開)
🌐 第41巻 父から受け継いだ田(9月17日公開)
🌐 第42巻 村を見下ろす老人(9月17日12時公開)
第一部 火を囲む人々👇
🌐 📚 『忘れられた日本人の物語』本編(ブログ)と『民草が紡ぎし絵巻』(本note)のリンク集
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