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『イン・ザ・メガチャーチ』が描く、推し活のグロさ

朝井リョウの『イン・ザ・メガチャーチ』を読み終えた。

読み終えた直後の感想を一言で表すなら、「グロい」だった。

「怖い」でも「醜い」でも「残酷」でもいいのだろうが、どうにも「グロい」という言葉が一番しっくりくる。

この作品は、アイドルやファンダムを題材にしている。

しかし、単純に「過激な推し活は怖い」という話ではない。

むしろ怖いのは、そこで描かれているものの一つひとつが、決して理解不能なものではないことだ。

誰かを好きになる。

誰かを応援する。

自分を変えたいと思う。

誰かの役に立ちたいと思う。

何かに熱狂したいと思う。

自分の人生を何かに賭けたいと思う。

どれも人間として、それほどおかしな欲望ではない。

ところが、それらが「推し活」という仕組みの中に組み込まれると、途端に奇妙なものになっていく。

この作品の「グロさ」は、そこにあるのではないかと思った。


久保田――「物語を作る側」も物語に飲み込まれる

この作品で特に印象に残った人物の一人が久保田だ。

久保田はアイドルグループの運営に関わる中で、ファンダムを熱狂させるための戦略を考える部署に関わることになる。

つまり彼は、人々を熱狂させる「物語」を作る側だ。

その仕事や人間関係をきっかけに新しいものに触れ、久保田自身も少しずつ視野を広げ、世界に関わっていこうとする。

ところが最終的には、自分が作る側だった「物語」に自分自身が飲み込まれ、仕事を失ってしまう。

さらに皮肉なのが、自分の娘には関係ないものだろうと思って作っていた熱狂の物語が、実は自分の娘に刺さり、娘の人生まで狂わせていたことだ。

ここには、物語を作る側と受け取る側の大きな隔たりがある。

作り手からすれば「仕事として作っているもの」でも、受け手にとっては「自分の人生そのもの」になることがある。

その温度差が恐ろしい。

武藤澄香――人生を狂わせたものが、人生を変えたものでもある

武藤澄香は、もともと留学を目指す真面目な大学生だった。

しかし、久保田たちが仕掛けた物語に巻き込まれ、推し活にのめり込み、自分の人生そのものが変わっていく。

これは現実でも十分に起こり得ることだと思う。

ただ、彼女を単純な被害者として見ることもできない。

過激な推し活をしていた一方で、それによって内向的だった自分を変えることができた、と本人は感じている。

つまり、

人生を狂わせたものが、同時に人生を変えてくれたものでもある。

ここが非常に重要だと思った。

「推し活は危険だからやめよう」という単純な話ではない。

実際に、推しによって救われる人もいる。

推しができたことで外に出られるようになった人もいる。

新しい友人ができた人もいる。

生きる理由を見つけた人もいる。

だからこそ、推し活を単純に否定することはできない。

隅川絢子――熱狂を失った人間に残る「穴」

隅川絢子は推し活をしていたが、推しを失う。

それによって、それまで自分を支えていた大きな熱狂を失ってしまう。

そして、その心の穴を埋めるように、怪しい思想へと染まっていく。

ここでは、

「大きな熱狂を持っていた人間が、その対象を失ったらどうなるのか」

ということが描かれているように感じた。

推しが単なる趣味ではなく、自分の人生の大きな部分を占めていた場合、その喪失は「好きなものを失った」というだけでは済まない。

熱狂そのものが、その人の生きる意味の一部になっているからだ。

そして、その穴を埋めるために、人はまた別の「物語」を探してしまうのかもしれない。

国見の「人は自分を使い切りたい」という言葉

そして、終盤に出てくる戦略室の国見の言葉が、この作品をさらに深いものにしている。

「人は自分を使い切りたい」

この言葉が非常に印象に残った。

人間には、

「自分の人生を何かに賭けたい」

「誰かの役に立ちたい」

「自分の存在に意味を感じたい」

「何かのために自分を燃焼させたい」

という欲望があるのではないか。

推し活は、その欲望を受け止める場所になり得る。

だから、

「自分を使い切りたい」という欲望が、推し活によってお金や時間や労力に変換される。

ここが怖い。

現代社会・メディアも「熱狂」に加担している

そして、この作品を読んでいると、熱狂しているファンだけを責めても意味がないように思えてくる。

現代のメディアやSNS、企業も、熱狂を生み出し、それを経済活動に変換する仕組みに加担している。

「推しを応援しよう」

「推しの夢を一緒に叶えよう」

「あなたの応援が力になる」

こうした言葉によって、消費行動が単なる消費ではなく、愛情や自己表現として意味づけられる。

その結果、

好きになる

応援する

お金や時間を使う

熱狂する

さらに応援する

という循環が生まれる。

これは単純な搾取とも言い切れない。

なぜなら、本人にとっては本当に楽しく、人生を豊かにしている場合があるからだ。

だからこそ余計にグロい。

救いと搾取が、同じシステムの中に存在している。

Vtuberの赤スパに感じる違和感

この構造は、Vtuberにもかなり分かりやすく表れている。

周年配信などで、1万円以上のいわゆる「赤スパ」が大量に飛び交う光景を、外側から見るとかなり異様に感じる。

「なぜ一度の配信に、そこまでのお金を使うのだろう」と思ってしまう。

しかし、国見の「人は自分を使い切りたい」という言葉を当てはめてみると、少し違って見えてくる。

お金を使う

推しを応援する

推しから感謝される

自分もその物語の一部になったと感じる

つまり、単なる消費ではなく、

「自分の持っているものを、意味のある対象に投入した」

という自己表現になっているのではないか。

そう考えると、1万円のスパチャも単なる「1万円の消費」ではない。

その人にとっては、自分の気持ちや存在を推しに届けるための行為なのだろう。

タイムスタンプという「無償労働」

個人的にかなり象徴的だと思うのが、配信後にリスナーが作るタイムスタンプだ。

2時間くらいの配信が終わった後に、

「ここではこんな話をしている」

「この時間はこの曲を歌っている」

という具合に、コメント欄にタイムスタンプを作っている人を見かける。

これを冷静に考えてみると、配信アーカイブを見やすくするための編集作業にかなり近い。

本来なら配信者側がやってもいい仕事を、リスナーが無償でやっている。

もちろん、その人は「仕事をしている」とは思っていないだろう。

「推しの役に立ちたい」

「他の人にも見てほしい」

「推しを応援したい」

という気持ちからやっている。

だからこそ面白い。

労働が「ファン活動」に変換されている。

外側から見ると「いや、それはお前の仕事ではないだろ」と思ってしまう。

しかし本人にとっては、仕事ではなく「推し活」なのだ。

この境界の曖昧さに、私はかなりの違和感を覚える。

Amazonのほしい物リスト――金銭の贈与が「プレゼント」になる

Amazonのほしい物リストを公開する文化も、同じ構造を持っているように思う。

一部では「乞食リスト」と呼ばれているが、外側から見れば、そう映るのも分からなくはない。

「自分では買わなくても、ファンが買ってくれる」

という仕組みに見えるからだ。

ただ、「ほしい物リスト」という形になると、

商品を買う

推しにプレゼントする

という意味に変わる。

単純な金銭の提供ではなく、「応援」や「プレゼント」という物語の中に組み込まれる。

ここでも経済活動が「推し活」という言葉に包み込まれている。

自分もその「グロい構造」の中に入る可能性

そして、ここまで考えていると、自分自身も完全に他人事ではない。

自分もVtuberとして活動している。

今は誰にも推されない底辺Vtuberなので、推し活に対して比較的冷ややかな目で見ることができる。

しかし、もし登録者やファンが増えれば、

タイムスタンプを作ってくれる。

切り抜きを作ってくれる。

ファンアートを描いてくれる。

お金を投げてくれる。

プレゼントを送ってくれる。

そんなことが起こるかもしれない。

そのとき、自分もきっと「ありがたい」と思うだろう。

つまり、今は外側から「グロい」と感じている構造の中に、自分自身も将来的には入る可能性がある。

ここが、この問題を単純な「推し活批判」にできないところだと思う。

「グロい」という言葉が一番しっくりくる

「醜い」「怖い」「残酷」。

いろいろな表現がある。

それでも、やはりこの作品には「グロい」という言葉が一番しっくりくる。

なぜなら、この作品が描いているのは単純な悪ではないからだ。

人間の、

「好きになりたい」
「誰かとつながりたい」
「自分を変えたい」
「誰かの役に立ちたい」
「自分を使い切りたい」

という、一見すると美しい欲望がある。

そこに、

企業・メディア・SNS・マーケティング・ファンダム

が入り込む。

そして、人間の欲望そのものが、時間・労力・金銭へと変換されていく。

美しいものと醜いものが分離されず、同じ場所から生まれている。

だから気持ち悪い。

だから私は、この物語を「グロい」と表現したくなる。

最終的に見えてくるもの

ここまで考えると、『イン・ザ・メガ・チャーチ』は単なる「推し活小説」ではないように思う。

むしろ、

人間が「自分を使い切りたい」と願うことと、その欲望を経済活動へ変換する現代社会の物語

として読むことができる。

そして、この構造は推し活ブームが終われば消えるものでもない。

人間が熱狂する限り、熱狂を生み出し、維持し、消費させる仕組みは、形を変えながら繰り返されていくのだろう。

だからこそ、この物語を読み終えたあと、現実のVtuberやアイドルのファンダムを見たときに、

「これも、もしかして同じ構造なのではないか」

と考えてしまう。

それが、この作品の一番嫌な余韻なのだと思う。

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