【短編小説】深淵の中で
不安は、たとえて言えば「目まい(Svimmelhed)」のようなものである。仮にある人がふと自分の眼で大口をひらいた深淵をのぞき込んだとすると、その人は目まいを覚えるであろう。
村上恭一訳、平凡社、2019年、p. 111. を引用。
「おい、へージェル。こんなとこに、こんな変な穴あったか? 」
「あ? ここ、俺の寮の裏だぜ? みたことも聞いたこともねえよ」
安里鐘人【あんり・なるひと】とへージェルは、現在へージェルの住む寮の裏庭にいた。鐘人が作った道具の実験をしようとしたのだ。しかしその実験は、謎の大きな穴によって打ち切りとなってしまった。鐘人もへージェルも、噂を少しも聞いたことのない穴。本当に知らない謎の深淵。人間一人がスポリと入ってしまいそうで、少々怖い。へージェルが、ちらりと穴の奥を覗く。昼なのに、光に照らされているはずなのに、奥が少しも見えない。暗闇が続いているだけだ。あまりにおかしな穴に、へージェルは不安を覚える。ここに落ちたらどうなるのだろう? いや、自分がそもそも「落ちる」と決断すれば、落ちれてしまうのだ‥‥。こんなことを考えていると、突然後ろから鐘人が言う。
「わっ!! 」
へージェルは、びくりと跳ねる。穴には落ちずに済んだが、後ろを振り向くと、鐘人がニヤニヤしながら立っていた。
「バカやろう! てめえ、落ちたらどうすんだ、もう! こんちくしょう! 」
「はははっ! 大丈夫だって、もし落ちそうになったら助けてやるからよぉ! 」
二人ではははと笑っていると、突然へージェルの身体に衝撃が走る。
「は? 」
鐘人とへージェルは、お互いに顔を見合わせる。へージェルが突き飛ばされているのだ。鐘人が後ろを向くと、鐘人の作った『相撲ヤロウ』という道具があった。「すもう」という言葉を聞くと、相撲の相手をしてくれるという道具だ。先ほどのへージェルの言った、『どうすんだ、もう! 』の『す』と『もう』の部分を「すもう」と繋げてしまい、誤作動でへージェルに襲いかかったのだ。へージェルが突き飛ばされた場所は、もちろん先ほどの大きな穴だった。
「うっ、うわぁぁぁぁぁぁ! 」
「へージェル!! 」
鐘人は、即座にへージェルの手を掴む。しかし、穴には掴む場所もないため、二人して穴の中へ落ちていく。
「うぎゃあああああああああああああああ! 」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ! 」
二人して、穴の奥深くへと落ちていく。先が見えない、終わりがない。へージェルと鐘人は、命の危険を感じた。もがいても無駄で、おそらくもう助からない。そんな恐怖と共に、二人はどんどん穴の奥へと落ちていった。
*
「お、よっしゃ! 倒したぞ! へージェル、そっちの敵をたのんだ! 」
「よーし、任せろ! 」
二人は、暗闇の中でスマホゲームをしていた。FPSで、いま世界中で大人気だ。しかし、相手が強かったのか、二人してどんどんHPを削られてしまう。そして、ゲームオーバーになってしまった。
「うわー! 惜しかったなぁ‥‥」
「くっそぉ、へージェル。もう一回やろうぜ! 」
「いや、違うだろ! 」
へージェルは声を荒げる。それをみて、鐘人はスマホを胸ポケットにしまいながら言う。
「いやでもさ。もう三十分は落ちてるぜ? 落ちてる感覚にも慣れて、今や暇なんだよな。なぜかWi-Fi通ってるし。腹もすかないし、喉も渇かないじゃん。なんなんだここ。おかしいよなぁ」
「そうなんだよな。いつ出口が来るんだ? それともここに出口なんてあるのか? 」
「うーん、わかんねえな。もう寝ちまうか? 本当に暇なんだよな、今」
二人は、腕組みをしながら下を向く。無限の暗闇が広がっている。しかし、むやみやたらに動くわけにはいかないので、この体勢、この場所で耐えるしかないのだ。すると、鐘人がテレビをみる休日のお父さんのように寝っ転がる体制を取り、言う。
「ずっと気になってたんだけどさぁ‥‥。カレーうどんって、いっつもどうやって食べてる? 」
「は? 何言ってんだ、お前」
「いや、カレーうどんってめちゃくちゃ跳ねるし、色が色だから服に染み付いて取れないじゃん? じゃあ服が汚れないカレーうどんの食べ方、そろそろ開発されてもいいんじゃないのか? 」
「あー、確かに。でも、簡単じゃないか。紙エプロンを使えばいい」
鐘人はへージェルの答えに対し、腕を組んで考える。
「いや、それだけじゃダメじゃないか? だって、紙エプロンが守れるのって、胸あたりだけじゃん。シャツを着てたら首元の襟とか、長袖だったら腕が危ないぜ。紙エプロンって、どうもかゆいところに手が届かない感じしないか? 」
「あー、確かに。じゃあ鐘人、お前の技術で発明品作ればいいじゃないか」
「へージェル、甘いな。違うんだよ、ここで話してるのは、『服を汚さずに、カレーうどんを食べる方法』なんだ。俺の道具とかあったら、なんでもできるだろ? 『じゃんけんに絶対に勝つ方法』を聞かれて、後出しするとか『無敵』の手を出すとかと言ってることは同じだぜ」
「あー、なるほどなぁ」
へージェルは、上を向いて考える。二人が入ってきた入り口は、もうすでに見えなくなっている。暗闇だけが、鐘人とへージェルの周りを包み込んでいる。落ちているからか、二人の髪はばさばさと上に向かって風を受けていた。
「あ、へージェル! なんで気づかなかったんだろう。お椀もって食えばいいじゃねえか」
「あー! なるほど。いや待て。お椀って、アホみたいに熱いだろ? 持てねえじゃねえか、カレーうどんのつゆって、どろどろしてるしすぐ冷めないんじゃないのか」
「軍手だよ、軍手。軍手を使えばいいんだ。カレーうどん専用耐熱軍手とかを発売してさぁ」
「というか、そもそも口に近づけたって、跳ねることは変わらないし。首元の危うさは軽減されてないぜ」
「あー、確かに‥‥」
二人はまた考えこむ。そしてしばらくすると、鐘人が言う。
「もうさ‥‥、お椀に顔突っ込んで食えばいいんじゃないか‥‥? 」
「馬鹿野郎、熱いし、行儀も悪いだろうが。そんなことが容認されたら、顔からカレーの匂いがする人が大量発生しちまうぜ。カレーの匂いの香水が発売されたみたいになる」
「いや、大丈夫だ。これをいわば『マナー』として流布させれば、きっと‥‥」
「バカ言うんじゃない」
しばし沈黙。すると、へージェルが話し出す。
「なあ、鐘人。カレーうどん食うって、技術の話じゃないんじゃないか? 」
「えっと‥‥、どういうことだ? 」
「俺、カレーうどんとか何回か食ってるんだけどさ。そのたびにカレー跳ねさせちゃってさ。留学生だし、箸の使い方慣れてないからかなぁって‥‥。でも、カレーうどんって筋が通ってない気がするんだよな」
「なるほど? 」
「カレーって、服につくとほぼお終いみたいな状態になるじゃないか。そんで、カレーうどん食べる時ってほぼ箸で食べるだろ? 箸の先って、基本ツルツルしてるじゃん。でもうどんって、コシとかあるからツルツルしてるじゃんか。家とかで茹でた後、水で冷やすときも手からどんどん抜けていくぜ。ツルツルしたものをツルツルしたもので掴むって、難しすぎないか? 」
「あー、なるほど! 食いにくいんだよな、確かにあれ」
「だから、その食い辛さをなくす発想にいけばいいんじゃないか? 跳ねないように食べるんじゃなくて、跳ねさせない方向にさ」
「ほー、へージェル。いい視点持ってんじゃん」
鐘人とへージェルは、黙って二人で考える。すると、へージェルがつけている腕時計から声がした。
『二人とも! うどんを改良するってのはどう? 』
「あ、麗さん! こんにちは。へージェルがいつもお世話になっております」
「いやいや、こちらこそ、いつもお世話になっております」
腕時計から声を出したのは、麗だ。過去にへージェルの言葉によって救われ、彼への好意から地縛霊となり、へージェルが住む寮の部屋に取り憑いている。最近はへージェルのものにも取り憑くようになっており、彼とはいつでも一緒なのだ。二人のやりとりを聞いていたへージェルは、ため息をつく。それを気にせず、麗は続ける。
『うどんに、へこみをつけて、箸で持ちやすくすればいいんじゃない? へこみの内側に、箸に引っかかりやすい突起をつけたりしてさ』
すると、鐘人が感心したように言う。
「あー、なるほど。むしろ箸の先端に、とげとげの突起をつけて、持った時にうどんが落ちたり予想外の方向へ跳ねないようにすればいいのか」
「でも、跳ねないようになったからって、口元で啜った時に跳ねちまうんじゃないのか? 」
『そこは、啜らないようにするのよ。ちょっと口に含んだら、うまく噛み切る。そうすれば、跳ねることなく食べられるんじゃない? 麺が落ちると跳ねちゃうから、できるだけ顔を近づけて食べるのよ』
するとへージェルが言う。
「でも、そういえばその箸だと口の中怪我しちゃうかも。しかも、最初に鐘人の道具を使わないでっていう制約があったじゃないか。ここで改良した箸とかうどんを持ち出したら、実質道具使ってるのと同じじゃないか? 」
すると、鐘人と麗がため息をつく。そして言う。
「へージェルぅ、気づくなよお。せっかくまとまりかけてたのにさぁ」
「いやいやいや! なんで俺が責められてんだよ! 」
『じゃあアレじゃない? カレーうどんのつゆが跳ねるんだったら、カレーうどん持ちながらジャンプすれば、なんか上手いこといくんじゃない? 』
「れ、麗さん‥‥。テキトーなことを‥‥」
鐘人が言うと、へージェルがあははと笑いながら言う。
「じゃあ、食べる前に割り箸をガジガジ噛んで、凹凸を作っちゃえばいいんじゃないですか? 」
鐘人は、腕組みをして考える。すると、目を大きく開きながら、へージェルに言う。
「うーむ、割とありじゃないか? 」
「え? ほんとに? 」
「うん。だって道具使ってないし、割り箸なんてその辺にいっぱいあるだろ。割り箸に歯で凹凸つけて、紙エプロンとかを首あたりに重点的に巻く。そんで、口を近づけて食えば行けそうじゃないか? 」
『うーん、まあ‥‥。確かに』
「いやー、もっといい方法あると思うんだけどなぁ」
へージェルがつぶやくと、鐘人が突然下を向いて言う。
「お、おい! あれ! 」
へージェルが下を向くと、小さな白い穴が空いている。いな、穴が白いのではなく、光が差し込んでいるのだ。
「お、おい! へージェル! さっきのカレーうどん、後で実験するぞ! 」
「そ、そんなこと言ってる場合か!? どこに繋がってるのかすらもわかんないんだぞ!? 」
二人が言っている間に、どんどん穴が大きくなっていく。白く光が差し込んでいる穴の先は、全く見通すことができない。
「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぃ! 」
「ああ、あああああああああ! 」
『いやぃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! 』
二人と麗は、叫び声をあげながら穴の向こうへと落ちていった。
*
どすん!
鐘人とへージェルは、突然どこかへ放り出された。二人が見渡すと、そこは寮の裏庭だった。彼らの後ろには、大きな穴が空いている。へージェルと鐘人は、きょとんとして顔を見合わせる。
「えっと‥‥。なんかあったか? 」
「いや、ないと思うぜ。俺の腕時計だと、普通になんも違和感がなく時間が進んでる」
「じゃあなんで突然、こんな体勢になってるんだ? というか、何しようとしてたんだっけ? 」
「うーん、わからん。『相撲ヤロウ』を試そうと思ったはずだけど‥‥」
「そうだそうだ。実験をしようと思ったんだったな。どっかの公園にでも行って、やろうぜ! 」
鐘人とへージェルは、穴に背を向け、どこかへ走り去って行った。穴は、まだそこにあった。先の見えない、構造もわからない穴が、二人の住む世界を覗いているかのようだった。
了 読んでいただき、ありがとうございました。安里鐘人シリーズを、今後ともよろしくお願いいたします。
途中で登場する、麗については、以下の作品をご覧になっていただければと思います。
