宗教的であるとは、行為に聖俗を持つこと―『空の構造』を読む(4)
はじめに
立川武蔵『空の構造 「中論」の論理』(講談社学術文庫、2024)を読む。文庫としては新しいが、原書は1986年に出版されている。
仏教における「空」の理論は、龍樹菩薩(ナーガールジュナ)によって整備された。大乗仏教の最初期における経典として般若経の系統があり、それは長期に亘って拡充されてきたのだが、その初期段階(紀元後200年頃)に龍樹が『中論』という論書で論理的な構造を理論化したのだった。仏教にみられることばの論理的なパターンを、空思想的に意味と合わせて整理したと考えた方がよく、その後のあらゆる大乗仏教の基になっているといえる。つまり、インド地方と東南アジア以外に広がった仏教の元といえるかもしれない。
本書は、その『中論』の論理を解釈している、貴重なものだと思える。そもそも仏教の論理には、近代の数理論理学で言われる論理とは異なり「論理を超えた論理」に特徴がある。禅の公案では、その作用を合理的に利用する、ある種、別の論理の読み方があるのだが、一般的には、言語や論理を破壊することで、さとりを図るといわれる。しかし、そもそも禅の以前に、仏教にはそのような、文の構造的に、特別な読み解き方をするところがあるのだ。
とても興味深い内容である。
本書は2章で構成され、節は全部で12節ある。ページ数こそ170ページと少なめだが、内容、その密度はなかなか濃い。今回は第1章「『中論』における「聖なるもの」と「俗なるもの」」、第2節「『中論』の思想的位置」の、昨日の続きから読む。
第1章2節 『中論』の思想的位置(続き)
「聖なるもの」と「俗なるもの」
エリアーデの聖俗の相関関係の把握、およびデュルケム、モースの社会的、歴史的理解は東洋思想、仏教の考察にとって重要なものになるだろう。ただし、聖俗の指し示す範囲を(西洋のそれらよりも)広くとらえる必要はある。
聖俗は宗教理解のために設けられた学的(学問的)概念である。したがって、元々の宗教が「聖なるもの」「俗なるもの」という語彙を持っているとは限らないし、そのような存在を認知しているかも不明である。
ここで、「聖なるもの」とは、目に見ることが出来ない絶対的な力そのもの、あるいはその力が「受肉」して目に見ることが出来るようになったもの、神が住むと考えられている神社や祭具などのもの、つまり「聖なる」力そのもの、もしくは力を付与されたもの(神像、神社、山や水)である。「俗なるもの」とは「聖なる」力を付与されていないものである。日常目にするものは、「聖なるもの」との関係において、「俗なるもの」とされる。
※聖か俗かは、認識だけによる区別といっていいのだろう。また「聖」が決まることによって「俗」が決まる、という順序である。ただこれ自体が宗教の学的な見方であり、一般には「聖」の認識がなくても、「俗」はある。
「聖なるもの」と「俗なるもの」は、1つの統一体の両極である。その統一体を宗教現象としたとき、あらゆる物事にその二極は存在し、人間の行為に対して「聖から俗」「俗から聖」といったエネルギーの流れ(ここでは電流という)が発生する。
このとき、その二極の存在は宗教行為の担い手に意識されていなければならない。2つの極というものがあって、その落差が、つまり電圧が存在すると理解されることによって、電流が流れて、宗教現象として成立するのだ。
その「電圧」は宗教行為の形態によって異なる。さらに、両極間の落差がなくなって電流が流れなくなったとき、すなわち行為者およびそれにかかわる者によって両極間の相違が意味を持たなくなった時、たとえ行為が存続したとしても、宗教現象は無となる、という。
※物事に意味があるかどうかは、認識による、という当たり前のことを言っているだけともいえるが、重要なのは、あるテーマについてポジティブかネガティブかの判断を物事が備えている、ということだ。汎的な概念であり、会社や政治、社会、組織といったことでも言いえるだろう。
尤も、ある宗教行為、たとえばお祭りの行列に参加する者たちのすべてに、聖俗の落差が意識されることはないだろう。参加者によるのだ。この場合、そこに参加している幾人かは聖俗の相違が意識されていないとならない、ということになる。
「聖なるもの」と「俗なるもの」とは、人間の行為なくしては意味を持たない。聖俗を意識した行為によって宗教における(動的な)聖俗の関係が成立する。宗教とは「聖なるもの」と「俗なるもの」の相違を意識した合目的行為の形態である。
人間の行為はほとんどが合目的的であるが、宗教行為は中でも顕著に合目的的である、という。そこには「聖なるもの」と「俗なるもの」との相違を意識的に行為に含ませることで、宗教の目的(例えば、道徳的事項の実現)を達成しようとする意図があるのだ。
※これも一般的なことと言えるだろう。となると、正に「聖」と「俗」の二極があることが宗教的ということになる。但し、「聖」と呼ばなくても、明らかに(というか絶対的、強制的に)「良し」とされるルールがある場合、宗教的ということになるだろうか。
宗教の三つのタイプ
宗教学者たちはそれぞれの立場から多種多様な宗教を分類することを試みてきた。今日では、(1)未開人の宗教、(2)民族宗教、(3)高等文化宗教(世界宗教)に分ける。例えば、(1)はオーストラリア原住民のトーテミズムやメラネシアのマナ(超感覚力)崇拝、(2)はユダヤ教、ヒンドゥー教、神道、(3)はキリスト教、イスラム教、仏教が挙げられる。(1)(2)は特定の教祖がいるわけではなく、自然発生的である。(3)はある宗教を母胎として生まれており、異なった民族にも広まっている。但し、(3)には、例えば仏教タントリズムはチベットに土着的になっているように、宗派によって(2)の形態として存続することも多い、という。日本における神道と仏教の結合も指摘される。
この分類は、宗教の発展(拡大)の過程という進化論を前提としているものだ。しかし、仏教が普及するに至って、ヒンドゥー教や神道に精神的救済や教理体系の高度化をもたらしたように、単純に進化論的に(1)〜(3)を分類すると誤りになる。進化というと「劣っている」ところから「優れている」ところになることを暗に了解していることになるのだが、現在ではただの参加人数だけの違いだからだ。著者は「未開人の宗教」といって劣ったものと規定してしまうと、宗教の最も根源的なものをみずから切り捨ててしまうことになるのではないか、というのだった。
今日(1986年の時点)、宗教学では(1)(2)への関心が中心である。(3)はそれぞれの宗教の専門学者が扱う。分かれてしまっており、3つの型を統一的に考えているとは言いがたい。
エリアーデ、デュルケム、モースなどの宗教学者は(1)(2)にかかわってきたのだが、彼らの「聖なるもの」「俗なるもの」という理解は(3)にも有効な見方なのではないか、と著者は提案する。特に本書では龍樹『中論』をテーマとするのだが、この理解に有効だった、というのだ。
仏教は個人的救済を目指しているので明らかに(3)に属する。しかし、龍樹以降、大乗仏教は様々な土着の文化に出会い、様々な他の宗教と相互の浸透を経験しているのだ。つまり(1)(2)の宗教と密接な関係にあったといえる。仏教はそもそもはさほど儀礼的ではないのだが、儀礼要素の強い土着宗教の影響で、儀礼が重視されるようになった、と著者は説くのだ。また、新教(プロテスタンティズム)においても事情は同様である、という。
※土着の影響かどうかはわからないが、確かに宗派ごとに異なって、それぞれに儀礼的であるといえる。仏教が細分化し、ローカルになってきたからと言えるかもしれないし、社会的に宗教の要素が少なく(薄く)なっているので、残されているところで印象強く儀礼的になっている、ということだろうか。
(1)(2)(3)のいずれの宗教にせよ、「俗なるもの」を否定するか変化を加えて「聖なるもの」を顕現することを目指すと考えられる。
初期仏教経典に述べられている「四禅」は仏教に組み入れられたヨーガであり、エリアーデ『ヨーガ』で示すように、ヨーガは「俗なるもの」を否定することにより「聖なるもの」の顕現を可能とする手段である。シャーキャ・ムニ(釈迦牟尼、釈尊、お釈迦様のこと)が説いた「八正道」は「俗なるもの」としての煩悩を滅して、悟りを得ることを目的とした手段であった。
※禅とは、そもそもは「聖なるもの」を顕現させる手段だったというのだ! 筆者的には仏教として「聖」と見ると、「聖(ひじり)」と呼んで平安時代の浄土系僧侶のイメージするところがあるのだが、そもそも各宗教で使われる「聖」というものの概念が、現代日本で通用しているものと違うのだろう。
龍樹『中論』は「俗なるもの」としての世界、すなわち言語的展開(戲論)を止滅させることによって、「聖なるもの」としての空性、「空」へ至る体験を可能ならしめることを目的としていると言えよう。
著者は、「その際『涅槃は輪廻と異ならない』という龍樹の立場は、この死滅の在り方に独特の限定を与えている」と加える。公案並みの驚きであるが、『中論』はかなりオリジナリティのある論であるようだ。
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