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眪ず眰 異聞・゜ヌニャが嚌婊にならない䞖界線



第䞀景 マルメラヌドフ、死す

うだるような䞃月の陜射しが、センナダ広堎に近い倧通りの石畳を灌いおいた。土埃ず、安酒堎から挂う饐えた臭いの䞭を、ラスコヌリニコフは圓おもなく歩いおいた。そのずき、銬車の車茪が䜕かに乗り䞊げる鈍い音、埡者の怒声、そしお矀衆の悲鳎じみたどよめきが、圌の思考を砎った。

人だかりをかき分けお前に出るず、そこに暪たわっおいたのは芋芚えのある顔だった。血の気の倱せた頬、それでもどこか几垳面に結ばれたたたのネクタむ。マルメラヌドフだった。

「知っおいる男だ」ラスコヌリニコフは蚀い、呚りの制止も聞かず圌の肩を支えた。「近くだ、家たで運がう」

四階たでの階段は、たるで刑眰のように長かった。戞を叩くず、カテリヌナ・むワヌノノナが顔を出し、倫の姿を芋るなり悲鳎を䞊げた。狭い郚屋に、血ず埃ず病の臭いが満ちおいく。子䟛たちが壁際に身を寄せ合い、母芪の絶叫に怯えお泣き出した。

医者が呌ばれ、皋なくしお黙っお銖を暪に振った。もう長くはない、ず。

カテリヌナは倫の枕元にひざたずき、半狂乱で䜕事かをたくし立おおいた。恚み蚀ず祈りの区別さえ぀かないその声の合間に、圌女は幟床も同じ名を叫んだ。

「゜ヌニャ! 誰か゜ヌニャを呌んでおくれ、あの子はどこ、どこにいるの!」

階段を駆け䞊がる足音がしお、戞口に人圱が珟れたのは、それからほどなくのこずだった。

ラスコヌリニコフは、無意識のうちに身構えおいた。困窮のあたり身を持ち厩した嚘、ずいうような、この界隈にありふれた噂話の䞭の女の姿を、挠然ず思い描いおいたからだ。

だが、戞口に立っおいたのはそれずはたるで違う姿だった。

灰色の質玠なショヌルを頭から被り、䞡手には曞類の束ず、ただ仕立おの途䞭らしい癜い垃地の塊を抱えおいる。仕事堎から呌び出され、そのたた駆け぀けたのだろう。頬は䞊気し、息は乱れおいたが、その目には、涙よりも先に、状況を玠早く芋極めようずする冷静な光があった。

「お父さん」

短くそれだけ蚀うず、゜ヌニャは母を抌しのけるようにしお父の枕元に膝を぀いた。医者に二蚀䞉蚀尋ね、返っおきた答えに小さくうなずくず、すぐに母のほうぞ向き盎った。

「お母様、萜ち着いお。ポヌレンカに氎を持っおこさせお。それから、アンナ・カルロノナのずころぞ人をやっお――今倜、郚屋を貞しおもらえるか聞いお」

指瀺は的確で、無駄がなかった。カテリヌナの絶叫は次第に嗚咜ぞず倉わり、郚屋の䞭に、かろうじお秩序ず呌べるものが戻っおきた。

「  ゜ヌニャ」

マルメラヌドフのかすれた声が、その名を呌んだ。嚘は父の手を握り、顔を近づけた。

「お父さん、いいの。もう喋らないで」

「いや  お前が、曞類を集めお、圹所に日参しお  あのお針子の女たちを束ねお、泚文を取っおきお  俺は、それを、ただ芋おいるだけで  䜕ひず぀、たずもに、お前たちのために  」

也いた咳が、その先を遮った。゜ヌニャの目にようやく涙が滲んだが、それでも圌女は父の手を攟さなかった。

「お父さんのせいじゃない。誰のせいでもないわ。ただ、生きおいかなくちゃいけない、それだけのこず」

マルメラヌドフは䜕か蚀おうずしお、しかし蚀葉にならず、ただ小さく頷いたように芋えた。それが最埌だった。

カテリヌナ・むワヌノノナの叫び声が、再び郚屋を満たした。今床こそ、それは玔粋な絶望の声だった。子䟛たちが泣きながら母芪にしがみ぀き、隣人たちが戞口から芗き蟌んでは、ひそひそず囁き亀わした。

゜ヌニャは、しばらくのあいだ父の亡骞のそばに座り蟌んだたた、動かなかった。だが、その静止は長くは続かなかった。圌女は静かに立ち䞊がるず、濡れた頬を手の甲で䞀床だけ拭い、隣人の䞀人に向かっお萜ち着いた声で蚀った。

「マリダ・ゲラヌシモノナ、悪いけれど、教䌚に人をやっおもらえたすか。それず――」

そこで初めお、圌女はラスコヌリニコフの存圚に気づいたようだった。

「  あなたが、父を運んでくださったのですか」

「たたたた、近くにいただけです」

゜ヌニャは圌をたっすぐに芋た。倀螏みするような芖線ではなく、ただ玔粋に、この状況で䜕が助けになるかを芋定めるような目だった。

ラスコヌリニコフは気づけば、母から届いたばかりの玙幣を握りしめおいた。二十五ルヌブリ。それを差し出す手が、なぜかかすかに震えた。

「これを、葬儀の足しにしおください」

゜ヌニャは䞀瞬、圌の顔を芋぀めた。躊躇いは、䞀秒にも満たなかった。

「  ありがずうございたす。助かりたす」

それだけだった。過剰な感謝もなく、恥じ入るように目を䌏せるこずもない。圌女はそれを、ただ必芁な戊力ずしお受け取った。

圌が挠然ず埅っおいたもの――憐れみを乞う涙、斜しぞの卑屈な感謝――は、そこになかった。差し出した手の震えだけが、い぀たでも治たらなかった。

「お父様のこずは、お気の毒に」ラスコヌリニコフは、他に蚀うべき蚀葉を芋぀けられなかった。

゜ヌニャは小さく銖を振った。

「父は、匱い人でした。でも、匱いこずず、悪いこずは違うず思うんです」

圌女がラスコヌリニコフの内偎にあるものを知っおいお攟った蚀葉ではなかった。ただ、父に぀いお、ありのたたを述べただけだった。それでも、その蚀葉は圌の内臓のどこか深いずころを、静かに刺した。

匱いこずず、悪いこずは違う――その䞀蚀だけが、階段を䞋りる間、ずっず耳の奥に残っおいた。誰も殺さず、誰にも身を売らず、それでも生き延びようずする人間がいる。その事実だけが、答えのない棘ずしお、圌の䞭に残った。


第二景 願い出

父の四十日の忌明けを埅たず、゜ヌニャは貎族院附属の慈善局を蚪れた。母から譲り受けた叀い曞類の束――か぀お䞀等文官であった祖父の蟞什、母の卒業した貎族女孊院の蚌明曞――を抱え、受付の圹人に䜕床も同じ説明を繰り返した。

「私の母、カテリヌナ・むワヌノノナは、亡き䞀等文官の嚘です。倫を亡くし、幌い子䟛たちを抱えお困窮しおおりたす。行き倒れ寞前の退職官吏の家族ずしお、正匏な救枈手圓を申請いたしたす」

圹人は最初、うんざりした顔で゜ヌニャを远い返そうずした。だが圌女は匕き䞋がらなかった。翌日も、その翌日も、同じ窓口に通い続けた。曞類の䞍備を指摘されれば、その日のうちに揃え盎しお戻っおきた。䞉床目の蚪問で、ようやく担圓官の䞀人が根負けしたように曞類を受理した。

「結果が出るたでには時間がかかる。期埅しすぎないこずだ」

「わかっおおりたす。ですが、申請しなければ、始たりもしたせんから」

その垰り道、゜ヌニャは針仕事の仲間である近所の女たちのもずに立ち寄った。良家からたずたった仕立おの泚文が入ったこず、それを䜕人かで分担しお仕䞊げれば、䞀人あたりの実入りも安定するこずを、順に説いお回った。

「あんたは本圓に、じっずしおいられない人だね」

幎嵩の女の䞀人が、呆れず芪しみの入り混じった声で蚀った。゜ヌニャは短く笑っただけで、答えなかった。立ち止たっおいる暇など、どこにもなかったから。

窓の倖は、もうすっかり暗い。針ず糞を取り出し、預かっおいた仕立物の続きに取りかかる。手を止めれば、堰き止めおいたものが決壊しおしたいそうだったから。

悲しむのは、そのあずでいい。今はただ、悲しんでいる䜙裕はなかった。

針を持぀手だけは、倜が曎けおも、決しお止たらなかった。


第䞉景 針仕事の灯の䞋で

倜もだいぶ曎けおいた。運河沿いの湿った颚が、窓枠の隙間から现く吹き蟌んで、卓の䞊の蝋燭の火を絶えず震わせおいた。

゜ヌニャは、針を眮かなかった。

现い指が垃地を返し、瞫い目を確かめ、たた針を入れる。その傍らには垳面が䞀冊開かれおいお、受け取った泚文の寞法や、垃代の立替え、分配すべき賃銀の額が、几垳面な字で曞き぀けられおいた。粗末な郚屋だったが、そこには貧しさの攟぀乱雑さずは別の、切り぀められた秩序があった。

戞が叩かれたずき、圌女は顔を䞊げただけだった。

「  どうぞ」

入っおきたのはラスコヌリニコフだった。垜子も取らず、ひどく疲れた顔をしおいた。熱でもあるような目぀きで、しかしその目だけがいやに冎えおいた。

「遅かったでしょうか」

「いいえ。ただ起きおいたす」

゜ヌニャはそう蚀っお、卓の向かいの怅子を少し匕いた。それだけで、䜙蚈な驚きも、遠慮も芋せなかった。圌女にずっお蚪問者ずは、歓迎すべき客か厄介な他人かのどちらかではなく、たず䜕をしに来た人間なのかを芋定めるべき存圚だった。

ラスコヌリニコフは腰を䞋ろしたが、すぐには口を開かなかった。針の先が垃を刺し貫く埮かな音ばかりが、劙にはっきり響いた。

「ずいぶん働くのですね」

「働かなければなりたせんから」

「それで、足りるんですか」

「足りたせん」

圌女は平然ず蚀った。

「でも、足りないからずいっお、䜕でもしおいいわけではないでしょう」

圌は、その蚀葉にひどく敏感に反応したようだった。顔を䞊げ、急に笑った。笑いずいっおも、也いお、どこか敵意に䌌た響きのあるものだった。

「䜕でも、ね。人間は皆そう蚀いたす。けれど、珟実には、䜕でもしおいる。螏み぀け、抌しのけ、奪い、黙らせる。名目さえ立掟なら、なおさら平気だ。将軍だの、政治家だの、立法者だの  䞖界を少しでも動かした連䞭は、みんな幟぀もの死骞の䞊を歩いおいる」

゜ヌニャは針を止めた。

「だから」

「だから、です」圌は身を乗り出した。「もし、ある䞀人の䞋劣で有害な人間がいお、その者の呜䞀぀を取り去るこずで、十人、癟人の暮らしがたしになるなら、それは蚱されないこずなんですか。いや、蚱されるどころか、矩務ですらあるんじゃないですか。そういう䞀歩を螏み出せる者ず、ただ震えお埓うだけの者ずがいる。人類は、その前者によっお進むんです」

蚀い終えるず、圌は゜ヌニャの顔を芋た。詊すように。挑発するように。あるいは、自分の口から出た蚀葉の審刀を埅぀ように。

゜ヌニャはしばらく黙っおいた。反射的な道埳で蚀い返すのではなく、盞手の蚀葉を䞀぀ず぀自分の䞭に通しおいるふうだった。

「それは、誰が決めるんですか」

「䜕を」

「その人が“有害”で、こちらが“蚱される”偎だずいうこずを」

「事実が決めるでしょう」

「事実は、口をききたせん」

圌女は静かに蚀った。

「口をきくのは、い぀も人です。そしおたいおい、自分に郜合のいいようにしか蚀いたせん」

ラスコヌリニコフの眉がわずかに動いた。

「では、あなたは䜕もしないんですか。悪が目の前にあっおも、指をくわえお芋おいろず」

「いいえ。止めたす」

「どうやっお」

「自分がその悪にならないやり方で」

圌はたた笑った。今床は露骚だった。

「ずいぶん立掟な蚀い分だ。けれど、そんなやり方はたいおい間に合わない」

「間に合わないこずはありたす」

゜ヌニャはうなずいた。

「でも、間に合わないからずいっお、人間を材料にしおいいこずにはなりたせん」

その蚀葉は短かったが、郚屋の空気を倉えた。ラスコヌリニコフは黙った。蝋燭の火が、圌の頬のこけた圱を深くした。

゜ヌニャは針を眮き、䞡手を膝の䞊に重ねた。

「あなたの蚀う“前者”ずいうのは、たぶん、自分には他人を数に盎す暩利があるず思う人のこずです。䞀人、二人、十人。あの人は邪魔、この人は無䟡倀、その代わりにもっず倧きな善が来る――そうやっお勘定するのでしょう。でも、その勘定の䞭には、い぀も自分自身が入っおいない」

「どういう意味です」

「自分は数える偎に立っおいるからです。数えられる偎には回らない。裁く偎で、裁かれる偎ではない。そこに最初の嘘がありたす」

圌は急に青ざめたように芋えたが、すぐに蚀い返した。

「では、ナポレオンは 歎史を動かした者たちは 圌らが䞀歩も螏み越えなかったら、䜕も倉わらなかった」

「倉わったでしょう」

「䜕が」

「人間の顔぀きが」

゜ヌニャは答えた。

「あなたは歎史の倧きな圢ばかり芋おいる。でも、私はその䞋で暮らす人たちのこずしか知らない。母が咳をしお、子䟛が腹をすかせお、垃代が䞊がっお、圹人が曞類を突き返す。そういうものです。そこでは、螏み越えた人が偉かったかどうかなんお、ほずんど問題ではありたせん。ただ、螏み぀けられた人はちゃんず痛いのです」

ラスコヌリニコフは顔を背けた。

「痛みだけで䞖界は量れない」

「ええ。けれど、痛みを量りから倖した䞖界は、たいおい誰か䞀人の思い䞊がりです」

沈黙が萜ちた。階䞋で誰かが戞を閉める音がしお、たた静かになった。

ラスコヌリニコフは肘を卓に぀き、額を抌さえた。その姿には、議論に負けた男の苛立ちよりも、どこかもっず個人的な疲劎があった。

「もし  」ず圌は䜎く蚀った。「もし、その䞀線を越えた人間が、実は䜕も埗られなかったずしたら 䞖界も倉わらず、自分だけが汚れたずしたら」

゜ヌニャの目が、初めおわずかに曇った。圌女は今ようやく、この議論が芳念だけのものではないず察したのだった。

「それなら、その人はたぶん」

圌女は慎重に蚀葉を遞んだ。

「人を殺したこずより先に、自分を特別だず思ったこずで眰を受けおいるのだず思いたす」

ラスコヌリニコフは顔を䞊げた。ひどくゆっくりず。

「特別だず思うこずが、そんなに悪いんですか」

「悪いのではありたせん。ただ、危ないのです」

「なぜ」

「人は、自分が特別だず思い始めるず、他人を普通以䞋に芋始めるからです」

圌女はそこで芖線を逞らさなかった。

「でも、本圓に匷い人は、たぶん逆です。自分を高く眮く人ではなく、自分もたた他人ず同じように傷぀き、飢え、間違える人間だず知っおいお、それでもなお他人を螏たない人です。耐えるだけのこずを、あなたは軜く芋すぎおいる」

その「耐える」ずいう䞀語に、ラスコヌリニコフは埮かに身じろぎした。

「耐えるだけで、䜕になる」

「人間になりたす」

圌女はきっぱりずそう蚀った。

「少なくずも、獣や道具にはなりたせん」

それは信仰の蚀葉ずいうより、劎働の蚀葉だった。毎日、同じ針を持ち、同じ窓口に立ち、同じ貧しさに抌し返されながら、それでも自分を売り枡さずにいる者だけが蚀える調子が、その䞀蚀にはあった。

ラスコヌリニコフは、急にその郚屋の䞭のものを芋回した。垃切れ、糞巻き、垳面、安い蝋燭、ひびの入った氎差し。どれも取るに足らないものばかりだった。だが、それらすべおが圌の理屈に察する反蚌のように芋えた。ここには、誰かを犠牲にしお獲埗した栄光はなかった。ただ、他人に負わせるはずだった重みを、自分の肩で持ちこたえようずする、無名の意地だけがあった。

「あなたは  」圌は掠れた声で蚀った。「あなたは、僕を裁いおいるんですか」

゜ヌニャは少し驚いたように瞬いた。

「いいえ」

「では、䜕をしおいる」

「聞いおいたす」

圌女は答えた。

「あなたが、自分で自分に䜕を蚀い聞かせようずしおいるのかを」

その蚀葉は、責めるよりも容赊がなかった。ラスコヌリニコフの理屈は、䞖界に向かっお突き぀けられた刃ではなく、圌自身の䞭のある事実を芆い隠すための包垯にすぎない――そう蚀い圓おられたのに等しかったからだ。

圌は立ち䞊がった。怅子がぎい、ず鳎った。

「もう、垰りたす」

゜ヌニャも立ち䞊がったが、匕き止めはしなかった。

「倜道に気を぀けお」

それだけだった。

戞口たで行きながら、ラスコヌリニコフはふず振り返った。蚀うべきこずがただあるようで、しかし䜕䞀぀蚀葉にならなかった。

゜ヌニャはたた卓に戻り、針を取り䞊げおいた。もう圌のほうを芋おいなかった。だが、その暪顔には冷淡さではなく、今にも倒れそうな日々の䞭で、それでも仕事の手を止めない者の静かな頑固さがあった。

圌は䜕も蚀わずに出おいった。

階段は暗く、じめ぀いおいた。䞋りながら、圌の耳には、あの女の蚀葉だけが残っおいた。

――人間を材料にしおいいこずにはなりたせん。
――本圓に匷い人は、他人を螏たない人です。
――耐えるだけのこずを、あなたは軜く芋すぎおいる。

通りぞ出るず、倜気は冷えおいた。だが圌の額には、ただ熱がこもっおいた。
自分は血を流したから苊しいのではない。
血を流したうえでなお、䜕者にもなれなかったから苊しいのだ、ず。
そのこずを、あの針仕事の嚘は、神の名を借りず、ただ人間の蚀葉だけで蚀い圓おおしたった。

圌は足を止めた。
暗い運河の氎面には、街灯の光が歪んで映っおいた。
非凡であるはずの人間は、なぜこんなにも惚めに、自分䞀人の胞の内で぀たずくのか。

答えはどこにもなかった。
ただ、圌が螏み越えたず思っおいた境目が、実はただ圌の䞭に棘のように残っおいる、その痛みだけが確かだった。


第四景 告癜

それから䞉日ほど、ラスコヌリニコフは姿を芋せなかった。

その䞉日のあいだにも、゜ヌニャの暮らしは少しも止たらなかった。朝の早いうちに仕立物を届け、昌には慈善局ぞ足を運び、倕方には母の咳に薬草を煎じ、倜になればたた針を取る。貧しさは人を悲したせるより先に、働かせる。悲しみは、甚事の切れ目にだけ忍びこんできた。

四日目の倜、戞が叩かれたずきも、圌女はちょうど垳面に数字を曞き぀けおいた。

「どうぞ」

入っおきたラスコヌリニコフは、この前よりもひどい顔をしおいた。頬はこけ、唇は也き、県だけが䞍自然なほど光っおいた。病人の顔だったが、病んでいるのは肉䜓ばかりではないこずが芋お取れた。

゜ヌニャは怅子を勧めたが、圌は座らなかった。

「今日は、話がありたす」

「ええ」

「長くはかかりたせん」

「そうでしょうね」

その返事に皮肉はなかった。ただ、これから䜕が起こるかを、圌女なりに受けずめる甚意をした声音だった。

ラスコヌリニコフは立ったたた、しばらく黙っおいた。自分でここたで来おおきながら、最初の䞀蚀だけがどうしおも口から出ないらしかった。゜ヌニャは急かさなかった。沈黙を埋めるような芪切は、ずきに臆病者の味方になるこずを、圌女は知っおいた。

やがお圌が蚀った。

「  あの高利貞しの老婆を殺したのは、僕です」

゜ヌニャの顔から色が匕いた。だが、叫びはしなかった。手元の垳面に眮いおいた指が、ほんの少しだけ匷く玙を抌さえた。

圌は続けた。むしろ続けずにはいられないふうだった。

「金のためじゃない。少なくずも、それだけじゃない。僕は詊したかった。自分が、越えおいい人間かどうかを。螏み越える資栌のある人間か、ただ震えるだけの凡庞な虫けらかを」

゜ヌニャはなお黙っおいた。

「僕は考えたんです。䞀人の䞋劣な、誰の圹にも立たない老女が死に、その金で䜕十もの生が立ち盎るなら、それは犯眪じゃない、ず。むしろ、蚈算ずしおは正しい。歎史はそうやっお動いおきた。血をこがさずに䜕かを始めた人間なんお、䞀人もいない」

そこたで蚀っおから、圌は劙に空虚な声で぀け加えた。

「だが、もう䞀人いた。リザノェヌタが入っおきた。予定じゃなかった。あれは――」

「予定でない人なら、殺しおもよかったのですか」

゜ヌニャが初めお口を開いた。

声は高くなかった。だが、その静けさのせいで、かえっお蚀葉は鋭く聞こえた。

ラスコヌリニコフは口を぀ぐんだ。

「あなたは、あの人を知っおいたしたか」

「少しだけ」

゜ヌニャは蚀った。

「垃を持っおきおくれたこずがある。倧きな声では話さない人でした」

郚屋が急に狭くなったようだった。安い蝋燭の火が揺れ、壁の圱だけが動いた。

ラスコヌリニコフは、ほずんど挑むように蚀った。

「それでも、理屈は厩れない。䟋倖はあったにせよ、問題はそこじゃない。倧きなこずを為す人間は、叀い秩序を壊さずに枈たない。そういう人間に、同じ法を圓おはめるこずはできないんです」

゜ヌニャは圌を芋た。その目には、怯えよりも先に、深い疲劎に䌌たものがあった。

「あなたはただ、理屈の話をしおいるんですか」

「他に䜕がある」

「死んだ人がいたす」

それだけだった。

ラスコヌリニコフの顔が匕き぀った。

゜ヌニャは立ち䞊がった。圌のそばぞ寄るのではなく、卓の向こう偎に立ったたた、䞡手を組んだ。

「あなたは、䜕をしに来たのですか」

「䜕を、ずは」

「赊しおほしいのですか。あるいは、理解しおほしいのですか。自分の理屈が間違っおいなかったず、誰かに蚀っおもらいたいのですか」

「僕は――」

蚀葉が途切れた。

゜ヌニャは容赊しなかった。

「違いたす。あなたは蚌人を探しに来たんです。自分がただ人間だず、誰かに蚌明しおもらいたいから」

その䞀蚀で、圌の理屈は急にみじめなものになった。䞖界史だの非凡人だのず蚀い立おおいたものが、たった今、自分の胞の䞭の怯えを隠すための垃切れに過ぎなかったず暎かれたからだった。

「  では、あなたは䜕ず蚀うんです」

「人を殺した人間だず申したす」

「それだけか」

「それ以䞊でも、それ以䞋でもありたせん」

圌は苊々しく笑った。

「ずいぶん簡単だ」

「簡単ではありたせん」

゜ヌニャの声が、そこで初めお少しだけ震えた。

「簡単ではないから、あなたはこうしお立っおいられなくなっおいるんでしょう」

沈黙が萜ちた。

窓の倖で、酔っぱらいの怒鳎り声がしお、すぐ遠ざかった。倏のペテルブルクの倜は、蒞し暑く、薄汚れお、どこたで行っおも人の息苊しさから逃れられない。

ラスコヌリニコフは怅子に厩れるように腰を䞋ろした。䞡手で額を抌さえ、指の隙間から䜎い声を挏らした。

「僕は、ただ知りたかったんです。自分が䞀匹の虱か、それずも人間か」

゜ヌニャはすぐには答えなかった。

「虱か人間か、ずいう分け方をするこず自䜓が、もう間違いです」

「では䜕だ」

「あなたは、自分が人間かどうかを確かめるために、たず他人を人間でないものずしお扱った」

その蚀葉に、圌は身じろぎした。

「そこから先は、理屈ではありたせん。もう枈んだこずです。取り返しは぀かない」

「なら、どうしろず蚀うんだ」

゜ヌニャは圌をたっすぐ芋た。

「自分で蚀いに行っおください」

「どこぞ」

「譊察ぞ」

圌は急に立ち䞊がった。怅子が床を匕っかいお、倧きな音を立おた。

「あなたは䜕もわかっおいない」

「ええ、党郚はわかりたせん」

「僕がどんな考えで――」

「考えでは、人は生き返りたせん」

圌女は遮った。

「あなたの考えが高尚だったか卑しかったか、そんなこずは、死んだ人には関係ない。あなたがしなければならないのは、説明ではなく、名乗るこずです」

圌は激しく息をした。その顔には怒りず、䟮蔑ず、狌狜ず、そしおそれ以䞊にどうしようもない疲劎が入り混じっおいた。

「もし行かなかったら」

「それなら、もうここぞは来ないでください」

゜ヌニャは蚀った。

「私は、あなたの隠れ堎所にはなりたせん」

それは拒絶だった。しかし、芋捚おるずいう蚀い方ではなかった。隠れるためには来るな、自分の名で立぀ためなら来おもよい、その境目だけを圌女は瀺した。

ラスコヌリニコフはしばらく動かなかった。たるで、これほど貧しく、これほど䜕の暩力も持たない女に、ここたで退路を断たれるずは思っおいなかったずいうように。

「あなたは  残酷ですね」

「たぶん」

゜ヌニャは答えた。

「でも、あなたはもう、やさしい蚀葉で守られる段階を過ぎおいたす」

圌は垜子を぀かむず、ほずんど逃げるように戞口ぞ向かった。だが敷居をたたぐ盎前、振り返りもせずに蚀った。

「行けば、終わりだ」

「いいえ」

゜ヌニャは蚀った。

「そこからしか始たりたせん」

その倜のうちには、圌はただ行かなかった。

だが翌日の倕方、センナダ広堎を暪切る人蟌みの䞭で、垜子も取らず、顔を死人のように匷匵らせたたた、圌は圹人の前に立った。自分の名ず、眪の名を、途切れ途切れに蚀った。傍らに゜ヌニャの姿はなかった。

圌女は来なかった。

来ないこずによっおしか、圌を自分の足で立たせられないず知っおいたからだった。


第五景 刀決たで

告癜ののち、町はしばらくその噂でざわめいた。

高利貞し殺しの䞋手人が、あの痩せた元孊生だったこず。しかも、金のためばかりではなく、䜕か奇劙な理屈のためにやったらしいこず。人々は面癜半分にそれを語り、やがお飜きるず別の噂ぞ移っおいった。町ずいうものは、人の砎滅を長くは芚えおいない。

だが圓人にずっお、砎滅はその時からやっず茪郭を持ちはじめた。

取調べの垭で、ラスコヌリニコフはしばしば黙り蟌んだ。いっそ激しい激情でもあれば救いがあったかもしれないが、実際には、圌の内偎にあったのは奇劙に也いた疲劎だった。自分の理屈を話せば話すほど、それが䞖界を動かす思想ではなく、䞀人の若者の病んだ高慢にすぎなかったこずが、かえっおはっきりしおしたう。蚀葉が、自分に䞍利な蚌拠のように積み䞊がっおいった。

゜ヌニャは、䜕床か呌ばれお事情を聞かれた。圌女は知っおいるこずだけを話した。知らないこずは知らないず蚀った。涙で情状を乞うこずも、あの男は本来善良なのだず匁護するこずもなかった。

垰り際、曞蚘官の䞀人が意倖そうな顔で蚀った。

「ずいぶん冷静ですな」

゜ヌニャは曞類の束を抱え盎しながら答えた。

「取り乱しおも、刀決は倉わりたせん」

その䞀方で、圌女は自分の家のこずを進めおいた。慈善局からの手圓は、䜕床もの願い出の末に、ようやくわずかな額だけ認められた。倚くはなかったが、無いよりはたしだった。ポヌレンカはある商家の子䟛盞手に読み曞きを教える口を埗た。䞋の子らは近所の助けを受けながら、どうにか冬を越した。カテリヌナ・むワヌノノナは、最埌たで自分の血筋のこずを誇らしげに語り続け、しかしその誇りだけでは肺病を远い払えず、秋の終わりにあっけなく息を匕き取った。

葬いのあず、゜ヌニャは䞀晩だけ泣いた。

翌朝には、たた針を取った。

ラスコヌリニコフがその報せを知ったのは、護送前に蚱された短い面䌚のずきだった。

栌子越しに芋る圌女は、ペテルブルクで最埌に䌚ったずきよりさらに痩せおいた。だが県だけは前より匷く芋えた。泣く時間を枈たせおしたった人間の目だった。

「お母様は」

「亡くなりたした」

圌は黙った。

「子䟛たちは」

「ばらばらにはしたせん。どうにかしたす」

それもたた、圌女が自分にではなく事実に向かっお話しおいる口調だった。

しばらくしお、圌は䜎く聞いた。

「あなたは  来るんですか」

「どこぞ」

「シベリアぞ」

゜ヌニャは圌を芋た。栌子の圱が圌女の頬に斜めに萜ちおいた。

「ただ行けたせん」

「子䟛たちのせいで」

「ええ。それに、あなたのためだけでもありたせん」

その蚀い方が、圌には少し堪えたようだった。

「僕のためだけではない」

「圓然です」

圌女は蚀った。

「私は誰かの莖眪の道具ではありたせん。子䟛たちを食べさせるこず、仕事の筋を立おるこず、借りを返すこず、それが先です。それが枈んで、なお私が行くず決めたら、そのずき行きたす」

圌は皮肉っぜく笑おうずしたが、うたくいかなかった。

「あなたは正盎だ」

「あなたも、今はそうであるほうがいいでしょう」

栌子の向こうで、圌の指がわずかに動いた。手を䌞ばしかけお、やめた。

「もし来なかったら」

「来なくおも、あなたの眪は枛りたせん」

゜ヌニャは静かに答えた。

「来おも、枛りたせん」

その蚀葉を、圌は長く忘れなかった。

刀決は、予想されたずおりのものだった。枛刑の事情は認められたが、赊免ではない。遠い土地での流刑ず劎圹。町の人々にずっおは䞀぀の事件の終わりであり、圌にずっおは、ようやく蚀い逃れのできない時間の始たりだった。

護送の日、駅に芋送りに来た顔ぶれは倚くなかった。ドゥヌニャ、ラズヌミヒン、そしお少し離れたずころに゜ヌニャが立っおいた。黒っぜい叀い倖套に、芋慣れた灰色のショヌルを巻いおいる。手には、小さな包みず垳面が䞀冊。

圌女は近づいおきお、それを差し出した。

「玙ず鉛筆です。向こうで手に入らないこずもあるでしょうから」

「  手玙を曞けず」

「曞きたければ」

それだけだった。

「䜕を曞けばいい」

「初めお、自分に嘘を぀かずに枈んだ日があったら、そのこずを」

汜車の汜笛が鳎った。別れの堎に䌌぀かわしくない、無愛想な音だった。

ラスコヌリニコフは包みを受け取ったが、瀌の蚀葉がすぐには出おこなかった。䜕かもっず違う蚀葉を期埅しおいたのかもしれない。慰め、誓い、涙、埅っおいるずいう玄束。だが゜ヌニャは䜕ひず぀䞎えなかった。

圌女はただ蚀った。

「生きおください」

「その先は」

「その先は、あなたが決めるこずです」

圌は車䞡に抌しこたれた。窓越しに芋えた圌女の姿は、最埌たで動かなかった。手を振りもしなかった。泣きもしなかった。矀衆の䞭にあっお、圌女だけが、芋送る人間ずいうより、蚌人のように芋えた。


終景 シベリア

最初の冬、ラスコヌリニコフはほずんど誰ずも亀わらなかった。

雪は容赊なく降り぀づき、空は䜎く、息をすれば肺の奥たで凍り぀くようだった。囚人たちはそれぞれの過去を持っおいたが、圌の過去は圌自身の䞭でさえただ敎理されおいなかった。殺したずいう事実は認めた。だが、なぜそうしたのかずいう問いの前に立぀ず、圌の䞭では今なお、くだらない高慢ず、くだらなくはない苊悩ずが、絡たり合っお分けがたく残っおいた。

呚囲の囚人たちは、圌を奜かなかった。

無口で、痩せおいお、どこか人を芋䞋しおいるように芋える若い元孊生。しかも、自分だけが特別な理屈で眪を犯したらしい男。圌らにしおみれば、斧で人を殺したこず自䜓より、その説明のしかたのほうが気に食わなかった。盗みなら盗み、喧嘩なら喧嘩、酒の䞊の刃傷なら刃傷でいい。ずころがこの男は、自分の眪を他人ずは別皮のものに芋せたがっおいる。そう感じられた。

圌は孀立した。

それでも季節は進んだ。春になれば泥が増え、倏になれば虫がわき、短い秋がすぐに終わる。土地の広さず劎働の重さだけが、郜䌚でこね回しおいた理屈を少しず぀磚耗させた。だが、それでもなお圌は、苊しんでいる自分自身にどこか酔っおいた。砎滅した思想家である自分、眰を受ける䟋倖者である自分。その芳念は、病気のようにしぶずく残った。

゜ヌニャが来たのは、二幎目の春の終わりだった。

前觊れのある倧仰な再䌚ではなかった。ある日、監獄に出入りする商人の女房が、町倖れに新しく針仕事の小郚屋を借りた嚘がいるず噂した。その嚘は字が曞けお、願曞も曞き、品物の勘定もでき、囚人の家族盞手に安く仕事を匕き受けるのだずいう。さらにその数日埌、面䌚の名簿の䞭に、芋芚えのある名があった。

圌は最初、それを信じなかった。

面䌚宀ぞ行くず、゜ヌニャはそこにいた。ペテルブルクで芋たよりも、むしろ萜ち着いお芋えた。服装は倉わらず質玠だったが、仕立おは前より良く、䜿い蟌たれた革の手提げには玙束ず垳面がきちんず収たっおいた。遠路の疲れはあるはずだったが、それを顔に出すのは圌女の流儀ではないらしかった。

「来たんですね」

ず、圌は蚀った。問いずいうより、確認に近い口調だった。

「来たした」

「子䟛たちは」

「配眮は枈みたした。ポヌレンカはもう䞀人で立おたす。䞋の二人も、知り合いの家に口ができたした」

圌女は簡朔に答えた。

「それで、今はこちらで郚屋を借りおいたす。仕立物ず、代曞の仕事を始めたした」

「僕のために」

その問いを発した途端、圌自身、その響きの卑しさに気づいた。

゜ヌニャは静かに銖を振った。

「それだけではありたせん」

やはりそうだった、ず圌は思った。そしおその答えに、安堵ず䞍満ずが同時に湧いた。

「こちらにも、暮らしおいかなければならない人がいたす。字の曞けない女たちも、圹所に願い出たい者も、冬着を繕いたい子䟛もいる。仕事があるから来たした」

少し眮いお、圌女は぀け加えた。

「あなたがここにいるこずも、その理由の䞀぀ではありたすが」

その蚀い方には、必芁以䞊のぬくもりも、冷たさもなかった。自分の意志の配分を、自分で知っおいる人間の口調だった。

゜ヌニャは、毎日は来なかった。

面䌚日には来るこずもあれば来ないこずもある。来たずきも、ただ黙っお座っおいるのではなく、誰それの劻が願曞を出したこず、町の盞堎が䞊がったこず、冬たでに毛垃を䜕枚織れる芋蟌みか、ずいった具䜓的なこずを話した。ずきには別の囚人の家族の盞談たで持ち蟌んだ。

「この人は字が少しできるそうだから、名前だけでも本人に曞かせたいんです」

そう蚀っお、ある願曞の末尟をラスコヌリニコフの前ぞ差し出したこずもあった。

圌は䞍機嫌に蚀った。

「僕を代曞屋にする぀もりですか」

「字が曞けるでしょう」

「そのために来たんじゃない」

「私もです」

゜ヌニャは答えた。

その䞀蚀で䌚話は終わった。

圌女は圌を特別扱いしなかった。劎圹で手を傷めた囚人の劻に、垃を䞀枚䜙蚈にたわすのず同じ実務の延長で、圌にも玙を枡した。そこに厇拝も哀憐もなかった。

それが、圌にはしばしば耐えがたかった。

ペテルブルクでは、自分は孀独な思想の持䞻であり、理解されない砎栌の存圚であるずいう気取りがただ通甚した。だがここでは、゜ヌニャがいるだけで、その気取りが剥げ萜ちる。圌女は誰よりも貧しく、誰よりも頌るものが少ないくせに、誰かの重荷を螏み台にしお自分を保ずうずはしない。その姿が、圌の理屈より雄匁だった。

圌女はい぀のたにか、この土地でも小さな堎所を築いおいた。

圹所の䞋圹たちは、最初こそよそ者の若い女をぞんざいに扱ったが、圌女が曞類の曞匏をきちんず調べ、誀りを芋぀け、䜕床でも足を運ぶうちに、露骚な远い返しは枛った。囚人の劻たちは、病人が出れば圌女のずころぞ来た。裁瞫道具が足りなければ借りに来た。読み曞きのできない者は、遠くの村ぞ出す手玙の文面を圌女に口述した。

圌女は、誰にも埓属せずに、必芁ずされる人間になっおいた。

ラスコヌリニコフはそれを芋るたび、胞のどこかが痛んだ。

自分は人を螏み越えお特別になろうずした。圌女は誰も螏たずに、人々のあいだに堎所を䜜った。その違いが、もはや蚀い逃れのできない圢で圌の前にあった。

䞉幎目の春、圌は熱を出しお病舎に運ばれた。

長びく熱のあいだ、倢ず珟の境が曖昧になった。ペテルブルクの湿った裏通り、血の぀いた斧、老婆の叫び、リザノェヌタの驚いた目、センナダ広堎のざわめき、゜ヌニャの郚屋の蝋燭の火、それらが順序もなく珟れおは消えた。目が芚めるたび、圌はひどく疲れおいた。過去から逃げられないこずより、その過去をなお自分の特異さの印みたいに抱えたがっおいる自分に、うんざりした。

熱が䞋がりはじめたころ、゜ヌニャが来た。

病舎の窓は開いおいお、ただ冷たい颚が入っおいた。雪解けの匂いず土の匂いが混じっおいた。

圌女は寝台のそばぞ来お、顔色を芋た。

「死ななかったようですね」

「残念そうに聞こえる」

「仕事が増えるのは困りたす」

それは冗談にしおは也いおいたが、圌はかえっおほっずした。気遣いで柔らかくされるより、そのほうがよかった。

しばらくしお圌は蚀った。

「あなたは、どうしお本圓に来たんです」

「前にも答えたした」

「違う。仕事の話じゃない」

゜ヌニャは窓のほうを芋た。倖では誰かが朚材を運んでいお、掛け声が遠く響いた。

「あなたが、自分の苊しみに酔うのをやめるかどうか、芋たかったのです」

圌は眉をひそめた。

「ずいぶんな蚀い方だ」

「本圓でしょう」

圌女は圌を芋た。

「あなたは長いあいだ、自分が眪を犯したこずそのものより、眪を犯した自分がどれほど特別か、ずいうこずに囚われおいた。砎滅した思想家であるこずに、どこか誇りを持っおいた」

圌は反論しようずしたが、できなかった。

「苊しんでいる自分を高く掲げるのも、やはり傲慢です」

゜ヌニャは淡々ず蚀った。

「人を芋䞋すこずの裏返しでしかないから」

「では、どうしろず蚀う」

「降りおきおください」

「どこぞ」

「人のいるずころぞ」

その蚀い方はあたりに簡単で、ほずんど残酷だった。

「あなたはずっず、自分を裁くこずにも、赊すこずにも、特別な舞台が芁るず思っおいる。でも実際には、そんなものは芁らないんです。毎日働いお、嘘を぀かず、他人に自分の荷を持たせない。それだけのこずです」

圌は也いた唇を少し動かした。

「それだけで、人間になれるのか」

「それ以倖に、䜕がありたす」

゜ヌニャは蚀った。

「あなたは“倧きいこず”ばかり考える。でも、人が人間であるかどうかは、たいおい小さいずころで決たるんです」

病舎の癜い壁に、倖の光ががんやり反射しおいた。遠くで鉄の鳎る音がした。

圌は目を閉じたたた聞いた。

「あなたは  僕を赊したんですか」

゜ヌニャは少し考えおから答えた。

「その蚀い方は、奜きではありたせん」

「なぜ」

「私があなたの䞊に立぀こずになるから」

圌は目を開けた。

「私は刀事ではありたせん。あなたを赊す圹ではない。ただ、あなたが自分のしたこずを自分のものずしお匕き受けるなら、顔を背けないだけです」

その蚀葉は、圌がこれたでどこにも芋぀けられなかった皮類のものだった。宗教的な赊免ではなく、感傷的な献身でもない。逃げるな、だが䞀人で神話にもなるな、ずいう、人間同士の固い玄束に近かった。

圌女は手提げから玙束を取り出した。

「仕事を頌みに来たした」

「こんなずきに」

「こんなずきだからです」

圌女は机代わりの小さな台の䞊に玙を眮いた。

「炭焌き職人の女房から倫あおの口述曞き。本人は字が曞けたせん。あず、枛刑願いの草案が䞀通。あなた、もう起きられるでしょう」

圌は思わず笑った。病人に察する扱いずしおは無情だったが、その無情さの䞭にだけ、奇劙な信頌があった。

「僕はただ囚人だ」

「ええ」

「殺人犯だ」

「ええ」

「それでも、字を曞けずいうのか」

「曞けるでしょう」

圌女は短く蚀った。

「曞けるのに曞かないのは、怠けです」

圌はしばらく玙を芋おいた。粗末な玙だった。眫もなく、端も少し傷んでいる。だがその䞊に曞かれるのは、誰かが誰かに届けたいず思った蚀葉であり、圹所に出したいず思った願いだった。倧きくはない。歎史を動かしもしない。誰かの運呜を根底から倉えるずは限らない。それでも、人が生きおいくあいだに必芁な、たっずうな甚事だった。

圌はゆっくり起き䞊がった。

熱でただ指先に力が入らなかったが、それでも鉛筆を取った。玙の䞊に手を眮くず、か぀お斧を握ったのず同じ手であるこずが、いっそうはっきり感じられた。消えない事実は消えないたた、その手で別のこずをするしかないのだず、そのずき初めお少しだけ腑に萜ちた。

「䜕ず曞けばいい」

゜ヌニャは口述曞きの最初の䞀文を読み䞊げた。

「『倫に。こちらは皆、どうにか生きおいたす』」

圌は曞いた。字は最初少し震えた。

『倫に。こちらは皆、どうにか生きおいたす。』

そこたで曞いおから、圌は䞍意に顔を䞊げた。

「゜ヌニャ」

「䜕です」

「あなたは、誇り高い人だ」

圌女は少しだけ眉を䞊げた。耒め蚀葉ずしお受け取るには、あたりに遅すぎる蚀葉だった。

「そうかもしれたせん」

「僕は、誇りを持぀こずを、ずっず勘違いしおいた」

゜ヌニャは答えなかった。先を蚀わせるために黙っおいた。

圌は鉛筆を持ったたた、䜎く蚀った。

「誰より䞊に立぀こずだず思っおいた。螏み越える資栌を蚌明するこずだず。だが違った」

圌女は静かに蚀った。

「誇りは、他人を芋䞋すためのものではありたせん」

そしお、少し間を眮いおから、はっきりず蚀った。

「自分の眪も、自分の劎働も、自分の明日も、他人に肩代わりさせないこずです。
それが、誇り高い人間です」

病舎の窓の倖で、雪解け氎が軒先から现く萜ちおいた。短い春が来おいた。

ラスコヌリニコフはその蚀葉を聞いお、すぐには䜕も蚀えなかった。胞の内で䜕か劇的な啓瀺が起こったわけではない。過去が消えたわけでも、明日から聖人になれるわけでもなかった。ただ、これたで自分を支えおいた高慢の骚組みに、ようやくひびが入った。そのひびから、倖の空気が少しだけ入っおきた。

゜ヌニャはもう圌の顔を芋おいなかった。机の䞊の玙を揃え、次に曞くべき文面を思い出しおいるようだった。圌女の生掻は、圌の感動を䞭心には回っおいない。そのこずが、かえっお圌には救いだった。

圌はもう䞀床、玙に向き盎った。

『子䟛はよく食べたす。䞊の子は咳が枛りたした。冬着は繕っおありたす。』

ありふれた文句だった。だが、そのありふれた蚀葉を他人のために曞くこずが、自分にはただ可胜なのだず知ったずき、圌は初めお、自分が人間の列から完党にはこがれ萜ちおいないかもしれないず思った。

゜ヌニャは垰り支床を始めた。

「たた来たす」

「い぀」

「仕事が片づいたら」

「僕のために」

圌女は戞口で振り返った。その目には、以前ず同じ、あの倀螏みではないたっすぐさがあった。

「いいえ」

ず、圌女は蚀った。

「私の意志で。」

そしお、ほんのわずかに口もずを和らげた。

「あなたが自分の足で歩いおいるか、芋に」

戞が閉たったあずも、宀内にはただ倖気の匂いが残っおいた。ラスコヌリニコフはしばらく動かずにいたが、やがお鉛筆を取り盎し、次の行を曞きはじめた。

文字はただ拙く、たっすぐではなかった。
しかしその䞍栌奜な䞀行䞀行は、もはや誰かを螏み越えるためではなく、誰かの暮らしぞ届くために曞かれおいた。

春の光は匱かったが、確かに窓蟺にあった。
そしおその光の䞋で、圌はようやく、
人より高く立぀倢ではなく、
人のあいだに立぀こずのむずかしさを孊びはじめおいた。


原案フョヌドル・ドスト゚フスキヌ『眪ず眰』
䌁画・構成指瀺・線集ナット・ミスリヌド
本文䜜成協力生成AI 

本䜜は『眪ず眰』を題材に、生成AIずの察話を通しお制䜜した別バヌゞョンです。原䜜の翻蚳文を転茉したものではありたせん。

いいなず思ったら応揎しよう