朝井リョウ、村田沙耶香と、踊る読書家たちの祭り
ここ数日、Xを見ていると、やけに小説家の名前がよく流れてくる。
流れてくる、というより、排水口に引っかかった何の野菜かもわからない葉っぱの感じに近い。目で追うつもりはないのに、またそこにある。日本の現代文学がつまらない。芥川賞が悪い。よく見るやつである。
こういう話題はよく伸びる。文学の話だから伸びるのではなく、「よくわからないものを、わからないままで殴っていいのか」という空気が伸びるのだと思う。
現代文学、芥川賞、話題作、SNSで持ち上げられている小説。そこには、触ると少しだけ自分が賢く見えそうな持ち手がある。だから俺もちょっと持ち手を握ってみることにした。
元の投稿では、現代日本作家の作品をいくつか読んだが、訳がわからないくらい面白くない、という読書家の嘆きだった。朝井リョウも村田沙耶香も遠野遙もつまらない、と。
そこに夫の「芥川賞が悪いんじゃね?」が入り、綿矢りさの名前が出てくる。夫婦の会話としてはかなり速度がある。台所の流しに置いた皿が、洗われる前に文学史の審判を待っている。
その後、補足として作品ごとの感想も出ていた。
朝井リョウの『イン・ザ・メガチャーチ』については、事象や問題をきれいに小説へ写し取った卒業論文みたいで、勉強している感じはあるが、作者自身がその世界で踊っていない気がする、という趣旨だった。
村田沙耶香の『世界99』については、設定やテーマは多いが、人物が薄く、文章の密度が低く、心情の変化が飛ぶ、というような話だった。
なるほどと思うところはある。とくに「踊っていない」という言い方は、批判としてかなり面白い。
小説を読むとき、たしかにこちらは踊っている人を見たいのかもしれない。きれいな見取り図ではなく、床を踏む時の足の乱れが見たい。
作家は基本的に運動神経が悪い。だから少し動くだけで汗が垂れる。袖が引っかかる。音に遅れる。誰かにぶつかる。
そういうものがないまま、祭りの風景だけを説明されると、こちらは屋台の裏で発電機だけ眺めている気分になる。
ただ、このあたりの話は少し慎重になった方がいい。小説の作者が本当に踊っているかどうかは、読者には見えないはずだ。
見えているのは、踊っているように見える文章か、踊っていないように見える文章か、せいぜいそのあたりである。
作者が泥の上に正座して全文書いていたとしても、文章が乾いていれば乾いて見える。逆に、机の前で冷静に作っていても、文章だけが妙に跳ねていることもあるのだと思う。
だから「作者が踊っていない」は、正確な診断というより、読後に残った温度の言いかえなのだろう。
そういうことなら、俺にもなんとなくわかる。
たとえば、最近の小説が、社会で話題になっているものを丁寧に取り込む。推し活、消費、承認、属性、分断。そういう言葉が舞台の上に並ぶ。
どれも大事なテーマだ。大事なものは、きちんと扱わなければならない。きちんと扱うためには、資料が増える。結果、よくできているものが出来上がる。
そこまでならいいけれど、よくできているものは、ときどき弁当の仕切りみたいなものをどこかに残している。俺は便利だと思うが、それを美しいと思わない人がいても不思議ではない。
村田沙耶香についての批判も、文章が薄い、人物が一元的、テーマが深まりきらない、という方向だった。これも、そう感じる人がいるのはわかる。
村田作品は、世界の異常を異常なまま転がすというより、異常を平たい声で運ぶところがある。そこを冷たくて怖いと感じる人もいれば、単調で薄いと感じる人もいる。
読書とは、文学とは、みたいな話をする前に、生きているというのは、同じ鍋を前にして、出汁が出ていると言う人と、水っぽいと言う人が向かい合う行為でもある。
ただ、投稿者が三島由紀夫の『春の雪』と併読していた、という情報は少し面白かった。
それはもう、蕎麦を食べながら隣に巨大な懐石料理を置いているようなものではないか。
蕎麦が悪いわけではない。巨大な懐石料理も、毎日食べると胃が変な方向へ育つ。
三島の文章は、ひとつの文に泥と刃物と香水が入っているようなところがある。そこで目を慣らしてから、現代小説の文へ戻ると、部屋の照明を急に白色LEDにされたみたいに感じることは、当然あると思う。
それでも、文章が平たいことと、文章が薄いことは同じではない。これだけは言っておかないと、俺たちは何も書けなくなってしまう。
平たい文章にも、平たいまま底が抜ける瞬間がある。逆に、濃い文章にも、濃いだけでそれほど奥へ進まないものがある。
文章の密度は、漢字の量や修辞の上手さだけでは測れない。たぶん、どれだけ逃げられない場所まで連れていかれたかで決まる。
ここで、「現代文学がわからない」という言葉に戻る。
散々偉そうなことを言ったが、俺は『世界99』も『イン・ザ・メガチャーチ』も読んでいない。遠野遥については一冊も読んだことがない。
わざわざ書くのも失礼だとは思うが、俺は熱心な読書家ではないし、好き嫌い以前に先に積んだ本があるだけとは一応言っておく。
村田沙耶香も朝井リョウは、何冊か読んだものもある。良いなと思ったし、そのうちまた手に取るのだと思う。
けれど、その二冊については手が伸びていない。その癖、それらをめぐる暴言のなすり付け合いみたいなところに手を突っ込んでいる。
これはかなりよくない態度だと思う。実際、褒められたものではない。
ただ、読んでいない本のタイトルだけが、勝手にこちらの中で動くことがある。
『イン・ザ・メガチャーチ』というタイトルを見ると、まず巨大な礼拝堂を思い浮かべる。けれど、たぶんこれは宗教施設そのものではない。
現代の何かが、礼拝堂の構造をしている寓話的な話なのだろう。
人が何かを信じる時、その対象が神でなくても、建物だけはできてしまう。椅子が並び、照明が当たり、拝む位置が決まり、賽銭箱の代わりにサブスクのボタンが置かれる。
もし俺がこのタイトルで書くなら、主人公は巨大ショッピングモールの地下にある礼拝所で働く清掃員にする。
そこでは毎朝、推しのアクリルスタンドが祭壇に無数に並べられ、信者たちは自分の性格診断結果を小さな紙に印刷して奉納する。
司祭はいない。代わりに、毎時ちょうどに自動音声が流れる。
あなたの好きは、祈りでもあります。
かなり嫌な施設である。けれど、本当にあったら少し行ってみたい。
礼拝堂の隅には、誰にも推されていない地下アイドルのポスターが貼られている。
主人公は毎晩それを剥がそうとして、剥がさない。剥がさない理由は自分でもわからない。
たぶん、剥がす、外す、という行為そのものが、彼、彼女にとって俺たちの想像を超える意味を持っている。
朝井リョウが実際にどんなものを書いたのかはわからない。
けれど、なんとなく、卒業論文みたいな筆致と揶揄されることも小馬鹿にしている気がしないでもない。
根拠はない。なんとなくである。
『世界99』というタイトルも、タイトルだけでかなり働き者だ。
百ではなく九十九、つまり、ひとつ足りない。完成しない数字である。世界が九十九個あるなら、最後のひとつはどこへ行ったのか。あるいは、百個目だけしか存在しない世界の話かもしれない。
中身はラロロリン人とかピョコルンとか、そういう固有名詞が出るらしい。読んでいないので正確なことは言えないが、名前だけ聞くと、世界の方が少し柔らかく壊れている感じがある。
もし俺が『世界99』を書くなら、九十九個の世界を管理する古い公営住宅の話にする。
各部屋には、ひとつずつ世界が入っている。101号室は水曜日だけ時間そのものが魚になる世界。203号室は全員が自分の母親を番号で呼ぶ世界。305号室は靴下だけが老いを引き受ける世界。
管理人は九千九百九十九歳の女性で、毎朝ゴミ置き場に捨てられた各世界の破片を分別する。燃える世界、燃えない世界、資源になる世界。
そして、いよいよ最後は百番目の世界の話になる。そこには誰も住んでいない。存在するかすらわからない。そこに入った人間は、自分が読者だったことを忘れるからだ。
かなり面倒くさい小説である。だが、村田沙也加ほどの作家になると、こんなに大袈裟じゃなく、もっとしれっと面倒臭い世界を構築していそうでもある。
妄想だけを押し付けるのも申し訳ないので、一応あらすじを読む。
やっぱり俺の考えたものよりおもしろそうだった。プロはすごいんだな、とあらすじの時点で負けた気分になってしまった。
彼らプロの作家は、あらすじの時点で凡百のアマチュアを蹴飛ばしてしまう。
現代文学がわからない、という言葉には、たぶん二種類ある。
ひとつは、本当に合わなかったという意味。文章が入ってこない。人物が動いて見えない。問題提議だけが椅子に座っている。そう感じることは誰にだってある。
もうひとつは、わかりたいと思っていた形では渡されなかった、という不満である。
肉を頼んだと思ったら、皿の上に豆腐が置かれていた。踊りを見にきたら、踊り方の研究ノートを手渡された。
怒るほどではない。けれど、とにかく口の形が合わない。受け取ろうとしていたものと、こちらへ差し出されたものの味付けもカロリーも色も全部が違う。
その時、人は大抵「いらない」と言う。言い方は強いが、内側では、ただ食い損ねた腹が少し鳴っているだけなのかもしれない。
つまり、人は現代文学がわからないと嘆く前に、地下礼拝堂や九十九個の世界を自分の中に飼っている。
そういうところに無理やり何かを詰め込もうとするから話が拗れてしまう。
古い喫茶店の隅に、家電量販店のマッサージチェアが一台だけ置かれているようなものだ。
便利なのはわかる。座れば癒されるのかもしれない。けれど、革張りの椅子とくすんだ壁紙と、長年そこに染みた煙草の気配は、その機械をまだ身内として認めていない。
たぶん、文学がわかるとか、わからないとかいうのは、その程度のことでもある。
結局、日本の現代文学がわからないというのは、結局は合う合わないの問題だと思う。
正直に言うと、俺は合わない寄りの人間だから、一連のポストに共感する部分はあった。
だからこそ、あれだけ正直な批判には「何かある」と勘繰ってしまう。
合わないならさっさと帰ればいい。ただ、投稿者は帰る前に文句を言いたくなってしまった。
たぶん、それも真摯な読書なのだと思う。あとになって「あの一行に、どこまでの奥行きがあったんだろう」と考えてしまうのは、真面目すぎて少し心配な態度でもある。
それこそが読書という言い方もできる。けれど、同時にちゃんと読みすぎたという言い方もできる。
読書は感動や衝撃だけではなく、そういう面倒な残り方もする。
要するに、件の投稿者は存分に日本現代文学を堪能した。揶揄するわけではなく、俺はかなり真面目にそう思っている。
理解されないまま閉じられた本は、負けた本ではない。誰もが認める駄作というなら話は別だが、ああいう作家になってくると、読んだ人の生活の中に置き場所が見つからなかった、くらいの話なのだと思う。
そう考えると、「一生分からんでいい」と言い切ることさえ、少しだけ小説の続きに見えてくる。
読書とはそういうものだと思う。言い切ることはできないけれど、小説は好きなだけ主観をぶつけられる相手としてこの世に存在している側面はある。
本が読まれない時代だと言われている。言われているわりに、ひとたび火がつくと、文学のまわりにはこれだけ人が集まる。
悪口、反論、擁護、便乗、感想、学級会、遠巻きの見物。全部まとめて見ると、文学のほうも少し照れながら、「まだそんなに俺のことで騒ぐのか」と鼻の下をかいているんじゃないか。
もちろん、名前を出されて批判された作家からすれば、たまったものではないだろう。
勝手に祭りの真ん中へ引っ張り出されて、知らない人たちに胴上げと石投げを同時にされているようなものだ。
ただ、あの人たちはたぶん、その石の重さまで覚えておいて、いつかエッセイか小説の中で別のかたちにしてしまう。そういう期待をしてしまうくらいには、こちらも読者として甘えている。
この一件は、「踊っていない」という言葉から始まった祭りだった。
読書好きなんて、だいたい面倒くさい。好きなものを貶されて怒る人。自分の読みを信じて疑わない人。批判を批判する人。批判の仕方を批判する人。そして俺のように、結局は祭りの灯りに吸い寄せられて、屋台の端で焼きそばを食っているだけのやつ。
踊っていない小説のまわりで、ずいぶん多くの人が踊っていた。
俺はうまく踊れていたろうか。運動神経には、昔からあまり自信がない。
