『狂い咲く、フーコー』──重田園江先生による一撃(その7)
その7。
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本記事では、中井亜佐子による反論の内容の検討に入る。
読者の皆さんに分かりやすくするため、以下、重田園江が示した論点に対応するように中井からのレスポンスの要旨を記すとともに、それに対する私なりの見解を示すこととする。
論点1
重田の主張の要旨
ウェンディ・ブラウンの著書のうち少なくとも『いかにして民主主義は失われていくのか』(中井亜佐子訳)については、フーコーを矮小化した上で自らはその先を行っているように見せる手法が用いられ、顧みる必要を感じない。
中井の主張の要旨
中井の論文は、ブラウンがフーコーより先を行っていると主張するものではない。また、ブラウンがフーコーを矮小化しているとも思われない。学術的な批判を個人の卓越性競争のレヴェルで捉えるのは不毛である。
筆者の見解
私はブラウンの著書を読んだことがないため、その内容について踏み込むことはできないが、基本的にこの論点については、ブラウンの著書に対する両者の評価の違いでしかない(即ち、一方が正しく、もう一方が誤っているというものではない)。
一点だけ、「学術的な批判を個人の卓越性競争のレヴェルで捉える」ことについて述べてみたい。
重田としては、卓越性の競争という観点でブラウンの著書におけるフーコーの扱いについて述べたものではないと思われる。
重田自身が「よくある「藁人形的」な手法」(『狂い咲く、フーコー』p.29)と形容しているとおり、それはある思想家を批判的に論じる場合に往々にして用いられるものであるが、それはどちらが卓越しているかを争っているものではなく、単に、批判的に取り上げられている思想家(ブラウンの著書においてはフーコー)を乗り越えるべきものとして扱っているに過ぎない。
したがって、重田としては、卓越性の争いという観点でみているのではなく、フーコーがブラウンの著書において不当に矮小化されていること(ないし、それによってブラウン自身の思想をより進歩的なものと見せるその方法)自体を問題視しているものと思われる。
実際、ヘーゲルの弁証法を持ち出すまでもなく、ある思想家のテーゼに対しては何らかの批判的検討がなされなければ、当該思想家についての学術的研究には進歩がないのであるから、ある思想家の思想が乗り越えられるべきものとして批判的著作の中で取り上げられ、かつ、それを乗り越えるようなアンチテーゼ(及びジンテーゼ)が述べられるのは普通のことである。
当該思想家を不当に矮小化し、かつ、それにより著者自身の思想をより進歩的に見せようとする手法は、重田によれば「よくある」ものであるのだが、それは手法が問題であるのだと重田は主張するのであって、卓越性の競争という観点は普通は関係ないと思われる。
(その8に続く)
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(本記事においては、タイトル中の記載を除き、敬称略とさせていただいております。よろしくお願いします。)
