#1|聞き書き|88才祖父|生きるのに必死だから
聞き書きの醍醐味は、語り手の珠玉の一言を聞けたときです。
ここでの珠玉という意味は、単に珍しく面白い内容の話というだけではありません。
なにかを感じたとき、経験したとき。
それをその人ならではの表現で、思わず口からこぼれ落ちてしまうようなこと。これを聞けたときには、もうそれだけで、うっとりしてしまいます。
祖父の聞き書きの中から、私のお気に入りの箇所を抜粋します。
おじいちゃんのことをよく知らないって?
そうか。まぁ、オレもあんまり自分のことを家族に言わんからな。
でも、亡くなった女房は全部わかっているけんな。
話し始めの冒頭。
祖父が祖母のことを女房と呼び、驚きました。
いつも家ではおばあちゃんと呼んでいるのに。
つくった川柳はたくさん雑誌に掲載されただよ。
ペンネームは彦ちゃん。
例えば、これを見てごらん。
「失敗だ 叫んだボールが ホールイン」
昭和を代表する頑固一徹、厳格な祖父がとても可愛げのあるペンネームで川柳の賞レースを総なめしており、思わずにっこり。
オレが昭和12年生まれで、良蔵兄さんが戦死したのが昭和14年。
良蔵兄さんの記憶かい?オレには全くない。
良蔵兄さんが戦地に出征することになったときに、オレが生まれた。
良蔵兄さんには横っ腹のあたりにあざがあるんだが、なんと、オレにも全く同じ場所に同じ形のアザがあったんだ。
えらいことがあるじゃんな。
そしたら、良蔵兄さんがおふくろに「俺の生まれ変わりだから大事に育ててくりょ」といっただと。
小説のようなはなし。だけど事実。
「えらいことがあるじゃんな」と、いったときのまんまるになった祖父の目を忘れられません。
焼夷弾の落ちるときは、ひゅゅゅうなんていう音がするさ。
お父さんにね、あれはすごい音がするね、なんていったら、
「あれは絶対大丈夫だ。俺たちの上を通っているから音がするだよ。直接当たるときは音がしない。だから音がしている間は大丈夫だ。」
焼夷弾の落ちるときの独特のオノマトペ。実際に生で聞かないと出てこない。あと、お父さんの生々しい知識。
家の隣にお寺があったんだけど、そこへ爆撃で亡くなった人をトラックで運んできて捨てるわけ。それで山になっちもうわけだ。死体が。ながあいトタン板の上に死体を乗せてその上にまた、トタン板を敷いて死体を乗せて・・・
ほいでね、あるとき死体の山から赤ん坊の泣き声が聞こえてきたんだよ。
生きた赤ん坊を負ぶっている女の人を投げちゃったわけだ。
想像を絶する光景。きっとそのときの赤ん坊の泣き声は今でも覚えているだろうか。赤ん坊はすぐに救い出されたようです。
もく拾いっていってタバコの吸い殻を拾い歩いた。そして、それを剥いて葉っぱだけをまとめて出すっちゅうわけ。
そして、買ってきた紙とこれくらいの巻く機械でまた、タバコを作り直すだ。それを売るだよ。どんな味がするか知らんけど。
この話をするとき、祖父は意外と明るい表情をしていました。
戦争中ではあったものの、父や兄と懸命に生きていた時間がかけがえのない時間だったからかもしれない。
昔、家の近くの公園では鯉を飼っていた。
それで親父と鯉を釣りに行くわけだ。食うもんがねぇだから、食うためよ。
こうもり傘があるじゃん。傘から糸を通して、投げて。鯉なんてすぐ食うだから、引っ張って鯉を傘の中に入れてしまうだよ。
そうしたら、周りにばれんだから。公園の鯉を盗むってこんだもん。
みんな食うもんがないから知恵を出して生活していたよ。
父親のことはこのあたりから「親父」と呼ぶようになっていきます。
ここでは、祖父は最高に悪い顔をしていました。
ただ、こうやってオレは生きてきたんだぞ、と自身に満ち溢れた表情をしていました。
親父は息子を二人とも24才で亡くした。
だから親父は、パチンコにいったとき、24番の席は絶対に使わなかった。
銭湯へ行っても下足番には絶対に24番には入れなかった。
親父は、オレには亡くなった2人のお兄さんの話は一切しなかった。
良蔵兄さんが亡くなったそのあと、軍の偉い将校が実家に訪問にきた。
その時は町のひとも集まった。昔はね、戦死したひとの家の前には墓標が建っていた。実家の前には兄さんの墓標があってね。
そして、歩いているひとが墓標の前に来ると立ち止まって頭を下げていくんだ。
7人もいる兄弟の中で、良蔵兄さんの話はとくに多かったです。
実家はお菓子屋さん。
当時、穀物を売るのは違法だった。配給でなきゃないだから。
だけんども、売れば売れるわけ。
配達はオレが自転車でしていた。警察が怖くなかったかって?
そんなことは考えちゃいんな。生きるのに必死だから。
「生きるのに必死だから」
こんな重い言葉を飄々といってのけます。
その頃から餅つきも機械化し始めたんだよ。ただ、家にはお金がなかったから機械が買えなかった。だから杵でついていた。だけど、餅は杵でついたほうがうまいだ。そうしたらお客がだんだん増えちゃった。ハハ。
実家のお菓子屋ではお餅もつくって売っていたようです。
偶然の成り行きでお店が繁盛。祖父なりのユーモアが増えてきます。
この流れを汲んで、我が親族では毎年の暮れには、祖父を囲み臼と杵で餅をついています。
餅は、12月27、28、29、30日と四日ぐらいつくんだ。ただ普通は苦餅といって、29日は餅をつかんだよ。縁起がよくないから。だけど、29日についた餅もオレが配達にいくわけだ。
お客からは、どうしてこんなに早くつけるだと聞かれ、昨日つきましたっていうと、それは苦餅じゃんけ!と怒られたわけだ。
家に帰って親父にいうと、
「いいけえせ、それは苦餅じゃなくて、福餅だ」って。ハハハ。
この話は最高に面白くてお気に入りです。
焼夷弾のときもでしたが、祖父の親父さんはなんと肝が据わったお方でしょうか。私にはその血は流れてるとは思えません。
戦時中の話はここまでです。
