練習と遊びの境界線、どこにあるんだろう
「毎日、公園でボールを蹴っています」
それを聞くと、多くの人は「練習熱心だね」と言う。
でも私は最近、ある疑問を持つようになった。
それは本当に"練習"なんだろうか。
「練習してます?」
サッカーをしている親同士だと、よく聞かれる。私も聞く。
「してます」
じゃあ逆に聞いてみる。
「どんな練習してるんですか?」
「近くの公園でボール蹴ってます」
小学生が1人で。指導者はいない。
これ、よく聞く話だと思う。でも私、最近ずっと引っかかっている。
それって、練習なんだろうか。
「ボールに触れてる時間」だけでは、たぶん足りない
指導者がいないことは、問題じゃないと思う。
でも、「今日は何を上達させたいのか」がないままボールを蹴っているなら、それは私の中では"遊び"に近い。
これはあくまで、私が考える「練習」の定義だ。
練習の定義を突くと、こうなる気がする。
できなかったことが、できるようになるための反復。
だとすると、「ボールに触れてる時間」だけでは足りない。触れてるだけなら、それはボール遊びだ。悪いことじゃない。ただ、「練習」という言葉で括るには、何かが欠けている。
私はこう思っている。練習と呼べるかどうかは、次の4つで決まるかもしれない。
目的:今日、何を上達させようとしているか
課題設定:できないことを、本人が把握しているか
反復:同じことを、繰り返しているか
フィードバック:できたかどうかを、本人が認識できているか
この4つが揃っていれば、それは練習だ。1つでも欠けていたら、それは遊びに近づく。
流れにすると、こんな感じだと思う。
目的 → 課題設定 → 反復 → フィードバック → 成長
どこかが抜けると、この矢印は途中で止まる。
指導者がいなくても、練習は成立するかもしれない
ここで1つ、疑問が浮かぶ。
上の4条件のうち、「フィードバック」は普通、指導者が担う役割じゃないのか。
そうかもしれない。でも、指導者がいなくても、フィードバックを別の形で用意できる可能性がある。
記録だ。
昨日できなかったことが、今日できたかどうか。それを数字で追えれば、指導者がいなくても「できた・できなかった」の判断がつく。
回数を数える。時間を測る。結果を書き残す。
それだけで、フィードバックの代わりになるかもしれない。
うちの長男は、リフティングの回数を数字で追っている。100mのタイムも、マラソン大会の順位も、体力テストの結果も、全部記録している。
これは「公園でボールを蹴っている」子と、見た目はそう変わらない。1人でボールに触れている、という点では同じだ。
でも、記録は、フィードバックを得るための一つの方法だ。
遊びを否定してるわけじゃない
ここで念のため言っておきたい。
公園でボールを蹴ることが、悪いわけじゃない。遊びには遊びの価値がある。自由に触れる時間、楽しさそのもの。そこから生まれる発想やセンスは、練習では得られないものかもしれない。
問題は、言葉の粒度だ。
「練習してます」という一言に、遊びも練習も両方詰め込んでしまうと、どっちの価値もぼやける。
遊びは遊びとして楽しめばいい。練習は、練習として設計すればいい。
でも、この2つは対立するものじゃなくて、たぶん地続きだ。
鬼ごっこをしていて、「今日は相手より速く切り返そう」と思った瞬間。リフティングをしていて、「昨日より1回多く続けよう」と思った瞬間。
ただの遊びだった時間に、目的が生まれる瞬間がある。その瞬間、遊びは練習に姿を変えるのかもしれない。
だとすると、「今、自分の子どもがやっているのはどっちなんだろう」と考えるより、「今、目的は生まれているだろうか」と考えたほうが、たぶん近い。
境界線は、自分で引くしかない
「練習してます?」
この質問に、私はもう昔のようには答えられない。
「してます」と即答する前に、今日やったことが、目的・課題・反復・フィードバックのどれに当たるのか、頭の中で確認するようになった。
「今日は何を上達させる?」
「そのために、今の自分に足りないものは何だろう?」
その2つの問いがあるだけで、遊びは練習に変わるのかもしれない。
ちなみに、うちのフィードバック役は父親の私だ。
リフティングの回数、100m走や800m走のタイム、試合でのゴールやアシストなどを記録し、「何が伸びて、何が足りないのか」を一緒に振り返る。
その結果をもとに、次に取り組む練習メニューを考えたりする。
記録は残すことが目的ではない。次の成長につなげるためのフィードバックであり、練習を設計するための材料だと思っている。
