指導を科学化しない教員は要らない

スポーツに関する指導は、この数十年で大きく変わった。

かつては、根性や気合で乗り切る指導が当たり前のように行われていた。

走れ。
声を出せ。
何度も繰り返せ。

理由を問うことは甘えであり、言われた通りにやることが成長への近道だと考えられていた。

しかし今は違う。
トレーニングには意味が説明される。

どの筋肉を使っているのか。
なぜこの動きが必要なのか。
休息を取ることで、どのようにパフォーマンスが上がるのか。
フォームを映像で確認し、データを見ながら改善し、栄養や睡眠まで含めて選手を育てる。

その結果、日本人スポーツ選手の世界的な活躍は目覚ましいものになった。

では、なぜスポーツ指導はここまで科学化したのか。

一つには、子どもが減ったことがあるのだろう。

昔のように、厳しい練習に耐える子どもだけが残ればよいという時代ではなくなった。
どの競技も、子どもに続けてもらわなければ成り立たない。
意味も分からないまま、苦しい練習を一方的に強いれば、子どもはすぐにやめてしまう。
保護者も納得しない。

だから指導者は、説明しなければならなくなった。
この練習にはどのような効果があるのか。
今は苦しくても、どの力につながっているのか。
どのくらい続ければ変化が出るのか。

そうしたことを語れなければ、子どもを指導の場につなぎ止めることができなくなった。

つまり、スポーツの科学化は、単に指導者が賢くなったから進んだのではない。
子どもに説明せずに強いる指導が、通用しなくなったから進んだのである。

ところが、学校教育はどうだろうか。

いまだに、「やりなさい」「大事だから」「今は分からなくてもいい」という言葉で押し切っている場面が少なくない。
漢字練習も、計算練習も、係活動も、掃除も、集団行動も、ただ当然のものとして子どもに求めていることがある。

もちろん、学校には子どもが今すぐ意味を理解できなくても、取り組ませるべきことがある。
すべてを子どもの納得に委ねればよいわけではない。
しかし、だからといって、教員が説明する責任を放棄してよいことにはならない。

なぜこれを学ぶのか。
なぜ今この練習が必要なのか。
なぜこのルールを守る必要があるのか。
なぜ面倒でも続ける価値があるのか。

それを語れないまま、ただ子どもに強いているなら、指導の科学化は進まない。

子どもは、意味の分からない努力に耐えにくくなっている。
それを「今の子は我慢できない」と嘆くだけでは何も変わらない。

スポーツの世界は、その変化を受け止めた。

子どもが納得しなければ続かないなら、納得できるように説明しようとした。
苦しい練習をさせるなら、その価値を言語化しようとした。
成果が出ないなら、練習方法そのものを見直そうとした。

だから指導が更新された。

学校教育にも、同じ姿勢が必要である。

子どもが学習につまずいたとき、「努力が足りない」で終わらせてはならない。

どこでつまずいているのかを見取る。
記憶の問題なのか、理解の問題なのか、見通しの問題なのか、成功体験の少なさなのかを考える。
その上で、どの方法なら前に進めるのかを探る。

生活指導でも同じである。

ルールを守らない子に対して、ただ叱るだけでは不十分だ。
その子にとって、ルールを守る意味が見えているのか。
守らないことで得ているものは何か。
どうすれば守れる条件を整えられるのか。

そこまで考えて初めて、指導は専門的な営みになる。

科学化とは、子どもを数字で管理することではない。
教員の感覚や経験を否定することでもない。

自分の指導を、根拠をもって説明できるようにすることだ。
そして、子どもにも、その意味をできる限り伝えることである。

説明できない指導は、やがて子どもに届かなくなる。
意味の見えない努力は、続かない。
納得のない厳しさは、ただの押しつけになる。
子どもへの指導を、根性論や経験則だけに閉じ込めてはならない。

教員は、自分の指導の意味と効果を説明できるようにするべきだ。

子どもを本当に伸ばしたいのなら、教育こそ科学化しなければならないのである。

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