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「体罰さえしなければいい」で思考を止める教員は要らない

忘れ物、私語、ちょっとした反抗的な態度。
教室ではよくある場面だ。
つい声を強めて指摘する。子どもは黙って下を向く。
その瞬間は、指導が通ったように見える。
けれど教室を出たあと、ふと引っかかる。
今のは、指導だったのか。

令和5年度の公立学校教職員の人事行政状況調査で、これまで公表されてこなかった「不適切指導」による処分の詳細が、初めて明らかになった。
国公私立全体で、2,102人の児童生徒が、処分相当の不適切指導を受けたとされている。

体罰ではなく「指導」という名目のもとで、これだけの数字が積み上がっていたことが、初めて可視化された形だ。

多くの教員に、悪意はないと思う。
子どものためを思って厳しく接している。
規律を守らせることが、結果として子どもを守ることになると信じている。
体罰は絶対にいけないと、自分なりに線を引いてきた。
そのまじめさを、疑うつもりはない。

一部の悪質な教員だけの話ではない。
むしろ、まじめにやっているつもりの教員ほど、この話は遠いところにあると感じているのではないか。

体罰は「してはいけない」という線引きがはっきりしている。
だから多くの教員は、自覚的にそれを避けてきた。
一方で「指導」という言葉には、明確な線がない。
大声を出すことも、威圧的な態度をとることも、長時間説教を続けることも、「指導の一環」という名前がつけば、無自覚に続けられてしまう構造がある。

「体罰さえしなければ問題ない」という認識そのものが、実は次の落とし穴になっているのではないか。

指導と支配の境界は、教員自身にはとても自覚しにくい。
子どもが萎縮して黙っているとき、その沈黙を「話を聞いてくれている」「反省している」と、都合よく読み替えてしまうことがある。

本当は、怖くて何も言えなくなっているだけかもしれないのに。
「自分は体罰はしていない」という自己認識が、それ以上振り返らなくていい理由になってしまう。

体罰をしていないことは、指導が適切だったことの証明にはならない。
けれど、その事実だけで安心してしまう瞬間が、誰にでもあるのではないか。

厄介なのは、この錯覚が悪意からではなく、むしろ真面目さから生まれる点だ。
きちんと指導しなければ、という責任感が強いほど、声は大きくなりやすい。
子どもを正しい方向に導きたいという思いが強いほど、その手段を振り返る余裕は失われやすい。

これは一部の教員が加害的だという話ではない。
多くの人が気づきにくい構造の話として、受け止めたい。

私なら、指導の直後に自分に問う習慣を持ちたい。
今の言い方は、指導だったのか。
それとも、自分の感情の発散だったのか。
子どもが神妙な顔をしていたとき、それを「納得した」と即断せず、「萎縮していないか」を一度疑ってみたい。

正しさよりも先に、自分の声の大きさや語気を振り返る。
それくらい地味な自己点検を、日常の中に置いておきたいと思う。

一度で終わらせず、明日も、来週も、同じ問いを自分に向け続けたい。
振り返りは、一度きりの反省では意味を持たないからだ。

体罰はしていない。
それでも、「指導」という言葉に甘えていないか。

大声も、威圧も、それ自体を全否定するつもりはない。
ただ、それが指導なのか支配なのか、自分に問い続けているかどうかが分かれ目になる。

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