面白がれない教員は要らない【改稿】

教員の仕事は過酷だ。
時間に追われ、書類に追われ、気を遣いながら授業を回し、保護者とも向き合わなければならない。
精神的な余裕を失えば、不満や苛立ちが溜まっていくのは当然である。

そのはけ口は、よく職員室に現れる。
「またあの子が……」
「あの保護者は……」
「うちの管理職は……」
そんなふうに誰かの文句を共有し合うことで、わずかにストレスを和らげているのかもしれない。

だが、全くもってつまらない大人たちである。

そして本当に恐ろしいのは、そういう“つまらない大人たち”が、毎日子どもの前に立ち続けているということだ。

なぜなら、つまらない大人は、日常の中に潜んでいる“ちょっとした面白さ”を見つけられないからである。

子どものふとした一言。
妙に鋭い発想。
思いがけない行動。
普通なら、そこに可笑しみや面白みを感じてもいい。
だが、つまらない大人は、それを面白がれない。
むしろ、「指導すべき逸脱」として片づけてしまう。

その結果、子どもたちは少しずつ“面白がる感性”を手放していく。

空気を読み、叱られないように立ち回り、
型どおりに応じるだけの“無難な人間”になっていく。
そして大人たちは、それを見て
「落ち着いた」
「しっかりしてきた」
などと満足する。

だが、それは本当に成長なのだろうか。

子どもは本来、面白がる天才である。
どんなものにも遊びを見つけ、失敗すら笑いに変える。
その感性こそが、学びを広げ、創造を生み、人生を豊かにする原動力になる。

それを押しつぶしているのは、他でもない私たち大人の“つまらなさ”なのだ。

とはいえ、ここで誤解してほしくない。

面白がることは、何でも許すことではない。
指導を緩めることでもない。
むしろ、感性を生かしながら、場面に応じて適切にふるまえるように育てることこそが、本当の指導である。

ふざけるときは、とことんふざける。
学ぶときは、きちんと集中する。
“面白がる力”を育てるには、そのメリハリを教える力が必要だ。

自由と放任が違うように、
ユーモアと無秩序もまったく別物である。

だからこそ教員は、まず自分自身が、日々を面白がれる人間でなければならない。
しかも、ただ面白がるだけではなく、節度と軸を持った指導者でなければならない。

「おもしろい」と思える心があれば、日常のほとんどすべてが教材になる。
子どもの失敗も、言い間違いも、予想外の行動も、ただ叱って終わるのではなく、笑いながら意味を見出せば、そこに学びが生まれる。

文句や愚痴に心を奪われている暇があるなら、まず教員自身が“面白がる感性”を取り戻す努力をするべきだ。

子どもたちは、私たちを見ている。
「大人って、面白い」
と思えるかどうかが、子どもたちの未来の感性や表現を大きく左右する。

つまらない大人が、面白い子どもを育てることはできない。
ならばまず、私たち大人が、面白さを見つけられるプロであるべきなのではないだろうか。

子どもの面白さを「指導」で潰すのは簡単だ。
だが、その面白さを残したまま育てるのが教員の腕だ。
それができない大人は、ただの“つまらない管理者”である。

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