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すぐに優しさと結びつける教員は要らない

給食は、残していい。

量は、自分で決めていい。
私はそう決めている。
特に高学年を受け持つときは、これを一つの方針にしている。

理由は、まだ言わない。

この話をすると、たいてい「優しい先生ですね」と言われる。
今どきの配慮だ、無理に食べさせるのはトラウマになる、給食の時間そのものが苦痛になる子もいる。
そういう受け止め方は、世間でもよく聞く話だ。
完食を求める指導から、無理をさせない指導へ。
時代はそちらに向かっている、という空気は確かにある。

しかし、自分の中でこれは優しさではない。

なぜ、完食させなくてもいいと言い切れるのか。

判断基準は一つしかない。「完食できないことに対して、社会に十分な受け皿があるかどうか」。
それだけだ。

社会の受け皿とは、いわばセーフティネットのようなものだ。
保険と言ってもいい。
偏食があっても、少食でも、大人になってから本当に困らないだけの理解や選択肢が、すでに社会の側に用意されている。
だとすれば、教室でもう一本、同じ場所に縄をかける必要はない。
すでに安全網が張られているところに、あえて厳しさを重ねる意味がない。
ただそれだけの、合理的な判断だ。

同じ物差しを、私は能力の凸凹には逆向きに使っている。

時間内に作業が終わらない子。
書くことが極端に苦手な子。
彼らには、基準を下げない。
むしろ、限界まで頑張らせる。

理由は同じで、こちらにはまだ社会の受け皿が十分にないからだ。
試験なら不合格。
契約なら違反。
社会は、そこに給食ほどの優しさを持ってはいない。

給食は緩める。
能力の凸凹は緩めない。

一見、矛盾しているように見える。
でも根っこは一つだ。
優しいか厳しいかではない。
その先に、社会の受け皿があるかどうか。
私が見ているのは、それだけだ。

ただし、緩めることと、何でも許すことは違う。

量を減らすことも、残すことも許す。
けれど、「周りに迷惑をかけない」というマナーだけは、別軸で一切譲らない。
食事中に大きな声を出さない。
不快な物音を立てない。
ここは完食の有無とは関係のない、最低限の一線として指導している。

現場では、こんな話もよく聞く。
量を減らした子の食べ残しを、食欲旺盛な子がもらって食べ続け、体重が増えてしまった、という話だ。

これを大きな失敗だとは、私は思わない。
自分にとってちょうどいい量を見極めることは、誰もが通る自己調整の課題であって、特別に問題視するようなことではないと考えている。

優しいのではない。

ただ、譲る場所と、譲らない場所が、はっきりしているだけだ。


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みん教|学校の「当たり前」を問い直す チップは要りませんので、共感してもらえたのであれば、是非色々な方に広めていただければ幸いです。