罪を憎んで人も憎む教員は要らない

子どもは間違える。
嘘をつくこともある。
友達を傷つけることもある。
約束を破ることもある。
自分の失敗を隠そうとして、さらに問題を大きくしてしまうこともある。

その行為自体は、当然許されるものではない。

悪いことは悪い。

相手を傷つけたなら謝らなければならない。
壊したものがあるなら弁償や修復について考えなければならない。
信頼を失ったなら、時間をかけて取り戻していかなければならない。
教員は、そこで曖昧な態度を取ってはならない。

しかし、悪い行為を憎むことと、その子自身を憎むことは違う。

ここを混同する教員がいる。

一度嘘をついた子を、いつまでも「信用できない子」として見る。
友達とトラブルを起こした子を、「乱暴な子」として扱う。
授業中にふざけた子を、「やる気のない子」と決めつける。

確かに、その子は間違った行動をした。
だが、その行動だけで、その子の人格全体まで裁いてよいわけではない。

子どもはまだ成長の途中にいる。
感情の扱い方も、人との距離の取り方も、失敗した後の責任の取り方も、学んでいる最中である。

未熟だから間違える。
知らないから失敗する。

欲に負けることもあれば、その場の空気に流されることもある。
だからこそ、教員の指導が必要になる。
にもかかわらず、教員がその子自身を憎んでしまえば、指導は教育ではなく処罰になる。

「またお前か」
「どうせ反省していないんだろう」
「前にも同じことをしたよな」

こうした言葉は、行為を正すための言葉ではない。
子どもを過去の失敗に縛りつける言葉である。

その言葉を受け続けた子どもは、自分は変われない人間なのだと思うようになる。
どうせ信用されないなら、もういい。
何をしても同じように見られるなら、努力しても意味がない。
そうして、立て直す機会を失っていく。

教員が憎むべきなのは、子どもではない。

人を傷つける行為であり、責任から逃げる態度であり、学級の信頼を壊す行動である。
だからこそ、厳しく指導しなければならない場面はある。

だが、その厳しさは、その子を切り捨てるためのものではない。
もう一度集団の中に戻すためのものである。

悪い行為をした子どもにも、戻る場所が必要だ。
謝った後、やり直した後、責任を果たそうとした後に、周囲から受け入れられる道がなければならない。

もし出口のない指導を続ければ、子どもは追い詰められるだけである。

反省とは、自分を否定し続けることではない。
自分の行為を見つめ、次にどう変えるかを考えることである。
そのためには、教員が子どもに対して「あなたは変われる」という前提を持ち続けなければならない。

もちろん、簡単に許せばよいという話ではない。
傷つけられた側の気持ちを軽く扱ってはならない。
加害した側を守ることだけを優先すれば、それもまた不公正である。

必要なのは、行為の責任を明確にしながら、その子の人格までは否定しないことである。

罪を憎んで、人を憎まない。

この言葉は、甘い理想論ではない。
教育においては、極めて現実的な態度である。

子どもを憎んだ瞬間、教員はその子が変わる可能性を見なくなる。
変わる可能性を見なくなった相手に、教育はできない。

教員の役割は、子どもを裁くことではない。

間違った行為を正し、責任を取らせ、それでも再び前へ進めるようにすることだ。

悪い行為を見逃さず、同時にその子が立ち直る道を最後まで閉ざさないことが重要である。

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