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教育の境界線|厳しさと威圧⑩ 子どもになめられないよう、怖い先生になってよいですか?

新しい学級を受け持つと、「最初が肝心」「子どもになめられてはいけない」と言われる。

私は、子どもから一度も怖いと思われないことが、よい教員の条件だとは思わない。

守るべき線を越えたとき、いつもと違う表情や強い声で厳しく指導する。その姿を見て、子どもが「この先生は、ここでは本気で怒る」「これ以上は許さない」と感じることはある。その怖さが、行動を止める力になる場面もある。

子どもに好かれたいという思いから注意を弱め、曖昧な笑顔で済ませ続ければ、かえって大人への信頼を失う。教員は友達ではなく、集団と子どもの成長に責任を持つ立場である。必要な場面では、嫌われることや怖がられることを引き受けなければならない。

ただし、「怖い先生になること」を目的にしてはいけない。

厳しい教員は、何をすれば叱られるかが明確である。誰に対しても同じ目的で線を引き、強く叱った後には、直すべき行動と挽回の機会を示す。子どもが改善すれば、関係をいつまでも険悪なままにしない。

これは厳しさである。怖さは基準を守る過程で生じることはあっても、教員自身の価値を高める道具ではない。

反対に、最初から笑顔を封じ、急に怒鳴る、にらむ、皮肉を言う。質問や異議まで「なめた態度」とみなし、教員の機嫌を予測させる。子どもが静かになっても、それは基準を理解したのではなく、目をつけられないよう身を縮めただけである。

それは威圧である。

教員の権威は、優しさだけでも怖さだけでも築けない。言ったことを実行し、間違えれば教員も修正し、失敗した子には挽回を求める。その一貫性が、「厳しいけれど信頼できる」という関係をつくる。

厳しさと威圧の境界線は、必要な怖さを引き受けて明確な基準と挽回の道を示すのか、怖がらせること自体を権威として子どもを支配するのかだ。

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