見出し画像

「泳げるようになった」で、終わる水泳学習は要らない

バスに乗って、子どもたちは学校のプールではなく、少し離れた民間の温水プールへ向かう。

その日の時間割は、体育の1コマではなく、2〜3時間続きの特別な枠になっている。
ちょっとした遠足のような時間割だ。

天候に左右されない屋内プール。
整列した子どもたちは、専門インストラクターの合図に合わせて、クロールを、バタ足を、順番にこなしていく。

授業が終わる頃には、多くの子が「前より泳げるようになった」という満足げな顔でバスに乗り込む。

学校に戻ってからも、しばらくはその話で持ちきりになる。

ここまでは、何の問題もない光景に見える。

だが、その日のメニューには、ある単元が含まれていなかった。

それは着衣水泳だ。
服を着たまま水に落ちたとき、慌てずに浮いて助けを待つための実技だ。
速く泳ぐための練習ではなく、溺れたときに命をつなぐための練習である。

子どもたち自身は、そのことに気づいていない。「泳げるようになった」という達成感だけを持ち帰って、その日の授業は終わっている。

これは、どこか一つの学校だけの話ではない。
校外のプール施設で水泳授業を行っている学校のうち、およそ半数で着衣水泳の指導が実施されていない、という調査結果がある。

背景にあるのは、学校プールの老朽化だ。
多くは1960〜70年代に整備されたもので、建て替えには数億円規模の費用がかかる。
仙台市のように学校プールを廃止し、民間施設での水泳授業に切り替える方針を掲げる自治体も増えており、大津市など先行して実施している学校もすでにある。

専門のインストラクターに教えてもらえるなら、むしろ指導の質は上がるはずだ。
そう感じる保護者や教員は少なくないと思う。
素朴な期待として、それは自然な感覚だろう。

しかし、専門性のある人に指導を任せることと、学校教育としての目的が達成されることは、同じではない。

学校の水泳授業の目的は、泳法を上達させることだけではない。
すべての子どもに、命を守るための力をつけることだ。
指導そのものがどれだけ専門的でも、その目的が授業から抜け落ちてしまえば、「任せた」という事実だけが残る。

なぜこのズレが起きるのか。
教員が実技指導の当事者から一歩引いた瞬間に、「何のための授業か」という問いそのものを、学校側が持ち続けなくなってしまうからだ。

行き先を運転手に任せても、行き先を決めるのは本来、乗客のはずだ。
だが実際には、乗った瞬間に行き先まで運転手任せになってしまうことがある。

この構造は、家庭の経済状況によって、より重くのしかかる子どもがいる。
学校の水泳授業だけが、泳ぎや命を守る術を学ぶ唯一の機会になっている子どもが一定数いる、と専門家は指摘している。

さらに、実技指導の機会そのものが教員から失われていくと、教える側にも変化が起きる。
指導の経験を積めないまま、「泳ぎを教えられない体育教員」が増えていく。
教員が現場に立ち続けること自体に、意味がある。

民間委託そのものを否定するつもりはない。
老朽化した施設で無理に授業を続けることが正しいとも思わない。

だが、「任せる」という選択をするときこそ、何のための授業かを、学校側が手放してはいけない。
目的を決め、それが果たされているかを見届ける責任まで、外部に譲り渡してはならない。

泳げるようになったかどうかは、プールサイドで分かる。
命を守れるかどうかは、もっと後にならないと分からない。

いいなと思ったら応援しよう!

みん教|学校の「当たり前」を問い直す チップは要りませんので、共感してもらえたのであれば、是非色々な方に広めていただければ幸いです。