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『目覚めて主を探る』

 先週はゴールデンウイークで出かけた人も多かったと思います。私も塔ノ岳へ山登りに行くつもりだったのですが、体調を崩してしまい断念せざるを得なくなってしまいました。胃腸をひどく痛めてしまったので何も食べることができず、流動食のようなもので1週間を過ごしました。胃腸を休ませる必要があったのです。
(バイブルクラスもお休みとさせてもらいました)
強制的に断食することになったのですが、ふと、胃腸を休ませることと断食の意味について考えさせられました。病気の場合、食べないことによって消化の負担を減らして体の回復にエネルギーをまわす訳ですが、断食の祈りについても、主との会話にすべてのエネルギーを使うということで信仰の回復や確信を得られることに繋がるのかもしれないなと思いました。

さて、今日はルカによる福音書から不正な裁判官の例え話についてお話しさせていただきます。
この例え話には知人と何らかのトラブルになったやもめが必死に不正な裁判官に訴える話からキリストが絶えず祈る信仰について語っています。イースター(主の復活)から3週間、ペンテコステまであと、4週間となります。皆さんは福音の力を求めて祈り続けているでしょうか。今日の例え話は聖霊を求めて祈っておられる方にちょうどよい箇所かもしれません。

■ルカ18:1~8
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

当時のユダヤ人社会において裁判権を持っていたのはサンヘドリンという組織で、サドカイ派、ファリサイ派の律法学者など71名で構成されていたと言われています。このサンヘドリンはローマ帝国統治下で自治権を有して民事・刑事において最高裁判所の役割を担う議会体でした。聖書にサンヘドリンという言葉は出てきませんがキリストを不当に裁いて罪に定めたのも彼らで、パウロも彼らの前に立たされたことが使途言行録に記されています。
この例えの「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」というのはリアルな話で明らかに彼らに対しての皮肉になっています。実際、彼らはやもめや裕福でない人たちにこのような裁判をしていたのだろうと思います。それに対して神はそのような人たちを放っておかず速やかに裁かれると言っています。

ここまでは良いのですが…
最後に「果たして地上に信仰を見いだすだろうか」とキリストが言っているのが気になるところです。

どういう意図でキリストはこんなことを言われたのでしょうか。


【まとめ】

今、バイブルクラスの皆さんで聖書通読プランに参加させていただいていてエレミヤ書、哀歌、エゼキエル書と読んできたところです。バビロン捕囚前のエルサレムのユダヤ人たちが預言者エレミヤ、エゼキエルの言葉に聞き従おうとせず神がエルサレムに災いを下そうとするのを信じようとしませんでした。彼らは偽預言者の楽観的な偽の預言を信じ込んでしまったのです。
前回も偽預言者について少し触れましたが、彼らがはびこるのは人の信仰姿勢に要因があるのです。「神はきっと、こうに違いない」、「これこそ神の計画に違いない」、「神ならこうしてくれる筈」というように人は信仰と言いながら刻んだ像を造ってしまうのです。私たちクリスチャンは偶像を拝まないかもしれませんが、自分のために刻んだ像を造るという行為は知らず知らずのうちにやってしまいがちなのです。

私たちは主の手が延ばされるまで諦めずに祈り続けなければなりません。
なぜなら、その時、真に信仰が試されるからです。キリストは「速やかに」と言っていますが、これは神の計画において遅れることがないということです。でも、そのわずかな間をなかなか待てないのが人間なんですね。
この例え話は勘違いしがちなのですが、「諦めずにしつこく祈れば願いが叶う」という趣旨のものではないと思います。やもめも正しい人とは決して言えないからです。この話の趣旨は冒頭の「気を落とさずに祈る」というところにあるのです。ですから、このやもめの行動は極めて人間的で誤りなのです。
本当に求められているのはどんな状況においても気を落とさず祈り続ける信仰です。

もうひとつ、現代におけるクリスチャンが試されているパレスチナの問題をお話しさせていただきます。
少しバイブルクラスのなかで触れましたが、パレスチナの問題について多くのキリスト教徒はイスラエルの戦闘行為は否定するもののイスラエルという国家を概ね支持していると思います。しかし、超正統派といわれるユダヤ人は現在のイスラエル国家を認めておらず、建国記念日を祝いません。超正統派の彼らはイスラエルという国は人によって造られるものではなく、神のみによって建てられるのだと信じているからです。
しかし、世の中の人々は預言書にあることを人の持つ力で何とか実現しようと画策しているように見えます。軍事力を持った国がキリストの名のもとに自らの力に頼るのは果たして信仰と言えるのでしょうか。
キリストが最後に口にした懸念はここにあるのではないかと私は思います。

■エレミヤ9:22~23
主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。

人の浅はかな知恵、頼るに足りない力、僅かばかりの地上に富に頼る者は恥を被ることになります。
神の計画は必ず人の考えや浅い知恵を遥かに越えて成就し、すべての者がそれを成したのは主、ご自身であるということを知るようになるのです。

私たちが主に祈り願うとき、何かを前提として祈っていないでしょうか?
その祈りは自分の考えや自分自身のためになっていないでしょうか?

私たちが祈り続けるうえで大切なことは、それらすべてをまず、離れることではないかと思います。そして、人の目に見えない主の道を目覚めて探ることだと私は思います。主を知るときに主、自らが働かれていることを知り、それは決して遅くならないことを確信することができるのではないでしょうか。

目に映ることに惑わされず、目覚めて主と道を探る祈りを絶やさないようにしていきたいです。
ただ、主のみを待ち望む信仰を与えてください。


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