言葉を食べる 私になる
午後、雨の中傘をさして散歩に出かける。
かなりの雨だ。なにもそんなときに行かなくても、と自分でも思う。
それでも、雨の中1時間以上家の近所を歩き回った。距離にして6kmほど。
傘をさしていたとはいえ、足元はずぶ濡れだった。
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休日はよく散歩に出かける。もともとは運動不足の解消のためだったはずだ。しかし「今となっては歩くことが目的ではなくなっているな」ということに今日改めて気が付いた。
ラジオを聴きたいのだ、一人でゆっくり。ついでに散歩している。
ラジオといってもまあ正確にはradikoやSpotifyだったりするのだが、ある程度の長さの番組を集中して聴こうと思うと、散歩している時間がちょうどいい。
家だと細かい雑用が発生したり家族に話しかけられたりするので、どうしても中断したり細切れになってしまう。
よく聴くのは「オードリーのオールナイトニッポン」、「ハライチのターン!」、燃え殻さんの「BEFORE DAWN」など。最近朝井リョウさんと加藤千恵さんの「信頼できない語り手」のおもしろさにも目覚め、アーカイブを遡って聴いている。
おもしろそうなものは他にもたくさんあるが、全部は聴き切れないのでおさえている。ポッドキャストまで掘り出すと時間がいくらあっても足りない。
ラジオを聴きながら歩いていて、おもしろいところがあれば「ぶふっ」と噴き出してすれ違う人にびっくりされることもある。ポーカーフェイスを装ってもたぶんニヤケが隠しきれていないと思う。(気味の悪い中年だ)
また意識が耳(=話)に集中しているので、知り合いが前から歩いてきていても、すれ違うギリギリまで気が付かないこともある。
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人間の体が食べたもので出来ているなら、人間の言葉も見たり聞いたりした言葉で出来ている。
目から耳から、言葉を食べている。
私が夢中になって聴いているラジオの言葉の多くは、私自身がこうして書く文章にも大なり小なり影響を与えているはずだ。
私という人間は、そうした言葉によって形作られている。
「どんなラジオをおもしろいと思って聴いているか」は、「どんな文章をおもしろいと感じているか」にも繋がっていると思う。感性の根本は同じである。
自分という人間を知る手掛かりは、そんなところにもきっとある。
