One Day その時僕はラジオの現場にいた 第一章 AD時代 第4話 サウンドステッカー
「何かカッコいいステッカー出して」
制作会社の社長であり、チーフディレクターでもあったT.Hさんから、H.Hさんに指示が飛ぶ。
そうか。初めてスタジオ見学に来た僕に「FM横浜」のステッカーをくれるのだな。
それは嬉しいなあ。
などと、呑気に思っていた。
もちろん、まったく違った。
ステッカーとは、サウンドステッカーのことだった。♪FMヨコハマ〜♬ のように、局名や番組名を短いフレーズで流す音素材のことである。ジングルとも呼ばれていた。局名をメインにしたものは、ステーションジングルという。
僕は、その“サウンドステッカー”を、本当にシールのようなものだと思っていたのだ。
今思い出しても恥ずかしい。
……いや、知らないのだから仕方がないのだけれど。
ラジオの生放送スタジオは、思っていたよりずっとシンプルな場所だった。
中央には大きなミキサー卓が置かれている。けれど、僕がそれまで見てきた音楽スタジオに比べると、むしろ機材は少なく見えた。
テープレコーダー。CDプレーヤー。レコードプレーヤー。
それらが整理された形で並んでいる。
ただ、その連動の仕方には圧倒された。
ディレクターが合図を出す。するとミキサーがフェーダーを「グンッ」と押し出す。その動きに連動して、テープレコーダーが回り始める。
音が立ち上がる。
その瞬間、スタジオの空気ごと動き出すように見えた。
H.Hさんはテープレコーダーのガイドを押し込み、キュルキュルという早送りの音を聞く。
必要な場所まで来ると、今度はリールを指先でゆっくり回す。
「グニュッグニュッ」
テープがヘッドをこする音だけを頼りに、音の頭を探していく。
まるで職人だった。
「これだ」
という場所を、身体で探しているように見えた。
もちろん“てきとー”などではまったくなく、番組の流れや時間、その前後の空気まで考えた上で「今ここに最も合うもの」を選んでいるのだ。
どこにどんなサウンドステッカーが入っているのか。H.Hさんは、完全に身体で覚えていた。
「Tさん、準備できました。〇番のテレコです」
スタジオには、複数のテープレコーダーが並んでいた。
番組テーマ用。コーナーテーマ用。交通情報用のBGM。そしてサウンドステッカー用。
それぞれ役割が決まっていて、H.Hさんはその全てを把握しながら動いていた。
今思えば「音を出す」タイミングには相当な緊張感があったはずだ。
けれど、その時の僕は、まだそこまで感じ取れてはいなかった。
それは多分、T.Hさんの作る空気や、H.Hさんの細かな配慮によるところが大きかったのだと思う。
現場は、何事も起きていないように見えた。誰も慌てていない。何も問題など起きていないように見える。
けれど実際には、その“自然に見える状態”そのものが、必死に作られていたのだ。
そのことを本当に理解するのは、僕自身が正式にADとして現場へ入ってからだった。
後になって聞いた話なのだけれど、一流のホテルマンは「ありがとう」と言われることが、最高の接客だとは考えないらしい。
客が何かを頼む前に、二歩先を読んで動く。
そして客自身は、その配慮にすら気づかない。
何も引っかからず、自然に時間が流れていく状態。それが理想なのだという。
ラジオの生放送も、どこか似ていた。
空気が乱れないこと。
時間が自然に流れていくこと。
パーソナリティーが気持ちよく言葉を出せること。
もちろんリスナーに緊張を感じさせないこと。
その裏側では、スタッフが秒単位で動き続けている。
そのことを、僕は後になって嫌というほど思い知ることになる。
ただただ圧倒された、初めての現場見学だった。
番組が終わる。
するとT.Hさんが近づいてきて、大きな手で僕と握手をしながら言った。
「君とは、うまくやっていけそうだ」
そのまま、ぶんぶんと手を振る。
今思えば不思議なのだけれど、その日、T.Hさんとはほとんど話をしていない。
けれど、業界の人間というのは、そういう空気で相手を見るのかもしれなかった。
何となく「プロに認められた」ような気がして、嬉しかった。
「細かい段取りはHに聞いて」
そう言って、T.Hさんはまた次のスタッフへ声をかけに行った。
H.Hさんが僕の方を向く。
「それじゃあ、来週から来てもらおうと思います。朝は六時半にスタジオ入りで。電車は大丈夫?」
始発でなくても、十分間に合いそうだった。
来週から、自分がここへ来る。
そう思った瞬間、急に現実味が押し寄せてきた。
恐怖でしかなかった。
H.Hさんは「基本的なことは、実際にやりながら教えるから」と言ってくれた。
けれど、その頃の僕は、そもそも自分が何を分かっていないのかすら分かっていなかったのだ。
何を覚えればいいのか。
どこを見ればいいのか。
何を失敗すると番組が止まってしまうのか。
そんなことすら、まだ何ひとつ分かっていなかった。
けれど不思議なことに、恐怖心と同じくらい、それ以上に、好奇心のようなものも湧き上がってきていた。
知らない世界が、まだその先にある。
その中へ、自分が入っていく。
怖かった。
でも、それ以上に面白そうだった。
あの時は、その一歩がどこまで続く道なのか、考えもしなかった。
One Day あの時、確かに僕はそこにいた。
