楽器の効用
もうすぐ三味線で初舞台を踏むことになる。
今までは、舞台を用意することばかりだったので、自分が演者になるのはちょっと不思議な感じ。「初舞台」という言葉も気恥ずかしい。
演目は「勧進帳」。
実家のお隣の市、小松市の「安宅の関」ゆかりの演目である。母が小松出身だったこともあり、子供の頃から勧進帳には慣れ親しんできた。
敢えて「初舞台」を経験しようと思った訳には、そんなこともあった。しかし稽古していくうちに、思いがけない気づきや発見があった。
このnoteは、備忘録としてそのプロセスを書いたものである。専門的すぎる部分もありますが、お許しを。
なぜ三味線に行き着いたか?
若い頃はエレクトリックベースを弾いていた。結婚してからは、出産に子育て、仕事と暇がなくなった。
そのうち火事に遭い、ベースも焼けてしまったので、自動的に演奏する機会も消えた。そこからはずっと聴くことに専念してきた。
50歳過ぎてから、「楽器をモノにするなら今」と思い立った。電気を通して演奏するのはもういい。でもウッドベースだと大きすぎて置く場所がない。猫の爪研ぎになるかもしれない。かといって他の楽器は思いつかなかった。
ある友人から「今からやるなら、断然日本の楽器がいいよ。三味線なんか合うんじゃない?」と言われた。特に馴染みが深いわけではなかった。津軽三味線のような民謡はかっこいいけれど、そういうのを弾きたいわけじゃない。以前歌舞伎を見に行った時に、演奏に痺れた記憶はあった。三味線や鳴り物がかもすグルーヴに鳥肌が立った。子どもの頃、合奏が好きだったのを思い出した。
長唄の師匠
検索して見つけた、市内の長唄の師匠のところに通うことになった。
「ベースと三味線、よく似てますよね」と言われ、初めて2つの楽器の共通点に気づいた。どちらもメロディも奏でるが、リズム楽器の要素もある。縁の下で支える存在。そういう役割に、なんとなく愛着を持っているのかもしれない。考えてみれば、仕事でもそういうポジションがほとんどだった。
三味線はバチで弦を弾いて音を出すが、結構不自然な型を取る。綺麗に音が弾けると「ばちん!」といい音がするが、譜面通りに弾くのが精一杯で、なかなかいい音を追求できなかった。それでも譜面が音に変わっていくのが
面白くて(師匠も乗せるのがお上手で)、気がついたら3年経っていた。
今までは練習不足を理由に人前で演奏するのは避けてきた。ただ、そういう機会を作らないと上達しないと、色んな人から聞かされてきた。スイッチを切り替えるなら、今だ。そう思って秋の市民文化祭に出ることに決めた。
腹を括ったら気になってきた
決めてからはできる限り毎日、忙しくても2日に1回は弾くようにした。
譜面通り一通り弾けるようになると、欲が出てくるものだ。難しい箇所でもスムーズに流れに乗るにはどうしたらいいか、どういう姿勢で弾くのがいいか、手の形をどう持っていけばより弾きやすいか、など気になってきた。
正座して弾くのが一番安定するが、本番は椅子である。そうなると、椅子にどう座って弾くと、正座して弾いているときのように安定するのかという研究もしておく必要がある。
気になりはじめるとかえって、力が入るわ、いちいち緊張するわで、稽古した後はぐったり疲れていた。こんなんじゃ身が保たないな、とおもっていた矢先、師匠から弾き方の細かい指南を受けた。
曰く、
・まず、手の力を極力抜く。
・あくまでも姿勢の中心は腹。右手のバチの方に体が寄っていかないように。
・親指だけで弾くのは避ける。(手先に集中すると、無理をして腱鞘炎になる人もいる)
・バチを持つときは、基本親指と中指でバチを保ち、小指は曲げてバチに添える。親指に軸はあるものの、動かす起点は手首。最終的に肩甲骨から腕を通って腕全体で弾くつもりになるように。
・弦を弾いたら、音が響くように指をバチから放す(ミュートを解除する)。弦を下からはじくときは、中指を軸にする。

師匠からは「手にものすごく力が入ってますね」と言われた。自分では、それでも力を抜いていたつもりだったので驚いた。もっともっと最小限の力でいい。そのほうが、繊細なニュアンスや早いフレーズがうんと弾きやすくなるとのこと。
自然に任せる
師匠は「偶然そこに弦があって、バチが当たった、くらいの感じで、自然に任せて弾くのでいい。リズムに身をまかしてしまっていいんです」と教えてくれた。なんだか、スーッと解放されたような気がした。その後弾いた「滝流し」(ソロのようなもの)はいい意味でとても楽ちんだった。気持ちの良い畦道を鼻歌交じりでスキップしているような心地だった。

よくよく考えてみると、今までの自分は、なんでも力づくでやることを「精一杯やること」だと思い込んでいた。「そうじゃない」と意識では分かっていながら、そのデフォルトから離れることができていなかった。
どこかに「強い意志を持って、隅々まで意識を張り巡らしてないと、うまくいかない」という強迫観念のようなものがあったのだと思う。「思い通りにやればうまくいく」神話の信者だったのだ。しかしどんなことも、まず思い通りに行かないのが現実。仮に思い通りになったからといって、「いい音」「いいパフォーマンス」になっているかどうかは、また別の問題なのだ。
自分の身体も含めた自然を、もっと信頼すればいいものを、不出来な意志で固めようとしてしまう自分がいた。
意識してできること、意志を強く保ってできることには、すぐに限度がくる。それだけではない。弦にバチを当てたら、すぐ手を離して解放しなければ、音がミュートして潰れてしまうように、意志の力で流れを阻害することだってしばしばある。
嗜みとしての稽古
実際、人間の無自覚の力は、意志よりもずっと優秀だ。春が来ると芽が出てくるのと同じような精密さで、自分たちの身体も無自覚に変化している。そのような自然の力が自分の身の中にもふんだんに存在する。意志でどうにかするより、無自覚の力を使った方がはるかに効率がいい。
古来、素人が芸事を稽古することは「嗜み」だった。それは自然に身を任せ、自然を模倣する機会、意志したことを一旦手放し、何かがやってくるのを「待つ」訓練として捉えられていたのかもしれない。
つまり「人生は思い通りにはいかない」ことを身をもって体験し、人生も自然の一部であることを自覚することで、人の驕りを戒める。そんな意味も込めて「嗜み」だったのではないだろうか。
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楽器は面白い。音が色々なことを教えてくれる。音楽はずっと身近で生活を支えてきてくれたけれど、能動的に接し、より音に深く集中する機会ができたおかげで、思わぬ副産物が得られた。
自然に身を任せること、身体の中にも自然に共鳴する感覚があること。
それらに気づけたことは、大収穫だった。
あとは安宅の関にあやかって、つつがなく初舞台を渡れるように祈るばかりである。
