バカの壁を積んで、俺の壁は本棚だった
本棚の前で立ち尽くしたことがある。
ふと気づいたのは、タイトルだけ知っていて一度もページを開いたことがない本が、20冊以上あるということだ。
その中の一冊が「バカの壁」だ。養老孟司著。2003年刊行。累計400万部以上売れた、日本の新書界の化け物みたいな一冊だ。俺の本棚には数年前から鎮座している。読んだことは一度もない。
この本のことは、読まずに語れる
書評を3本は読んだ。Twitterで誰かが引用しているのを見た。飲み会でも話題になった。だから内容はだいたいわかっている。でも「読んだか」と聞かれたら正直に言えない。ページをめくったことがないからだ。
内容を一言でまとめるとこうだ。「話せばわかる」は嘘だ。人間の脳は、自分が理解したいことしか理解しない。聞きたくない情報は、物理的に耳に入っていても脳が処理しない。これが「バカの壁」の正体だ。
養老先生はこう続ける。知識を積み上げれば賢くなれるわけではない。見たいものしか見えない壁が、誰の頭の中にも存在する。学歴も年齢も関係ない。そういう本らしい。
正論すぎて、反論できなかった。だから積んだ。
実は積んだことにも理由がある。「壁は誰にでもある」という主張は、俺の積読を許してくれているような気がした。「バカの壁がある俺が読めないのも仕方ない」という解釈で、この本は俺の積読を正当化する道具になってしまった。著者の意図とは真逆の使われ方だと思う。
俺が「バカの壁」の実例になった瞬間
ある日、職場の同僚に言われた。
「お前、毎月本買ってるけど、読んでるの?」
俺は即答した。「いや、でも本があるだけで安心感があるんだよ。買うことに意味があるというか、一種の投資みたいなもんで。」
相手は「……ふーん」と黙った。
俺はそのとき、完全に「バカの壁」の中にいた。
「読まないなら意味ないんじゃないか」という言葉を、俺の脳は「安心感」「投資」という単語でシャットアウトした。聞きたくないことは聞こえない。養老先生の言う通りだった。ページを一度も開いていないのに、その本の主張を自分の行動で証明してしまった。
読まずして体現した。これを積読界の極地と呼ぶ。
同僚はその後も時々「本読んだ?」と聞いてくる。俺は毎回「読んでる途中」と答えている。どの本のどの途中なのか自分でもよくわからないが、「読んでいる途中」という状態は永遠に継続中だ。始まってもいないし、終わってもいない。それが積読の哲学だ。
積まない理由が「バカの壁」そのものだった
この本を読まない理由を正直に書き出してみた。
- 読む時間がない(毎日スマホを2時間以上触っている)
- 他に読みたい本がある(その本も積んでいる)
- 内容はだいたいわかっている(書評で読んだレベルだが)
- 新書って文字が詰まっている気がする(表紙しか見ていない)
全部、バカの壁だった。
「自分の積読は問題だ」という事実を直視したくないから読まない。読んだら自分のバカさを認めることになるから積んでいる。積む理由が、その本が批判している人間の行動そのものだった。
完璧な構造だと思う。
それでも撤去しない理由と、少しだけ前向きな話
「バカの壁」は今日も本棚にある。処分しようと思ったことは一度もない。
本がある限り、読む可能性はゼロではない。捨てたら可能性がゼロになる。本棚に積んでいる間は、俺はまだ諦めていない。
養老先生は言う。壁を越えるのは「本当にわかりたいと思った瞬間」だけだ、と。俺がこの本を読む日は、自分のバカさを正面から認める覚悟ができた日だ。本棚に積んでいる間は、その日を待っていることになる。
本棚に置いておくことは、いつか読む機会を捨てないことだ。一生積んでいたとしても、死ぬ前の3分で気づくことだってある。可能性はゼロじゃない。積読は、願いの保存だ。
気になった人は読んでくれ。俺の代わりに感想を教えてもらえると、俺の壁越えの参考にする。
あなたの本棚にも、タイトルだけ知っている本はあるか?コメントで教えてもらえると嬉しい。
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