か カミュ「転落」5日目〜クラマンスとはいったい誰なのか
我々はナチス占領下において、初めて自由であった。
一読理解に苦しむ、サルトルの有名な言葉である。その意味するところは、ナチス占領下で、フランス人ひとり一人が、ナチスに協力するのか、レジスタンス活動をするのか、何もしないでただ沈黙するのか、自由意志で決定を迫られた、ということである。
サルトルの言う自由とは「何をやってもいい」という意味ではなく、「何をすべきか自己決定をする」という意味なのだ。
では、
「転落」の中で、クラマンスは自由について、どう喋っているのか。
「裁判官を前にひとり座り、自分自身と向き合い、他者の裁きに晒されながら、ひとりきりで物事を決めること」
サルトルの自由意志と何やら近いようにも思える。違うのは、その後だ。
サルトルは自由な意思決定のもと社会参加(アンガージュマン)せよ、と説く。つまり思っているだけでは駄目で、実際行動せよと。
が、クラマンスは自由など個人が抱えるには重すぎると考える。むしろ人間は奴隷として生きるべきだ、と言う。自らの意志で行動することを否定するのだ。何か、誰かの意志に従属せよ、隷属せよ、と説くのだ。
二人の考えは違うようだ。
が、本当に違うのか。二人は別人であるのか。
まず言っておこう。
クラマンスはカミュではない。
女好き、スポーツ好きであるところはカミュに似ているが、根本のところでクラマンスはカミュではない。
では、クラマンスとはいったい誰なのか。
1日目、クラマンスは話し相手になる男に会ったとき、ふたつの質問をした。
財産はお持ちですか?
それを貧民と分かち合ったことはありますか?
一つ目の回答は、いくらか。
二つ目の回答は、ない。
それを聞いてクラマンスは男をサドカイ派と断じる。
特権階級にいて神を信じていない。ブルジョワで無神論者。
そしてまた、彼は共産主義者でもない。彼は貧者に何も与えない。
クラマンスは絶好の獲物を手に入れる。
クラマンスは言う。
「自分は告解者にして裁判官である」と。
この言葉の意味を伝えるため、クラマンスは男に長いひとり語りを始める。
ここで言っておく。
このフレーズが使われたのは「転落」が最初ではない。「転落」の前のエッセイで、カミュは既にこのフレーズを使用している。
では、誰に向かって?
実存主義者たちに、である。もちろんサルトルも含まれる。カミュは彼らを揶揄する言葉として、罵倒する言葉としてこのフレーズを使用した。
告解者にして裁判官。
フランスの実存主義者たちは、自分がブルジョワのくせにブルジョワ打倒の革命を叫び、今まで貧者に財産のこれっぽっちも与えたことのないくせに、共産主義を標榜する。
敬虔な信者であるふりをしながら、その実、無神論者である。
言ってることとやってることが違う。どの面下げて、ブルジョワであるサルトルが、同じブルジョワを批判できるのか。
そこで実存主義者サルトルたちは、ウルトラな論理方法を発明した。
告解者にして裁判官になること。
彼らが、そうなることの目的は、自分だけ裁きから逃れることにある。自分の罪を自分自身に留めず万人に敷衍し、断罪を溶かし薄めてしまうことにある。
順番が大切である、
先に裁判官になったものは、いずれ必ず己の罪を悔いる告解者にならねばならない。
自分が裁いた論理により自分が裁かれるわけだ。
ならば、先に告解者の務めを果たしてから裁判官になればいい。
あらゆる面から自分を批判して、その肖像を鏡として相手に差し出す。これが私の姿です。そして、これが我々の姿なんです。私とあなたは同じ穴の狢です。さあ、あなたもあなた自身を裁きなさい、と。そして、その時点ですでに、彼らは被告席にはいないのだ。
この解決策で、彼らは彼らの全てを許すことができるようになる。先に告解したことで、相手より優位に立てる。
クラマンスは言う。
ああ、なんと幸せなことか。
クラマンスは、ヘントの聖バーフ大聖堂から盗まれた名画を隠し持っている。名画は「正しき裁き人」という題で、裁き人が「神秘の子羊」を見に行くところが描かれている。子羊は胸から血を流し、血は聖杯に注がれる。子羊とは勿論キリストのことであり、流れる血は人間の原罪を贖い、十字架で流れたキリストの血の犠牲を表す。
子羊はまっすぐこちらを見つめている。自分の罪を見つめよと。裁き人はそのキリストの、キリスト教の精神を確かめに歩みを進めていたと思われる。その「正しき裁き人」部分の絵をクラマンスは秘匿している。聖バーフ大聖堂には、複製画がかけられている。
クラマンスは言う。
もはや神はいない。潔白は十字架の上、正義は戸棚の中。この状態はまさに我々の現在の秩序を表しているじゃないですか。
「正しき裁き人」はクラマンスの手にある。彼は神と切れた裁き人なのだ。彼が狙うのはブルジョワで、自分のものを分け与えたことのない人種だ。クラマンスは彼らに近寄って、嘘も交えた告解を行い、同情を引き、最後に「あなたも同じだ」と裁きを行う。
告解者にして裁判官。
それがクラマンスのしたことである。またそれは実存主義者であるサルトルがしたことなのだ。
では、隷属とは何か。クラマンスが実存主義者たちならば、彼らは何に隷属するのか。
実存主義者たちは、自身の自由意思によって、自由に行動するのではなかったのか。
たぶんカミュには、そうは見えなかった。彼らは隷属している。何に?
勿論、共産主義に、である。
カミュはクラマンスに自分を投影した。しかし、それは表面上の似せ姿であって、クラマンスの本質は実存主義者サルトルなのである。
そしてまた、彼らの唱える自由は、奴隷の自由なのである。
「転落」したのはだれか。小説を通して、カミュは実存主義者たちに答えたのだ。
カミュが交通事故死したあと、サルトルは「転落」を評して言った。
「おそらく最も美しく、かつ最も理解されていない傑作」
これ以上の論評はしていない。だから、この言葉の意味はわからない。
