か カミュ「転落」4日目・後半〜呪いの洗礼
ネタバレあり
主人公の名は、ジャン゠バチスト・クラマンスと言う。意味は「荒野で叫ぶ(教えを説く)者、洗礼者ヨハネ」だそうだ。ヨハネはキリストを洗礼した。
ヨハネは領主ヘロデ王の不倫結婚(弟の妻と結婚した)を糾弾し捕えられた。妻の連れ子サロメは王の前で見事な踊りを披露し、その褒美にヨハネの首を要求した。オスカーワイルドの戯曲によると、サロメはヨハネに恋しており、つれなくされたので、その意趣返しに首を求めたことになっている。実際はよくわからない。
いずれにしても、ヨハネは倫理を重んじ、王を糾弾したことにより殺された。
名前の由来がそうであるなら、クラマンスは道徳的であり正義の人でなければならない。なのに彼は自己満足のために偽善を行い、愛を弄び、目の前の不幸を見てみぬふりをする。
カミュはクラマンスに何を糾弾させようというのか。
彼は少女の身投げを見過ごした時から、激しい自己嫌悪に襲われ、酒と淫行の日々を送る。たびたび法廷で神を口にし弁護士の仕事は激減する。法廷は法において裁きを与える場であって、神の名において裁かれる場ではないからである。
偽善と自己満足。クラマンスを苦しめた自己嫌悪はカミュ自身にも降りかかっていた。
戦時中からの朋友であったサルトルに、カミュは自著「反抗的人間」を酷評される。
「反抗的人間」の要旨はこうである。
世界は不条理である。我々はその不条理に常に「ノン」を突きつけなければならない。「ノン」と反抗することによって、世界には意味が宿り、新たな価値観が生まれる。ただし、そこに暴力があってはならない。あくまで節度を持って、他者と価値観を共有しつつ、世界をそのつど、意味あるものとしていかなければならない。
対して、歴史を信じるサルトルは、その進歩のためには、たとえ血が流れても革命を起こすべきだと唱えた。カミュは一滴の血も暴力も否定する。サルトルはカミュの姿勢を偽善者、自己保身、自己満足、自分だけ安全なところにいて、理想論を掲げる輩だというふうに論難する。たぶんカミュも、その非難の意味が痛いほどわかっていた。
連合軍によってパリは解放された。ノルマンディでは多くの血も流れた。本来のパリが、フランスが、ヨーロッパが取り戻せたのは、間違いなく暴力、力の結果であった。その記憶も新しいフランスのジャーナリズムが、サルトルとカミュ、どちらに軍配をあげたかは明らかだろう。カミュは結核を患っていたので、戦闘にも参加していない。レジスタンス運動はおこなったが、それは地下言論においてだけであった。
サルトルにはカミュの唱える言説は絵空事に見えたことだろう。カミュ自身もそのことを分かっていたが、しかし敢えてカミュはその絵空事を貫く。
カミュはサルトルへの再反論を結局しなかった。「転落」は、小説の形で、それを試みたものなのかもしれない。が、結末はまだ読んでないのでわからない。
私は、言論空間において、絵空事、綺麗事と言われても、それを唱え続けることは必要だと思う。往々にして、現実と折り合わなくてもだ。人間の究極の場所として、そこはお花畑であってほしい。そうでなければ、いったい人はどこへ進めというのか。
ただし、それが正しいからと言って、自分と相容れない意見を封殺するのは良くない。違う意見の者を拘束する。意見を表明させない。演説を妨害する。本を出版させない。個人攻撃をする。それは絶対にあってはならない。
あなたの言うことには賛成できないが、それを言う権利は命を懸けても守る。〜ヴォルテール
ジャーナリズムの判断に関わらず、サルトルをとるかカミュをとるか、それは個々が判断すべきことなのだ。それしかない。それしか方法はない。
放蕩生活のなか、クラマンスは海で黒い点を見、溺死体だと思ってしまう。あの橋から身投げした少女の。
これをクラマンスは呪いの「洗礼」だと思う。いよいよ自分の罪状を受け入れなければならない時が来たと。
自分は「不弛緩室」に閉じ込められている。体を伸ばすこともできない牢獄に。
もはや神の裁きは必要ない。最後の審判はすでになされたかもしれない。
かのキリストでさえ、十字架にかけられた時叫んだではないか。
「神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」
ルカが削除したからこそ、有名になった言葉。
彼は行ってしまった。あとは我々でやるしかない。人々はもう誰のことも無罪放免にはしてくれない。我々は次から次へと十字架にかけられている。
現状を評して、クラマンスはこうも言う。
「デカルトが住んでいた家がありますが、今はどうなっているかご存じですか? 精神病院です」
神の助けもない。前代の哲学も役に立たない。人々は誰彼なしに裁判にかけようと虎視眈々と狙っている。どうすればいい。どうすればいいのか。
クラマンスは、唯一の解決策を自分は持っている、とほのめかす。
次話、最終回。
